第二話「大淀つかさ」
さて、ここで一人の役人を登場させようと思う。彼女の名前は――。
「大淀つかさ。北町奉行所、風紀犯罪対策課刑事……へえ。おたく、刑事さんかね」
江戸湾上・台場にて開かれている、巨大イベント会場の入り口で、尻端折りにねじり鉢巻という格好の太った入場警備員が、バッジに書かれた内容を読み上げ、そこにある顔写真を、目の前の人物と何度も見比べていた。
前髪を眉毛のあたりでパッツリ切ったおかっぱ頭の髪型、ひどく不機嫌そうなじっとり目と、不満げな顔立ち、富嶽三十六景の裾野のような急な撫で肩、ストンと落ちた胸まわり……など、写真と実物は寸分も違わず、つい今さっき、その辺のコンビニで撮ってきましたというような感を抱かせる。
ただ、着ている装束だけが違っていた。写真で着ている藍色の服は、同心訓練学校の生徒が着るユニフォームであるということは、警備員の彼も知っている。
それに、写真の方では四角く黒いフレームの眼鏡をかけている。今はかけていない。
「同心格探査係、生年月日・天保十年二月十四日、生国・芸州呉ノ浦……へええー、実によくできてるね。最近はこういうのも作ってくれるの、印刷所で」
「作れるのか、とは? どういうことです。バッジが偽物だとでも?」
大淀は、背が低い。自然、デブ警備員をうんと見上げる格好になり、にらむような目つきになった。黒絽で仕立てた夏羽織とは全く対照的に、薄白い顔である。
――大淀ト云フノハ、マア英才ダッタヨ。アノ頃、アア云フノハ徳川ニ多カッタネ。
後年、明治開化ののち、元幕府・軍事奉行を務めた勝海舟(安房守)が、その人物評のなかで述べている。
「北町の大淀ってのァ、東西の学問はひどくデキるし、剣の道でもソレナリだって云うから、まあ偉ェやつだとは思うヨ。しかしマア、性根のほうは宜しかァなかったネ。あんまり学が有るモンで、どっかがケツラクしてたんだろう。徳川の官僚に典型的なやつサ、官僚といえば御一新以来の政府も似たり寄ったり(中略)大淀は、すぐヒトをつかまえ、議論を吹ッ掛けたり、難癖をつけてたから、周りの人気はなかったヨ。だからああいう騒ぎになっちまったんだネ」
このときも、海舟の言う、大淀の「議論好きの性根の悪さ」が出たといえる。彼女は日頃から、自分より身分の高い人間に対して厳しいたちであったが、同時に、身分の低い者にも厳しかった。
つまり、人間全部に厳しく、寛容でなかった。
「私がほんとの役人でないというのですか? それは重大な告発ですよ」
大淀は人差し指の先で、とんとデブ警備員の胸を押した。警察や軍人が常用する脅し文句である。
「あなたの官姓名、位階勲等を名乗りなさい」
「わはは、すげーな、本物の刑事さんみたいじゃん」
だがその警備員はまるで相手にしなかった。ちなみにこのような警備員には位階勲等どころか、官職もない。雇いのアルバイトですらない。
デブ氏は、ボランティアである。
大淀はこの特異なイベント――江戸湾御台場・内外展示場で毎年開かれている「蛮書・売り買いノ市」(通称コミケ)の風紀取り締まりを命ぜられて出役したのだが、このイベント自体に対する知識があまりにもなかった。日に十万ものオタクが集まるその会場は、朝からあまりにも臭く、暑かった。
大淀は不機嫌だった。
「わたしは本物の刑事です!」
つい、声の音が高くなった。頭をタオルや変な帽子で覆った夏コミのオタクの多くが足を止めた。気が高ぶったときの大淀の声は、いわゆる「アニメ声」で、境涯が違えば彼女は声優になっていたかもしれない。化成文化以後、幕府政治の停滞からする社会不安を背景に、アニメは大衆の娯楽として大いに開花し、オタク身分を形成していた。
大淀の知らぬ間に、彼らがざわざわとし始めていた。
「おいあれは、魔法連邦捜査局少女ミラクル☆トゥエンティ・フォー♪のバウアーちゃんじゃないか?」
「ちがうね。それはアニメのなかのキャラですよ。創作と現実を混同するあわれなやつが多くて困る。だからぼくはオタクが嫌いなんだ。ぼくは子供のころ色々あった。体育はきらいだ。マスゴミは共産主義の手先だ」
「すごいっていうか声がそっくりだし完ぺきなコスプレでバウアーちゃんの中の人かなみたいな感じがすっごいする!」
「わかる! なんていうか尊い! 語彙力!」
デブ警備員も、彼らの仲間だった。オタクのサガである。劇中で多用された言い回しのひとつを引用した。
「はいはい、仰りたいことはよーく分かりますよ、バウアー捜査官。ところで私には、上院議員の知り合いが大勢おりましてねえ」
「上院議員……?」
大淀は口ごもった。この男、まさか上皇の関係者だというのか?
そんなばかなことはない。
「ふ、不届きなやつ。院の近臣をかたるとは、不敬なっ」
「お疑いになるのはご勝手に。しかし、先ほどあなたが申された通り、それは重大な告発ですぞ」
「むむむむむ……」
大淀は、やりこめられた。
デブ警備員は元のようににっこりと笑い
「そういうわけですから、一般の人は待機列に並んでください。今はサークル入場の時間で……」
と言いかけたとき、大淀が羽織の裏に手をやり、スパッ、と銀色の十手を抜いた。
その顔は真顔だった。
「見ろー! マジカル☆バトンだあーっ」
数百人に膨れ上がったオタクは、開場前の出し物と思い、喝采を送った。
「バウアーちゃん、がんばえー!」
「やれっ、タリバンと北朝鮮をぶち殺せーっ」(この台詞は映像化の際、敵をやっつけろ、に変えられました)
おどろいたのは、デブ氏である。
「おい、ちょっと待ってくれ。それは違法だ。会場には持ち込めないぜ」
そうなのである。
江戸時代を通じ、十手は奉行所の与力と同心だけが所有を許され、警察権の象徴であった。従って「マジカル☆トゥエンティフォー」のグッズ商法でも、十手は販売されていない。おもちゃでも、一般人が持つと重罪に問われるのだ。
「いや、わたしは刑事なんですよ、本当に。なんで信じないんですか」
「止まれ、それ以上近付くな。至急応援たのむ、武器を持った不審者がいる」
デブ氏は二、三歩うしろへ下がりつつ、無線で応援を呼んだ。大淀は十手を頭の上に掲げ、さらに右手を懐に入れた。再び出したときには、ベレッタ自動拳銃が握られていた。
「これは本物の十手ですし、それにこれも、本物の銃なんです。なぜなら私は本物の刑事だからで……」
といって説明していたとき、不幸なことが起こった。銃が突然暴発した。
会場はパニック状態になった。
数百人から千人ぐらいのオタクが、一斉に四散した。
「ぎゃあああ、銃だあーっ」
「銃を持ってる」
「たすけてくれー!」
「走らないでください、走らないでください」
逃げまどうオタクがオタクを踏みつぶし、数分のうちに五百人ぐらいのオタクが圧死した。正確な数はよく分かりません。海に捨てたので。