第八話「奥会津」
翌朝。バスは出た。
芭蕉の文章にもある、有名な白河の関をこえ、奥州に入った。陸奥ノ国。
現代の東北地方は、時期によっても違うが、江戸期には三十から四十くらいの藩があった。ほとんどが外様藩であった。
ただ、会津地方を中心に治める会津藩は、徳川一門による藩である。
北の押さえとして堅固な鶴ヶ城を築き、幕府に対する東北の反乱に備えていた。
そういう性格の藩だから、万が一、周辺全部が敵になっても、あくまでも徳川の御為、籠城し、徹底抗戦するということが、江戸期を通じ、藩の第一義になっていた。
徳川体制防衛のため「最後の大隊」となる使命を持った組織である。
現にそうなった。
ただいまの当主は松平容保といい、これが最後の藩主になった。藩は後年、幕府自体が消滅したあとも戦いを続け、ついに会津戦争という最終決戦を遂行し、滅亡した。
日本の歴史上、そういう土地はほかにはない。
さて、物語のなかの大淀は、いま白河関から二本松領を抜け、会津若松の城下でバスを降り、さらに乗り換えて、鬱蒼たる木々が生い茂る、断崖絶壁の山道を、新任地・只簑に向かっているのだが……。
いましばらく、会津という土地について叙述するのを許されたい。
さきほど筆者は、会津藩が最後まで抵抗し、ついに敗亡に至った旨のことを書いた。だがそれは、会津地方全体が徳川のために戦った、ということではないのです。
主に戦ったのは、会津地方の中の、会津藩の中の、藩から家禄を得ている武家だけでした。
彼らは主君に殉ずるという、死に値する理由があったから戦ったわけですが、藩内のほかの階層の人々、たとえば郊外の百姓だとか、町人だとか、街道筋の博徒たちだとか、そういう人々は一切戦わなかったそうです。
考えてみたら、当たり前の話です。
当時の会津の大多数の人々は、藩の武士とは違い、城に住んでいる殿に対して、恩も義理も忠義もなんにもないですし、味方する利益すらもないわけですから、そんなの
おれは知らねえよ、となるのは当然なのですね。
余談が長くなった。つまり、これから舞台になる奥会津とは、歴史においても、そういう一種の強かさを持った土地であったということを確かめたかったのである。また、しばしばドラマとなり、よく一般に知られている会津若松の武家屋敷の住人たちとは、ほぼ、世界像を共有していなかったというのも、予め書いておきたかった。
大淀は、そこに向かっている。
朝早く、会津若松を出て、さらにバスに乗った。
只簑につくころには、昼になっている。
「やっとついた」
一人旅は、独り言を多くさせる。
大淀はバスを降り、トランクケースを降ろした。この時代の武士の旅装は、背中の切れ目を長くしたぶっさき羽織と野袴というもので、笠は大淀の場合、当時の江戸で流行していた韮山笠である。黒の漆を塗った扁平の笠で、折って使用したものだ。のち、軍帽として幕府軍で使用されるようになった。
「はあ、はるばる来たものだなあ……。ここ一体どこ?」
大淀は周囲の風景を左から右へと見回した。それはまさしく自然の風景であった。視界にある中で人工物というと、傾斜地にまばらに見える棚状の田畑と、バス停の標識、ベンチ、交通安全のお地蔵さんくらいしかない。あとはもう、山、川、森である。
道は一本で、このまま行けば越後へゆく。戻れば会津若松へもどる。
代官所からの迎えがだれか来るかと思い、しばらく待ったが、そういうものが来る気配はなかった。人影ひとつ見えない。猿さえもいない。
――しょうがないな。
あきらめた大淀は、その場でかがみ、車中でゆるめていたブーツの紐を結びはじめた。
結んでいると、そこへ一台の白い自転車がとまった。
自転車の後部に同色の荷物入れがついており、
――只簑代官所御用
と書いてある。マジックで……。
「やあ、あなたが大淀さんですか」
自転車を下りてスタンドを立てたのは、大淀より一回り年上ぐらいの若い同心だった。面長で額が広く、謹直そうな青年である。大淀は立ち上がった。
「はい、大淀つかさと申します。宜しくお願い致します」
「よろしく、ぼくは浅田四郎左右衛門というものだ。只簑へようこそ。――逃げたほうがいい」
「は?」
浅田は後半部分を小声で耳打ちすると、さっとバスに飛び乗った。
ぷしゅーっ。ぶうん、ぶうううーん……。
バスの扉が閉まり、タイヤが動きだした。ディーゼルエンジンの煤煙があたりを包み込む。けむたい。
去っていくバスの後ろ姿を見送ると、自転車だけがあとに残った。
「はあ、しょうがない……」
大淀は韮山笠をかぶり、自転車の荷台にトランクをくくりつけ終わると、荷物入れを開けてみた。期待通り、周辺の地図があった。
現地の地名が、道に沿って点々と書かれてある。代官所は、三本杉というところにあるらしい。
大淀は自転車のスタンドを払った。
――えーっと、こっちか。