アウグスト、王都へ
アウストラルの第二王子アウグストはトマスだけを連れて自分の城を出た。それが朝の最初の鐘が鳴る四時のことだった。夏も終わりを告げようとしているこの頃は、太陽も寝坊気味でまだ少し薄暗かった。
朝の冷気に加え、アウグスト自身から漏れ出る陰の気があたりを冷え込ませるため、馬車の座席に茶色い兎の毛で覆いをかける。加えて、特に冷える足元には炭を入れた火鉢があった。アウグストは自身の真っ黒い髪の毛が映えるような、白い兎の毛の羽織を肩にかけて暖を取っていた。
「寝ていらっしゃっても構いませんよ」
「……この揺れで寝られるなんて、まったく羨ましいな」
「はっ。そのように訓練しております」
「…………」
アウグストの嫌みにも隣のトマスはどこ吹く風だ。いつものやり取りをしつつ馬車に揺られ、途中で昼食を挟み、領内最後の部下の屋敷で馬を取り替えた。さらに馬車に揺られ、八つ時の鐘が鳴る午後四時にお茶のために休憩を挟む。ここまで来れば王都は目の前だ。
次の鐘が鳴り始める頃には城下町にたどり着くことができた。ここはいつでも賑やかな場所だが、今日は晴れやかな祝いの日だ。そのため、いつもとはまた違った華やかさを見せていた。町中が花で飾られ、店々には国章の付いた垂れ布が下がっている。さらに、国王陛下からの祝いの料理が民にも振る舞われており、さながら祭りのような有り様だ。
だが、ここはまだ人が少ない方である。今日のような特別な日には城の中庭が開放されて誰でも立ち入ることが出来るようになっているために、人々は整えられた庭を、城の外観を見に足を運んでいるのだ。そして、もちろん、テラスに時おり顔を出す王侯貴族らをひと目見ようと詰めかけている。
アウグストの乗った馬車は城下町の入口近くにある役所に立ち寄った。他の貴族らもまずはここに寄り、受付を済ませたり旅の汚れを落としたり着替えたりする。城までは用意された別の馬車によって送迎されることになっているためだ。
「長旅、ご苦労だった。明日まで呼びつけることもないと思う。好きなように過ごしてくれ」
「もったいないお言葉で。ご領主様も本当に長旅でお疲れ様でございました」
「ああ、そうだな。トマス、あれを」
「はっ」
アウグストは褒美の銀子を馭者に持たせようとした。馭者はさんざんに断っていたが、「すぐに行かなければいけない」とトマスが言うと、ようやく受け取った。老骨に鞭打って長時間馬を走らせたのだ、このくらいはしてやらなければ。それに宿が取れずに役人の宿舎の一室をあてがうしか出来ないのだし。
「さて、我々も拍手の中、城まで運ばれねばならないのかな」
「はい。アウグスト様は第二王子なのですから」
「いっそ秘密通路を使うのはどうだ?」
「にこやかに、手を振ってください。こちらから馬車に乗りますが、まずはお着替えを」
「話は聞いて」
「おりません」
「…………」
トマスは有無を言わさず、自分の主人を役人のもとへ連れて行った。そしてアウグストが着替えている間に、城までの馬車を点検した。中でも、車軸、紋章の付け替え、椅子にかける兎の毛皮は入念に。馬の手綱は最重要なので端から端までチェックした。
やがて、見る者が皆ため息を漏らすほど美しい王子が馬車の前に現れた。
流れる黒髪はうなじで留められ、気だるげな瞳の色と同じ深い紫の絹が結ばれている。黒い詰襟の正装は、柔らかい光沢を放つ夜の空のようだ。その合わせを銀の組み紐が留めている。この組み紐こそ、職人に依頼した流行の先端で、紐の両側の紫水晶を嵌め込んでいる銀釦に繋がっているのだ。
青いズボンと、その青を引き立てる白いブーツに身を包んだアウグストは、まさに婦女子の好む恋愛物語に出てくる好男子であった。
「それで? 満足かな、トマス」
「完璧です、アウグスト様。あとはその口を閉じて、必要なこと以外は声に出さないようお願いします」
「えらく念を押すじゃないか」
「今日は長旅でお疲れでしょうから」
「自分で選んだことだ」
「祝い、の席ですから。たとえ、全く気に入らない、不倶戴天の、幼い頃には取っ組み合って負けたことのある妹御であっても」
「…………乗るぞ」
「はっ、仰せのままに」
アウグストは荒れ狂う胸中にも関わらず、にっこりと笑顔を浮かべると、馬車に揺られて城へ向かった。ラッパが吹かれ、馬に乗った騎士見習いが左右に付き添い、人の波をかき分けて馬車はゆっくり進んでいく。
民たちは口々にアウグストの名を呼び、手を振り、感謝の言葉もいくつも聞かれた。トマスは誇らしさに胸を膨らませたが、アウグストの冷めた目を見て、残念に思った。
すべてを凍てつかせる“魔王子”と、口さがない者は言う。確かにその身に纏う氷のような魔力と冷笑は見たものを畏縮させる。だが、本当に凍っているのはアウグスト自身の心なのだ。
(どれだけ民に慕われても、この御方の心に届きはしない……。まるで心の臓に氷の棘が刺さったようじゃないか)
とにかくこれで役者は揃った。アウストラルのロイヤルファミリーは国王陛下を筆頭に正妃オデッサと側妃が二人。持病を抱えた王太子テオドール、二の姫セリーヌ、三の姫ギュゼルらは王城に暮らしている。
離れているのは領地ゼイルードにこもりきりのアウグストただ独りなのだ。家族仲のあまり良くない彼らが一堂に会するときにはいつも何かが起こってきた。今回はいったい何が起こるのだろうか。トマスは嘆息し、気を引き締めた。