第十話「渡航警告:赤」
いや、これは多分、深い友情の裏返し的な反応であろう。気鋭の幕臣として中央の覚えもめでたい榎本と、ひなびた田舎の地方代官でくすぶっている牧野とを対比すれば、そこには明白なキャリアの差があるではないか。それがかつての友なればこそ、複雑な感情が芽生えているのに違いない。
「あの西洋かぶれのインテリクソ野郎……チンカスが! また面倒持ち込みやがって。おれを舐めてんのか。だいたいなんだよ、あのふざけた口ひげは。むかつくんだよ!」
あ、やっぱり違うみたいです。
それに、口ひげが嫌いな人が世界に多いらしい。
牧野はキマった目を大淀に向け、数秒間そうしたあと、ごく自然な動作で机の上のリボルバーを取り、大淀を狙った。
「ひえええっ」
とっさに、大淀は両手で顔を覆った。撃たれる。死んでしまう。
「テメーだれだよ、どうやって入った?」
「あのっ、お、お、大淀です。わたし……」
「名前なんかどうでもいいんだよお! テメー舐めてんのか」
牧野はリボルバーの銃尾にあるハンマーを起こした。ジャキッという音とともに弾倉が回転し、銃身に弾が入った。ちなみに銃全体はプラチナシルバーで、グリップ部分は模様を彫り込んだ象牙である。
――もうおしまいだ。
言葉がなにも出てこない。大淀は虚脱した表情でその場に立ち尽くしていた。いまにも熱い尿が蒸気をたてて漏れそうだった。
「えー、その者が、江戸表よりの補充の同心・大淀つかさにございます」
根来老人は落ち着いている。
例のしわがれた声で、またさっきと同じ紹介を繰り返した。口上が、一言一句同じだった。
「補充の同心?」
牧野は初めて聞いた、という顔をした。それからまた、大淀をじっとみた。銃は手放さなかった。
「おれはそんなもん呼んだ覚えはないぞ」
「いや、呼ばれました」
根来老人は眼鏡をかけ、懐から手帳を取り出して開いた。
「六月十四日午後。御下命を賜りまして、本職が榎本武陽さま宛て書簡としてしたためましてございます」
「なんで、補充など要請したのだ」
牧野はだんだん落ち着いてきた。悪質なマリファナが抜けてきたのかもしれない。
「六月十一日午前。当代官所同心・仙石又之助が、事故により殉職いたしまして」
根来は、皮の寄った指をよぼよぼと動かし、大淀の立っているあたりを指した。
「そのへんに立っておりまして。で、死にました」
大淀はこっそりと、二、三歩位置をずれた。牧野は銃のハンマーをもどし、机に置いて、椅子にかけた。
「役立たずのカスどもが。大淀とかいったな。おまえひとまず、浅田の後任になれ」
「はい……あの、なんの後任ですか?」
その質問には、根来老人が答えた。
「川の上流のほうに、橘ノ庄という里がある。浅田はそこの保安官じゃった。仙石はその前任者」
なんだか、保安官がひんぱんに替わる里らしい。
「里の頭領は楓という女だ。最近行方が知れぬが、見かけたら話があると伝えてくれ」
「はあ、わかりました。ちなみにそこはどんな里……」
そのとき、ばんばんばんと机を連打する音がした。牧野は、袋から出した結晶をナイフの台尻でつぶし、粉状にしたものを横一列に整えていた。
「行きなされ、早くしたほうがいい」
根来老人は懐から円形のキーホルダーがついた鍵をだし、大淀に投げ渡した。
「パトカーの鍵じゃ。乗っていっていい。どうせ運転できるものがもうおらん」
「は、はいっ。ではこれにて……」
大淀は、全壊して用をなさなくなっている障子戸を、それでも一応、出ていくときには閉め、逃げるように外に出た。
パトカーのトランクに荷物をつめこみ、乗り込む。
エンジンはすぐかかった。
――えっと、地図によると。
橘ノ庄は、北にある。
山腹に見える棚田をめざして、代官所のパトカーが出ていった。車体に「御用」という文字がいくつも書かれている。
代官所のある三本杉の北面には、すぐ只簑川の流れがあり、両岸のあいだは深く抉られて、ちょっとした崖のようになっている。渡されている橋には、
――ただみのばし
と銘が刻まれており、築造年は嘉永五年とあった。十年前ということになるから、まだ新しい。
技術も最新だった。
「プレストレストコンクリート橋だ。なんでこんなところに?」
学生時代、韮山代官・江川太郎左右衛門の工学の講義を受けた際、教科書に理論と工法がのっていたのを覚えている。江戸やその周辺では鉄橋が主流で、実物をみたことはなかった。
――なんだかよくわからない里だな。
最新技術の工法で作られた橋の上を、頭にかごをのせ、テクテク歩いて通るはだしの農民や、荷物を背負った牛をひく農民などがいる。
大淀はパトカーの窓をあけた。
サイレンを一回、ぷわん、と鳴らす。農民たちは振り返った。
「あー、失礼。あなたたちは橘ノ庄の人ですか」
農民たちは顔を見合わせ、ややあってから
――そうだ。
という意味の返答をした。訛りが大変にきつい。
「私は代官所のものですが、里はこの先ですかね」
一人は頷き、一人は山の斜面を指した。
「どうもありがとう。ところで、楓さんという人を探しているのですが、いまどこにいるか知りませんか。代官所のほうへちょっと来てもらいたいんですが」
「………」
今度は、二人ともなにも反応しなかった。口をまっすぐに閉じ、四つの細い目を、やはりまっすぐ大淀へ向けている。なんとなく雰囲気がまずい。
大淀は気圧される感じを受け、口のなかが乾いた。
「いえ、あの、知らなければいいんです。自分で探しますので。ははっ、それが仕事ですしね。あの、それじゃあこれで失礼」
農民の一人がパトカーの正面にきて、手のひらでボンネットを叩いた。ばん、ばん! と二回。
大淀はおどろいた。
「ちょっと、な、なにするんです。やめなさい、逮捕しますよ」
ジャキッ、という音が耳元で聞こえた。かごを頭にのせていたほうの農民が、かごから出したショットガンのスライドを動かしたのだった。
銃口は窓のところにある。大淀は両手を肩の高さにあげた。滝のように汗が流れてきた。だらだらだらだらだらだら。
「やめましょう、暴力は。暴力はなにも生まない悲しみしか生まない。あの、言っておきますがね。わたしは新任の保安官ですよ。保安官を撃てばどういうことになるかはご存じでしょう。はは、当然いくつかの法に触れることになります。それはいずれも重罪で、たとえば幕府法第十四条の……」
正面の農民が、空に向かってモーゼル自動拳銃の弾を二発発射した。ばきゅーん、ばきゅーん!
「わかりました、わかりました、だまります。もうなにも言いません。あなたたちの望みを聞きましょう。なにがほしいんですか? なんでもあげましょう。だけど命はだめです、それ以外。ね、それで丸く収まる。一件落着、おしまいっ。お互いいいパートナーになれそうだ。もう友達ですよね」
ショットガンをもった農民がドアをあけ、小柄な大淀を外につまみだした。簡単にボディチェックをし、懐から銃と十手を抜いて、運転席に放る。それから両手を後ろにまわし、大淀の手錠を帯から取った。
「待って、そのまえにいろいろあるんですよ。黙秘権とか、弁護士の権利とか、いろいろ説明したり、ユーモラスなお話をしたりして」
農民の場合はそのあたりは略式だった。手錠をかけ、後ろのドアを開けた。
「おまえ後ろへ乗る。おれとおまえ、友達じゃない」
「またこのパターンかあ……」
後ろの席は護送用で、金網がついている。
農民二人はそこへ大淀を押し込めると、前の席にそれぞれ乗り込み、出発した。ぶろろろろ……。




