アウグストの帰還
幸福な夢を見ていた。
目覚めの前、意識の蠢動によって記憶は掻き消えてしまったけれども、それでも満たされたという思いだけは残されていた……。
「ルべリア?」
「……ぁ」
「起きたみたいだね」
ギュゼル様……、テオドール殿下。
何故お二人はわたしを覗き込んでいらっしゃるのか。
「!!」
がばっと身を起こす。
いかん、寝てしまっていたようだ。ヨダレが垂れてないだろうか? 触って確かめたが、大丈夫なようだった。
「もう、ルべリアったら。お茶も終わってしまったわよ」
「申し訳ありません、ギュゼル様!!」
「良いの。お兄様も怒ってなんかいらっしゃらないわ。モデルってとっても疲れるんでしょう?」
「しかし、わたしは……」
「気にしないの! ねぇ、お兄様の絵を見て。とっても素敵よ」
寝椅子から身を起こすと、完成したキャンバスがこちらを向いていた。油絵のタッチは荒々しくも繊細で、暗い部屋の中、寝椅子にしどけなく横たわっている赤い髪の女性が浮かび上がるように白い肌を晒している。彼女は何か問いたげな、艶かしい表情でこちらを見ている。胸の小さな太陽が蝋燭の火を跳ね返してその存在を主張していた。
「………」
「あの、ルべリア? どうかな、感想を貰えたら、嬉しいんだけど」
「テオドール殿下、これ、どうやって……」
「ああ。君が寝てしまった後に思い付いた効果で、緞帳を閉めて蝋燭の灯りで描いたんだ」
「っ……、何と言うか、わたしがわたしでないみたいで、言葉に出来ません……」
あえて言うなら、裸にされて無防備な姿を見られているような……そんな気分になる。こんなに自分が「女という性」であることを意識した事なんて今までなかったのではないだろうか。
「ルべリア……」
「あっ……!」
テオドール殿下の手が、私の両肩を持ち上げるようにぎゅっと、わたしの体を挟み込んだ。後ろから覗き込んでくる彼のオリーヴ・グリーンの瞳の奥に火が燃えているように光っている。
ハッとして、ギュゼル様を見ると、助手のハリエットと習作の素描をご覧になっていて、こちらには気付いていらっしゃらないようだ。
「テオドール殿下、困ります」
「……僕の気持ちは分かっているはずだよ」
「本当に、困ります……。っ!?」
テオドール殿下の唇が耳に触れた。
思わず体が跳ね上がる。ぞくっとした不快感が背骨を走った。
「アウグストには許したのに……?」
「っ………」
冷水を浴びせられたような気分だった。
セリーヌ姫殿下から受けた嫌がらせがまるで児戯のように思える。
「お離しください。離して……!」
「騒がないで。ギュゼルが気付く」
「そんな……」
「わざと見せつけてあげようか?」
「いや……」
先程から本気で振りほどこうとしているのに、全く抵抗出来ない。この細身にどれ程の膂力が宿っているというのか。
「ぁ!」
ハリエットがこちらを見た。助けてほしいと目で伝えたが、彼女は冷たい目でわたしを見ると、ふいと視線を逸らした。
「……そんな」
「あれは僕の腹心だからね」
残念だったね、と耳に囁きが吹き込まれる。
どうしよう、どうしたら……!
「ひっ……!」
うなじを、テオドール殿下が唇が這った。腕はまだ外れない。歯が当たって痛い……。ドレス姿のため、背剣がないのが悔やまれる。いっそ護身用の短剣で……いや、わたしは何を考えているのだ、王太子に刃を向けるなど……!
ならばこのまま為すがままでいろと……?
自問するも答えは出ない。
「良い子だね。さあ、こちらを向いて僕を受け入れて?」
「……お離しください。どうか、王太子殿下」
「どうして僕を拒むの?」
「どうか、お願いします」
「……うん、良いよ。仕方ないね」
驚く程簡単に、テオドール殿下はわたしを解放した。
信じられない……。そんな目で殿下を見ると、彼はギュゼル様を顎でお示しになった。
そうか、そろそろ夕食のために入浴や盛装の御支度の時間か……。
「これを、お返し致します」
私は首から金の太陽を外した。
「君に貰ってほしいんだけどな……」
「いいえ。受け取れません」
「命令でも?」
「…………命令、でも、です」
何とか声を絞り出す。上の御方からの命令をはね除けるなど、畏れ多くて、勝手に体が震えるのだ。
テオドール殿下の沈黙が続くにつれ、背に嫌な汗が滲む。いっそ受け入れてしまえと弱い自分が唆す。
「はぁ……。仕方ないね。諦める」
「あ、ありがたく存じます」
「ギュゼルの前で君を泣かすと言い訳がきかないからね」
顔を上げると、にこやかな笑顔の中で、硝子のような目が私を見ていた……。
◇◆◇
部屋に戻ると、わたしは寝台に倒れ伏した。脱力感が全身を襲い、全く動けない。タンジー婆やが夕飯だと呼びにきてくれたが断った。今なにか腹に入れたら吐きそうだ。
ああ、全て夢なら良かったのに。
テオドール殿下の指の力を、うなじに触れた唇を思い出すと、今でも体が震える。アウグスト様に触れられた時には困惑と羞恥はあれど、あのぞわぞわした不快感はなかった。むしろ……。
「ああ、アウグスト様……」
あの方の名を口に出すと涙が勝手に零れていく。
だが、最後に見たあの方の顔は怒りに満ちていた。あの時からわたしは……騎士ですらなくなってしまった。ただ、ギュゼル様の側にいるだけの、亡霊のような存在に過ぎない……。
もう、今すぐにでも出ていった方が……。
その時、ドンドンと戸が叩かれる音がして、タンジー婆やが叫ぶようにわたしを呼んだ。
「ルべリア、ルべリア! 騎士様がお呼びだよ!」
「まさか……」
急いで階下に行くと、トマス殿が裏口から入ってきていて大きな体を持て余していた。離れの台所はせせこましい。そんな中に大男が突っ立っているのは、いささか笑いを誘う光景ではあったが、今のわたしにそんな余裕などない。
「トマス殿! お帰りだったのですね……!」
「……!」
「アウグスト様は、あの方はご無事ですか!?」
「落ち着け。何て格好だ……」
「あっ……、す、すみません」
「アウグスト殿下はご無事だ。お前を呼んでいる。だが、来なくても……」
「行きます。すぐに、支度しますから……!」
トマス殿の溜め息が聞こえた。




