小夜更けて――アウグスト――
アウグストが目を覚ましたのは、すっかり日が暮れて、皆が夕食会の準備に奔走している頃だった。
「ルべリア……?」
「彼女は帰しました」
「っ……、トマスか」
「いったい、どうなさったというのです。たかが小娘にあんなに執着されるとは。心は預けていらっしゃらない筈だったのでは?」
アウグストはそれには答えず、夜会服を着る準備をし始めた。
トマスはそれに付いて手伝いながら、アウグストを問い詰める手綱は弛めない。
「今がどんなに大切な時期か分かっておいでか? 二の姫が三の姫を排除したとして、そんな事はどうでも宜しい。しかし、貴方様の御生母が関わっていたとしたら大きな問題です。
明後日からは魔物の討伐で、丸二日は潰れるのですよ。御生母はいかがされるのですか?」
トマスは言外に「実母であるトリシアをさっさと始末してしまえ」と言っている。
その時はダントン・ノレッジも一緒だな。と、アウグストはあの男の無様な様子を思い浮かべその末路に笑みをこぼした。
「あの女からは直接話を聞いてみたい。舞台から退場願うのも良いが、それにも踏まねばならない段階があるしな」
「そんな事を言って、何も考えておられないだけではないでしょうね」
「考えている」
「では、まだ御生母が存命でいらっしゃる今、醜聞があっては困るのも、分かっておいででしょう」
火種をいくつも抱えるな、ということだ。
「民が騒ぎ立てれば、貴方様のお立場が悪くなられる。王太子殿下の方が相応しいといった風潮になれば……」
「私としては願ったり叶ったり、だ」
「アウグスト様!」
「前にも言ったが、私は王には向かない。兄上と争うつもりもない。国のためにと言うなら兄上の方が適任だ」
「しかし」
「私に王位を簒奪させるな、トマス」
アウグストは、話は終わったとばかりに手を振ったが、トマスは引き下がらなかった。
「ルべリアは貴方様の地位に相応しくない。第二王子のままではルべリアを迎えることは叶わない筈」
「だから王に立てと? それでは暗君だ。本末転倒しているぞ、トマス」
「妾妃の一人にすれば良いのです」
「ほざけ。いくらお前でもこれ以上の侮辱は許さない」
「……!」
殺気を放つと、さすがのトマスも黙った。
アウグストとしても、トマスと争いたくはない。だが、この件に関しては一歩も譲るつもりはなかった。
「なぜ、ルべリアなんです。他に女はいくらでもいるでしょうに」
「ルべリアが良い。ルべリア以外は欲しくない」
「……どうでも良い道具だと仰っていたのに」
「気が変わった。ダントンがルべリアに触れているのを見て、血が凍りつくかと思った。誰にも渡したくない、私だけのものにしたいと思ったのだ。
ルべリアが手に入るなら、何を捨てても良い。一生、国の猟犬として鎖に繋がれても構わない。名前も財産も、何もかもをくれてやる。ルべリアが欲しい!!」
「…………」
「……私の曾祖父も、強大な力と引き換えに晩年は狂気に犯された。私はどうだろうな、トマス」
一気にまくし立てた後、アウグストは囁くようにトマスに問うた。その瞳はまだ知性を宿していたが、危うさも秘めているようにトマスには思われた。
(あの娘は傾国の魔女だったか……? それとも、アウグストを溺れさせて魂を抜く人魚の化身か……)
たった一時目を離しただけの筈だった。
だが、その間にアウグストは愛欲に身を焦がす一人の男に成り下がり、ルべリアは見る者触れる者の心を蕩かす艶めいた妖女の片鱗を見せている。
「もう抱いてご自分のものになさったのですか?」
「……まだだ。いくらなんでも無理やりにはしない。ルべリアからして欲しいと言うまでは待つ」
「ならば宜しいのですが」
意外な話だった。
まさに昨日、トマスを追い出してルべリアを意のままにしようとした男と同じ口でそんな殊勝なことを言うなんて。
「……失礼なことを考えていないか?」
「いえ、別に」
「ああ、言っておくが、ルべリアに疵が付くような事態になれば、それが誰の仕業だろうとこの国を潰す」
「!」
「国が立ち行かなくなるまで基盤を破壊し尽くして……。邪魔者は皆、氷の像と化し、疵を付けた者は凍った大地の下に眠る泥と一体になるだろう」
「……肝に銘じます」
「そうしてくれ」
……氷の魔王子の本性は、恋に落ちても全く変わりがないようだ。それは従者であるトマスにとっては喜ばしいことだ。
王として、下々の者に慈愛は見せつつも、厳しい選択をせねばならない時はある。王は常に氷の心を抱くべき、だ。だが、その点アウグストは冷たすぎて民の恐怖心を煽る。そこをルべリアとの接触を通して柔げられたらと思ってはいたが……。
アウグストに王として立って欲しいという、トマスの野望は絶たれたように見える。だが、ルべリアもまたヒトの身に宿すには大きすぎる力を秘めている娘だ、諦めるには早すぎる。盤面にはまだ駒があり、勝負はついていなかった。そう、アウグストには王位が、ひいては国宝である、あの……宝珠がどうしても必要なのだ。
◇◆◇
夕食会は今日も滞りなく済んだ。
食事は美味しいし、セリーヌは静かだし、ギュゼルは睨み付けてくるし。アウグストは、この年の離れた妹が突っかかってくるのが嫌いではなかった。人形のような大人しい娘より、お転婆の方が安心できる。
部屋へ帰ろうとしたとき、アウグストの耳にギュゼルの声が飛び込んできた。見れば、テオドールと会話しているようだ。
「ねぇ、テオドールお兄様、アウグストお兄様の弱みって何か知りませんこと?」
「うーん、そうは言っても、トマスに泣かされていたのは随分と昔の話だしね……」
「何をこそこそやっているんだ」
「いいえ、何も!」
「あはははは……」
つんと顎を尖らす妹と、笑って誤魔化す兄。
二人は食事の後の会話をこんなつまらない話題で潰すようだ。
「全く、私の弱みを握ってどうする?」
「決まっています、ルべリアを返してもらうんです!
朝のこと、聞きました。ルべリアはお兄様のことを強いと言っていたけれど、実際はお兄様の一番得意な分野で制限もつけずに戦っただけじゃないですか! そんなの勝負じゃありません!」
「もう噂になっていたか」
「しかも、しかも壁に追い詰めて、き、キスするなんて!! 卑怯よ!」
ギュゼルが真っ赤になっている。
まるで林檎だな、とアウグストは思った。
「女の子に無理強いしてはいけないよ」
「していませんよ」
テオドールの言葉に、アウグストは笑みを返す。
「しかも、敗けたからと貢ぎ物を要求するなんて」
テオドールが咎めるような目でアウグストを見た。
はて、そんな言い方をしただろうか?
「ルべリアはかなり悩んでいたのよ」
「そうか。それでなぜ、私の弱みを?」
「…………」
「まぁ良い。贈り物はいただいたし、な」
「な、何を貰ったんです?」
「秘密だ」
ギュゼルの頬が栗鼠のように膨れる。
アウグストは笑いを噛み殺した。
「あの手紙、笑わせてもらった。ルべリアを盗らないで、か」
「!!」
「ギュゼル、お前がきゃんきゃん吠えれば吠えるほど、ルべリアを苦しめて泣かせてやろう。お前が大人しくしていれば、ルべリアを可愛がってやろう。どうだ、嬉しいだろう?」
「アウグスト!」
「……ひどい」
ギュゼルの大きな翠玉が涙に濡れる。
ギュゼルは言い返しもせず走っていってしまった。テオドールは何か言いたそうにアウグストを見ていたが、ギュゼルを追って消えた。
「ふむ。泣かせるつもりはなかったが……」
ギュゼルの涙……やはり心は動かなかった。アウグストはルべリアを思った。ルべリアが初めて見せた涙を。上気した頬が、切なげに漏らされる吐息が、今でも触れられそうなくらい正確に思い出せる。
(あの赤い瞳の奥にはどんな感情を秘めているのだろう。いつも私のなすがままのルべリア。いつかはルべリアから求めてきて欲しいものだ……)




