part.2
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僕がこのような恐ろしい状況に追い込まれるに至った経緯を書くには、時間を少し巻き戻さなければならない。まだお昼前のことだった。
すっかりルーチンと化した講義が終わり、ゼミ室前まで戻ってきた時、僕は部屋の前で佇む安部君の姿を認めた。
「――」
スマホを片手に、どうやら通話中らしい。修士課程の2年生、安部公造君。我らがH大学S研究室のメンバーの一人で、礼儀正しい、律儀な青年だ。
と、彼は僕に気付いたらしく、軽く会釈をしてきた。僕は口元を緩め、片手でそれに応える。
安部君の話し相手は、口調からして、年頃の近い男友達のようだった。なぜガールフレンドでないと思ったかというと、相手の低い声も漏れ聞こえていたから。内容までは分からなかったけれどね。
僕は彼の前を通り過ぎ、扉を開けた。十人も入れば窮屈に感じるほどの広さの部屋には、人の姿は見当たらない。中央には、長机と椅子が数脚あるのだけれど、その一角にコーヒーカップが置かれていた。向かいの椅子に腰掛ける。
がちゃり、と、すぐに安部君は戻ってきた。
「もういいだろ。切るぞ。じゃあな」
ややうんざりしたような、抑え目のトーンで相手に別れを告げる。彼はしばらくスマホを耳に当てたままにしてから、ポケットに入れた。
「間の悪い電話だったんだね」
「まったくですよ……って、え」
正面に座った安部君は、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。僕は少し得意顔で続ける。
「コーヒーを飲もうとしたところを、電話に邪魔されたんだろう?」
「……不思議だ。黄さんから聞いたんですか」
「私は何も言っていないわよ」
パーテーションで区切られた奥から、唐突に人影が現れた。やっぱり、いたんだ。彼女はこの研究室の秘書さん、黄泉さんだ。
お盆に一杯のコーヒーを乗せている。僕の分を淹れてくれていたらしい。厚意には、ありがたく甘えることにして。
彼女に続き、僕も安部君の予想を訂正した。
「確かに黄さんがいるだろうとは思っていたけど、実は自信はなかったよ。あまりにも見事に気配を消すものだから」
「分かります。俺が来た時も急に現れるものだから、びっくりしました」
黄さんは僕たちの会話を聞いても、澄ましたものだ。どこで身につけたか、やたらと隠密スキルが高く、気付けば近くにいることなんてしょっちゅうだ。滅多に隙を見せないし、SecretaryというよりSecretそのものである。
安部君は顎に手をやりながら唸った。
「でも、そっか。わざわざ黄さんが教える理由もありませんしね。だったら、どうして、まるでその場で見ていたように分かったんですか?」
「簡単な話だよ、安部君」
なんて、この前、先生に勧められた小説の探偵の真似をしてみる。
「八分目まで注がれたコーヒーは、まだ湯気を立てていて、淹れたばかりのように見えた。飲み口は綺麗だったから、手付かずだろう。ちょうど飲もうとしたところに、さっきの電話がかかってきたんだ」
「待ってください。実は俺の方からかけたのかもしれませんよ? コーヒーを淹れたばかりの、間の悪いタイミングで用事を思い出した、とか」
安部君の反論は、茶化したというよりは、普段の実験の癖が出ただけのようだった。良いことだ。結論を急ぐ前に、あらゆる可能性を考慮しなければならない。
だけどその疑問にも、答えることはできるんだ。
「君は、電話をかけた時、最後にはどうする?」
「それは……あ」
「律儀な君は、必ず自分から電話を切るんだったね。電話の相手は対等のようだったし。
だけど、君は会話が終わった後もスマホの画面を押す様子はなかった。しばらく耳に当てて、相手から切るのを待っていた」
「すごい、よく見ていましたね」
静かに話を聞いていた黄さんも、尋ねてきた。
「私が部屋にいると知っていたことにも、理由がありますか」
「安部君は部屋の外で電話をしていた。だから部屋の中に他の人がいたと思ったんだ。気を遣って外に出たんだね。プライベートの電話みたいだったから」
二人は顔を見合わせた後、ささやかな拍手を贈ってくれた。名探偵みたい、と。なんだかくすぐったい気持ちだった。
だって、小説と現実とは違う。例えば、僕はもう彼らと付き合って長いし、その背景知識の分だけアドバンテージがある。小説の探偵のように、出会ってすぐに素性や依頼を言い当てるなんて芸当は、僕にはできない。
だけど、僕のミステリの「先生」なら。どんなことを見抜いてしまうだろうか。
本当の名探偵というのは、彼女のことを言うのだ。