出征した日本兵勝一はフィリピンのマニラ、レイテで戦うが、厳しい戦場に頭に異変が・・
この作品は、太平洋戦争で戦死した筆者の兄の日記等様々な資料を基に、昭和という時代の前半が、実は「落日の時代」ではないかということを描いた小説です。終戦七十周年に当たる今年を記念し、発表しました。
一 母が語る勝一の故郷
「海を行軍の途中、台湾とルソン島間のバシー海峡で米軍潜水艦の攻撃を受けました。僚船が多数撃沈されましたが、私の乗った船は、日本兵の死体がたくさん浮く海峡をやっと渡って、フィリピンのマニラに到着しました。
乗員によると、遺体は死んでからしばらくして沈みますが、体内が腐敗してガスがたまると浮いてきます。それからしばらく浮いていて、やがてガスが体から抜けると海底に沈み、以後二度と浮いて来ないそうです。
海峡を渡った時、海水でふやけて青く膨れた遺骸がずらっと行列している様子を見て、私は仰天しました。死亡してから間もなくの死体だったようです。中には目をむいてすごい形相をしている者もいました。」
一九四四年(昭和十九年)の春、私の夫は息子の勝一から、このような手紙を受け取りました。
日本兵のふやけて青膨れた遺骸の行列とか、血痕跡も生々しい上等兵の死体とか、悲惨な言葉に私の心は真っ黒くひしゃげました。
私の家族は時代の波にもまれて異様な事件に次々に出くわしましたが、殊に勝一の戦争体験は残酷なものでした。
勝一は、元軍人の夫、木村一也と呉服業を営む私、タエとの間に生まれた長男です。
成人した勝一はテーラーとして修業中、大東亜戦争(当時は太平洋戦争をそのように言っていました)に遭遇し、戦地での殺戮、敗戦と帰還、爆撃による恋人の大火傷など、たまげるばかりの出来事を体験し、やがて自分の心に異変をきたしました。
私が還暦を迎えたのをきっかけに、私たちの体験がどういうものだったのか、家族の皆にも協力してもらい、その足跡をたどってみました。
悲しく苦い過去を記録するのは私にとっては辛いことですが、私たちに希望があるとすれば、それは過去の経験から学び、教訓を汲み取ることから生まれるのではないでしょうか。それを信じて記録しました。
私の父母は夙に亡くなり、私の子供らは勝一のほかに次男の勝治と長女の美智子がいて、家族五人の一家でした。
「こじんまりした家族だ」
夫はよくそう言いました。
「そうね」
私はうなずいて言いました。
当時は子供だけでも五人、六人といる家庭が普通でしたから。
国が〝生めよ、増やせよ、国の宝〟と子供を増やすように国民に盛んに呼びかけ、十二人産むと表彰状を渡したりしました。ですから、この時代にはどこの家でも子供が多かったのです。男の子がうまれたら戦力になり、女の子は将来の「子供再生産力」になるというわけです。
私の家は、新潟県十日町市(当時は新潟県中魚沼郡十日町)で越後縮みや和服を商う老舗「木村呉服店」を営んでおり、私の家族に加え、親戚の者二人と従業員三名を入れて、合計十人で商いをしていました。
夫の一也は一人娘である私の婿として迎えた人で、海軍を中途退役後、故郷の新潟へ帰っている折に私と知り合いました。
夫は海軍経理学校を卒業し、長年、横須賀基地を母港とする海軍に所属していました。
夫は主計少尉に任官され、武器、弾薬、食糧の補給や予算の編成などを担当していたとのことです。
帰郷した後も結婚してからも、よく本を読み、物事を調べ、様々研究をしておりました。
「明治三十八年、一九〇五年に日本海軍が日本海海戦でロシア艦隊を破ってから、世界のバランス力がアジアに移動したことを示したと言える。日本もなかなかやるじゃないか」
夫はよくこういう物言いをしました。
「そうかなあ。だが、気をつけないと、そうした行動は無謀な野望に終わるだろうよ。アジアの覇者とか言ってうぬぼれてはいけないさ」
そう言う勝治も本を多く読み、夫や世間とは違う考え方で、物事を少し離れた目線で見ていました。
夫は、台湾をダイワンと発音し、河馬をカワバと言っておりまして、子供らによく笑われましたが、これは夫がそれぞれを漢字の字面から覚えたせいで、夫は漢字の辞書を常に見ていました。
夫の一也は男らしい剛毅な人でしたが、商売にはまったく不向きで、商品の仕入れなどを手伝う以外には、本を読んだり山菜採りに行ったり、自分流の気ままな日常でした。
夫は戦地でのむごい体験から、就寝中に時々うなされており、
「やらなければやられるぞ」
と大きな声で言い、うめき声をあげたりしておりました。敵軍と面前で出会った戦地での厳しい体験がつきまとっているようでした。
夫一也は自分の部屋で毎日軍刀を磨くのが日課で、その刀は海軍を退役した時に軍から拝領したものでした。
海軍の刀は陸軍と違って、陸戦をほとんど考慮していないと言われ、儀礼的で華麗な外装でした。鞘は茶色の革製で、金具には桜花の彫りが入っていて「格好のいい軍刀」でしたよ。
勝治の調査では、桜の花は、時代が進むとともに軍人に関係して利用されるようになったようです。例えば、海軍下士官の、錨に桜が付いた前章と白線二本の付いた帽子です。
勝治は何でもよく調べる子でしたが、この点では夫の気質を受け継いでいたようです。ただ、考え方は右と左に分かれていて正反対でした。
桜花利用の出発点は、「花は桜木,人は武士」という江戸時代の諺ではないかと言われているそうですが、昭和の初め頃から、日本兵は桜の花のように潔く散ることこそ武士道に一致するものとされました。武士道=大和心=軍人というわけですね。
皮肉なことに、夫が大切にしていた軍刀は、後に、国の命令で供出させられて武器になってしまいました。
日本国内に武器の材料がないとのことで、ありとあらゆる鉄製品を武器や弾薬に作り変え、代わって代用品があふれ出たのです。
陶器のアイロン、陶器のフォーク、陶器の二宮金次郎像が作られ、東京・渋谷駅前の鉄製ハチ公や三越本店の鉄製ライオン像までが消え去ったというニュースが流れました。
家業の呉服店は、一九四三年昭和十八年に勝一が出征する頃までは栄えていて、十日町では有数な店舗でした。
二十歳になった勝一は、将来役立てようと、紳士服専門の仕立てを学ぶために東京に出てテーラー修業をしたいと言い出したのです。勝一は何事にも積極的に取り組むタイプでした。
店は、呉服業といっても、衣料品全般を商う店舗で、当時世間に広がり始めた洋服、紳士服や婦人服、セーターなども扱っていました。
「これからは洋服が伸びるだろう」
「品ぞろえを変える必要もあるね」
「だけど長年の伝統は変えられないわ」
私たちはこのような会話を交わしていました。
この頃は、和服が主流の中に洋服が世に出始めていたときです。
当時、和服の縫い子は同じ町内にたくさんおりましたが、洋服の仕立てをする者がいなかったので、店では不便を感じていたのです。
勝一は自分で様々聞き知っていて、洋服の老舗、東京・日本橋の洋服店に弟子入りしたいと申しました。
山田治郎という人が銀座松屋の下職をしながら、明治十五年に日本橋蛎殻町に洋服店を構えたのですが、今は、その子孫が店を継いでいるというのです。
「修業するならきちんとした所に入りたい」
勝一はそう言い、 決心は固いようでした。
「・・・お前のためにも店のためにもなることだから、修業もいいだろう」
夫は東京住まいの弟を通して、弟子入りの話について聞いてみると言い、しばらく経って後に結果を勝一に伝えました。
「東京の叔父さんに頼んで山田洋服店の店主に問い合わせてもらった。基本を覚えるのに五年程度かかるうえ、資質があればそれからの数年は店主自身が技術を教え込むという話だが、どうだい。大変そうだぞ、やれるかな」
東京の叔父は上野駅近くに家族と暮らしておりました。
「五年でも七年でもがんばるよ」
勝一はしっかり応じました。
「修業が終わったら必ずこの店に帰ってきてちょうだいね。お前は楽観的なうえ、自分をしっかり持っているから、きっと自分の進路を切り開いていくわ」
私はそう励ましましたが、勝一は常日ごろ笑顔の多い、明るくしっかりした性格と皆に言われており、私もその将来が楽しみでした。
「テーラーになるってわけか。格好いいね」
次男の勝治はそう言っていたのです。
格好のよい洋服を仕立てるテーラーは人々の憧れだったのです。
「へえ。私も東京に遊びに行けるのね」
妹の美智子も喜んでいました。
「支那事変が泥沼に入っている。去年は国家総動員法が施行された。厳しい時代になるぞ」
ある時、夫はそう言いました。
夫は海軍基地のあった横須賀滞在中に覚えた「軍艦カレー」をたびたび作っては家族に食べさせてくれましたが、カレー粉をいためるなど本格的な作り方で、結構おいしかったのです。
当時は肉が手に入らず、ジャガイモばかり多い我が家のカレーは横須賀の軍艦カレーとはだいぶ違うようでしたが、カレーには変わりがないですよね。
子供らの趣味をお話しします。
勝治は街の音楽鑑賞会に入っていて、美智子は和装同好会の常連でした。勝治は冷静なタイプであり、美智子はおとなしい性格でした。
勝一には幼児期に東京の叔父にもらって見ていた「洋書絵本」という英語本シリーズが十冊ほどありました。
そのためか、勝一は、ずっと英語に興味を持っていて、中学に行ってからも東京から十日町に移住してきた阿部大志という方に英語を習っておりました。
阿部先生はベレー帽などをかぶって、いつもおしゃれな格好をしていらっしゃいました。
「習う英語がきっと役に立つ日がくるよ」
こう言うのが阿部先生の口癖でした。
勝一は阿部先生のお宅に通い、日本の学校英語の見本的教科書、『実用英語文法』 (Practical English Grammar) という本をボロボロになるまで使っておりました。
当時の英語学習は暗記したり、文法重視の勉強だったりが主でしたが、英語に慣れるためには、まず聞き取れるようになることが大切だと、阿部先生はその練習にも力を入れておいででした。
勝一は英語を聞き続けることで上達する練習をしたようです。
阿部先生は、日本人と西欧人の違いや越後人の個性なども話してくれたようでした。先生は語学を通して様々なことを教えてくださったようです。勝一の話では、
“日本人は協力の技術に長けており、これに対して西欧人は対決の技術を磨いてきた”というようなお話がおもしろかったようです。
勝一は阿部先生の話から、今までのものの見方とはまったく違う視野を学び、英語学習のおもしろさを感じたようでした。
私自身の趣味というか、日ごろの楽しみは裏庭に折々の草花や野菜を栽培することでした。桜草、朝顔、小菊、それにナスやキュウリを,ほんの少々育てておりました。
「これからは洋服がもっともっとはやるだろうね」
「洋服を着ると偉く見えるよ」
十日町では私が成人になった大正半ば頃、東京帰りのお偉方が洋服を着ているのを初めて目にしましたが、昭和に入ってから一般の人も洋服を身につけるようになりました。
私の店に和服のほかに、紳士服や婦人服、セーターなどを並べるようになったのは勝一が尋常小学校に入学した頃のことでしょうか。
さて、勝一の修業話が進んで、上京することになりました。
「国家総動員法に加え、大学では軍事教練が必須科目になった。いよいよお国の一大事だ」
この頃、夫はそう言っておりました。
「新聞やラジオは軍部の動きを支持してるよ。日本人の皆が好戦的になっているから注意が必要だ」
そのように言う次男の勝治は世相に対してかなり批判的なものの見方をしておりました。
「 “戦争が廊下の奥に立つてゐた”という渡辺白泉さんの俳句が怖いよ。戦争という巨大なものが、日常の廊下に容赦なく進入してくるというんだね。それにしてもマスコミが権力に追随するのは日本の特徴だろうか」
勝治はこのようにも申していましたが、それを聞いていた夫は
「お前の言いようは危険だ。軍部はむろん、新聞やラジオも国のためを思って動いているんだ」
と言い、
「軍隊の支える国家があって国を守っているから日本が力を発揮し発展するのだ。お前、少し言葉をつつしめ」
と勝治をしかっていました。
夫のそういう考えは当時の日本人大部分の考え方でしょう。
国家総動員法は一九三八年(昭和十三年)に第一次近衛内閣によって制定された法律で、総力戦遂行のため国家の人的・物的資源を政府が総動員できる旨を規定したものでした。
これによって、政府は資源や労働力、国民生活等を自由に動かせるようになったということです。
特高警察の動きが活発になっていましたから、軍部や国家を批判する勝治の考えは危険なものでした。
「おいらも東京へ行きたい。東京で一流の音楽を聞いてみたいよ」
勝治はうらやましがっており、
「東京へ行くなんてうらやましい!」
と美智子も叫んでおりました。
世の中が戦争に向けてますます厳しい状況になっていくのに、子供たちはさして気にもとめず元気なものでした。
元気といえば、この時代、国民は皆んな元気で、これから総動員で総力戦を戦うというような厳しい自覚はなく、むしろ、日本中の皆で協力してアジアを植民地として支配している英米等に戦いを挑んでいくのだと考えて、ウキウキしている気分でした。皆が元気ということだけでは物事がいい方向に向かっているかどうか分からないものなのですね。
勝一が日本橋でテーラー修業を始めたのは一九三九年、昭和十四年の春でございました。
この年には、「男は皆坊主になれ、女のパーマネントはやめましょう」という「生活刷新案」が全国で実行され、国中がクリクリ坊主とストレートの髪になりましたから、年号をよく覚えています。
女性が縮れ毛と直髪を自主的に使い分けるのは楽しいものですが、私は強制的な髪型は嫌だなと思いました。
この年はドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発したとラジオが報道していました。
この前年、ヒトラー一行三十人が伊勢神宮へ参拝し、日独の親密度が深くなっておりました。
「日本とドイツのお偉方が親しく行き来するのはいいことだ」
「国際親善と協力が日本の力になるさ」
このとき、国民はヒトラーがどういう人であるのか理解していませんでしたし、同時に昭和天皇がどういう人物かも知りませんでした。
二 勝一が語る東京生活
私は汽車で上野駅に向かいました。
その頃、汽車は蒸気機関車で、燃料には石炭やコークスを用いており、乗客は煤で顔も手も真っ黒でした。
上野からは山手線で東京駅に向かいました。電車にはどの車両にも「前線への慰問文、慰問袋を送ろう」とか、「食生活は一汁一菜で」とかいうような張り紙が張ってあり、街には「戦線と銃後をむすぶ千人針」という広告が見えました。
この千人針は縁起物の虎を印刷した晒木綿と赤い糸、針の三点で、一袋三十八銭の人気商品でした。千人針と慰問袋を中国の戦線に送る運動は国中に広がっていました。
慰問袋の中に入れた物は、日用品(ちり紙、手拭い、石鹸など)、衣服(シャツ、腹巻きなど)、食料品、薬品、写真、絵画、お守り札などです。差出人の住所、氏名を記し、手紙を添えました。
私は夕方、市電経由で日本橋蛎殻町の洋服店に着きました。
「新潟から参りました木村勝一と申します」
私が挨拶すると、店主の山田国彦さんが応対してくれて、ご家族や職人たちに引き合わせてくれました。
「住まいは後で案内してもらいな。仕事が後一時間ほどで終わるから、それまで待っていなさい」
と指示されました。
ご主人は五十歳過ぎの、律儀そうな人でした。
「ここでの仕事は、店でお客様の注文に応ずるほか、銀座松屋の下職として紳士服を仕立てるんだ。上着だけで約二百五十の工程を五十時間以上かけて仕立て上げるのさ。初めてのお客様は最低でも仕立て上がりまで一か月半はかかるよ」
主人は服地の裁断をしながらそのように教えてくれました。
山田洋服店には家族五人と職人三人、職人見習い二人がおり、そこへ私が見習いとして入店したのです。
町のテーラーとしての注文洋服業者は、その仕立て技能により既製服を圧倒するシェアを占めていて、私が上京した当時は紳士服のほとんどはテーラーの作った注文服でした。
職人三人は結婚して家を構えており、見習い二人は店近くのアパートに寝起きをして店まで通っているということでした。
「東京は初めてかい」
「二度目です。以前、上野の叔父さんの家に一度来たことがあります」
私は店の見習いたちと共にアパートで暮らすことになりました。
街の裏通りにあるアパートには入り口に大家一家が住み、ほかに一階に二部屋、二階に三部屋がある小さな建物で、バンドマンや易者、汁粉屋の店員などが住んでおりました。
私の日課は店舗の清掃、製品・服地等の整理整頓などのほか、走り使いから始まりました。最初の半年は、物や街の名前とその位置を覚えるのに費やし、仕事を手伝うようになったのはその後でした。
「整理整頓がきちんとできるようになれば、やっと半人前かな」
そう言われたものです。
お休みは月に二回、給料は三年間無給で、小遣い銭をいくらか支給され、盆と正月だけ帰省の暇が出されるという生活でした。
私が洋服仕立ての採寸や型紙作りを習ったのは店に入って満二年後からです。
「二年で採寸や型紙などを習えるのは早い方だろう」
主人がそう言いました。
「手筋は悪くはないから、丁寧に仕事をしなさい」
私は見習い二人と毎日一緒に動いていて、その一人、同い年の井出裕太とは特に親しくなりました。
彼は明るい話題や滑稽なニュースを集めて私たちに知らせるのが得意でした。
「先場所、双葉山が六十九連勝の記録をたてたよね。その人気でこの夏場所から一場所が十五日になるそうだ」
「今月から徳川夢声が『宮本武蔵』をラジオで放送するってよ」そういう話題から、
「銀座の表通りにお汁粉屋が十九軒もできたそうだ。梅干し一つ入れる『日の丸弁当』が登場して評判になっているってさ」
井出裕太はどこから聞いてくるのか実に早耳でした。
「警視庁が東京市内を巡視して、食事の自粛ぶりを監視したのだが、自粛どこ吹く風と受け流している人々もいるようだぜ。俳優の中には箱根富士屋ホテルで昼食はオルドブル、ポタージュ、車エビフライ、鶏とヌードルを食して、うまいと言っているような人がいるそうだよ」
「天皇や皇族の方々のお食事はどういうものかな」
裕太は果てにそのように言って
「お前、不敬罪になるぞ」
と主人に注意されていました。
不敬罪というのは天皇や皇族等に対して、尊厳を害する言動があった場合の処罰のことで、国民から大変恐れられていました。
実際に、美濃部達吉東京帝国大学教授は一九三五年に「天皇機関説」で不敬罪として告発され、不起訴となったものの、貴族院議員を辞職しました。
〝もの言えば唇寒し秋の風 キジも鳴かずば撃たれまい〟というわけで、国民は思ったことをだんだんと口にしなくなったのでした。
この年、昭和十四年(一九三九年)、白米禁止令が公布され玄米を食べることが義務付けられました。
翌年から食堂では米食禁止となりました。私たちはよく盛り蕎麦を十五銭で食べました。
「米が食えないとは情けないね」
「警視庁が違反がないように見張っているが、ご時世だから仕方がない」
米に麦、豆、芋を混ぜる「混食」の奨励と、パン食が推奨され、ジャガイモや野菜をメリケン粉で固めた「興亜パン」なるものが登場しましたし、そごうデパートでは、うどん、ジャガイモ、タマネギを一緒に揚げた「国策ランチ」が登場し、米の代わりに蕎麦を海苔で巻いた「蕎麦寿司」も現れました。
私たちの食事は麦や芋を混ぜたご飯に味噌汁とお新香というのが主な献立でした。
住まいのアパートが銀座に近いので、たまの休日に見習い同士でよく銀座に出かけました。
ジョン・ウェイン主役の映画「駅馬車」が封切りになりましたが、翌、昭和十五年宣戦布告の翌日十二月九日には、〝鬼畜米英〟の合い言葉のもと、アメリカ映画は〝敵性映画〟として上映禁止となりました。
「敵性映画って何だい?」
「分かりにくいね」
「役人がそういう言葉を作って流布するのだろう」
敵性言語とされた米英語については、昭和十六年、使用禁止との通達がありましたが、町には英語の店名が描かれた看板がいくらもありましたし、旧制中学や高校・大学では、敗戦時まで英語の授業が続けられていたといいます。
私は越後にいる時から英語が得意で、このため後々、私の運命が左右されましたので英語学習の経緯について少しお話しておきます。
私が十日町の阿部先生宅に通い、英語を学んでいたことは先に母が語った通りです。
・・・正則英語学校のテキストが欲しい。
私はそう思い、あれこれ探しました。斎藤秀三郎氏の英和辞典、英語文法書は多くの人々に使われていましたし、また、彼の経営した「正則英語学校」は、明治時代に作家の夏目漱石なども通っていた名門校でした。
夏目漱石は小説家になる前は英文学を学んでおり、東大英文科を卒業して英国へ留学した方で、英語英文学の秀才でした。
私は正則英語学校の教科書を手に入れ、寄宿先で読むようにしました。
「英語が趣味とは変わっているね」
と裕太がよく口にしましたが、
「おもしろいんだよ」という以外にありません。
英語英文の世界は日本語、日本文とは違った世界を私に見せてくれたのですから。
この後、私は大学の通信教育で英語を学ぶことになります。
ある時、私は上野住まいの叔父の家へ挨拶に参りました。叔父は東京市から借り受けた土地に家を建て、そこから魚河岸に通って魚の仲買業をしておりました。
叔父はおもしろい話をしてくれました。
「〝この先を考えている豆の蔓〟って知っているかい」
「豆の蔓ですか」
「そうだよ。吉川英治の川柳だよ。豆は、ただその日暮らしだけではなく、これから先のことを考えながら生きているってことさ。これから身を立てるに役立つかもしれないな」
叔父はそう言って私を送ってくれました。
後から振り返ると叔父自身の人生は、〝この先を考えている豆の蔓〟のようにはいかず、家を爆撃されたことが原因で、「人生の敗北者」としての運命を歩むことになったのでした。このことは後でお話しします。
さて休日のある日、私は見習いの井出君と入ったイタリア料理店で、同郷の田中角栄さんと遭ったことがあるんですよ。そうです、あの有名な政治家、田中角栄さんです。
私たちはこの日は奮発して特製のスパゲティを注文し、お互いの郷里の話などをしておりました。
すぐ隣席にいた青年はガラガラ声で、間もなく満州へ応召すること、五年前上京したことなどを同席の仲間に大声で話していましたよ。
これが田中角栄氏だったのです。
「東京人は油断がならない」とか、
「わしは間もなく満州に行くことになるが、しばらく外地で修業だ」
とか話していました。
私より一歳年上の田中角栄さんは、後に内閣総理大臣となったのですが、このときは建築技師として「共栄建築事務所」を経営しており、満州へ行って兵役につく直前でした。
「君も越後の出なのか」
こちらの話が聞こえたらしく、田中氏がそう言って寄ってきました。
「ええ。十日町です」
「わしは柏崎の近くだよ。ところで、君は英語が得意なようだね」
田中さんはそう聞きました。
このときの彼は二十二歳であるのに、〝わしは〟とか 〝わしが 〟と言っておりました。田中氏は 〝わし〟という一人称で生涯を通したようです。
田中さんは、近くにいた私たちの話をよく聞いていたのです。
「今、理研の注文で、研究所の建て替えや工場の建築を依頼されているのだが、研究所から渡された外国の建築材や部品等の翻訳が必要で、困っておるんだよ」
理研とは自然科学の総合研究所でした。
「どうかね。一度会社へ遊びに来てくれんか」
こうして私は田中氏の応召前に建築事務所へ行くことになりました。
私はこれをきっかけに共栄建築事務所へ出入りすることになり、英文翻訳の手伝いを行いましたが、この仕事は田中氏の関係会社社員の紳士服を仕立てるここと交換条件で、山田洋服店の店主の了解を取りつけていました。
「何事も経験だ」
主人も田中氏も同じことを私に言いました。
田中氏は間もなく満州で陸軍騎兵上等兵となりました。
しかし、二年後に大病を患って内地へ帰還し、一九四一年に除隊して東京の飯田橋で田中建築事務所を開設したのでした。
昭和十五年の秋、紀元二六〇〇年の奉祝には、銀座に花電車が登場し身動きできないほどの人出で、街が湧きかえりました。
国民は主食に芋を食いながら、国家二六〇〇年を祝っていたのです。
紀元二六〇〇年とは、国威を発揚するため西暦を使わず、神武天皇の即位を紀元元年として計算したもので、昭和十五年が紀元二六〇〇年に当たるとして、学校でも地域でも提灯行列などで盛大に祝ったのです。
神武天皇は当時実在した初代天皇とされていましたが、事実は伝説上の人物で、私たち日本人が伝説と知るまでには幾多の年月を要したのでした。天皇にかかわる事柄では白黒の逆転するようなことが多かった昭和時代です。そのことは後で詳しく述べます。
「さる筋からの英文情報だよ」
どこで手に入れたのか共栄建築事務所の所員が私に一枚の紙を見せてくれましたが、その英文の中身は驚くべき内容だったのです。
かなりすごい内容だと思った私は英文を書き写したのですが、それは英国政府の発行した機密文書で、日中戦争の引き金となった一九三七年七月の盧溝橋事件後に来日した英国大使が、同年十月十四日、皇居で昭和天皇に会った際の会話が記されていました。以下概要です。
「日中事変で日英関係が急速に悪化していることに、私は深い懸念を持っている。かつての良好な日英関係に戻すのを心から願っている」
天皇は英国大使にそう明かしたうえで、
「どうか、大使も力を貸してほしい」
と要請しています。
「良好な日英関係を築く唯一の基盤は、中国を敵ではなく友人とすることです」
大使がそのようにこたえると、
「その方向に、すべての努力を傾けなければならない」
天皇がそう語ったことが記されています。
また、一九三七年九月二十四日の英国外務省報告文書では、日本の政治システムを
〝天皇を取り巻くアドバイザーが日本の政策を決定していく”と分析、そのうえで、昭和天皇の性格を次のように語っています。
〝周囲の人間の操り人形とならないためには強い個性が求められるが、今の天皇はそれを持ち合わせていない”
「弟の秩父宮のようには自由を与えられず、自分の意見を形成する機会を持てなかったのだよ」(※1)
この文書の内容は、支那事変から日中戦争へと急坂を転がるように突き進んだ、その日本国の現実とは正反対の方向を向いた内容ですよね。
つまり昭和天皇が良好な日中、日英関係を築くことを願っているという内容ですが、皆様はこの文書をどう思われますか。 当時、日本は、中国を友人とするどころか、中国を敵に回して戦争を仕掛ける方へ進みました。
この頃、私たち日本人は皆が皆と言っていいほど、赤い夕日の広大な満州を領有し開拓して西欧列強に伍すのだ、それで日本の発展を期すことが不可欠だ、という意見でした。
国民は、それを進める軍部・政治家・マスコミや教師を支持し、その影響を受け、熱くなっていました。
「軍隊ががんばっているからこそ日本国が発展するんだ。命をかけてがんばっている軍人を敬い、尊ぶことが大切だな」
父はつねづねそう言っておりましたが、この意見は日本人大方の意見でもありました。
諸外国に負けず、欧米に追い付き追い越すことは明治時代以来の日本の悲願でした。
学校の先生方や役場のお偉方も、ラジオも新聞も「アジアの開放」という言葉を繰り返し、軍隊と日本の存在意義を強調していましたし、国民も同じ気持ちになっていました。
しかし、実際には、満州国建国は日本の野望だった、と後々次男勝治は言うのです。
前述の文書の内容が事実だとすると、どうやら、昭和天皇自身の思いと異なって、一部の軍人や天皇の周辺が軍国主義への道を選択し、民衆を熱狂の道に追い込んだという事態が起きたようですが、正確なことは闇の中です。
ただ、私たち日本人がこぞって熱い軍国主義にはまったのはどうしてだったのか、その訳は明らかにしなければならないことですよね。
「新聞もラジオも実態を報道せず、むしろ軍部や大本営のお先棒を担いだ威勢のいいニュースばかりだったな」
阿倍先生や美智子と話していた勝治がマスコミは信用できないと言ったことがありました。
「敗戦後、国民は、これまで聞かされていた大本営発表がほとんどすべて虚偽であったことを知って驚いたんだよ」
勝治の指摘に美智子驚いて、
「大本営って何?」
美智子が聞くと、
「大本営は日本国最高の軍隊統率機関だよ。大本営の会議は昭和天皇・参謀総長・軍令部総長等で構成し、内閣総理大臣・外務大臣など文官は含まれない。また大本営は戦果に関する広報も行っていたが、戦況の悪化や日本軍敗走など都合の悪いことは伝えなかったんだ」
阿倍先生はそうおっしゃいました。
「マスコミが政府や軍部から口頭で指導され、要請されたことは無数にあるよ」
こう言う勝治に対して
「新聞やラジオが時の為政者や有力な勢力から陰に陽に圧力や要請を受けることは、どこの国にもいつの時代にもあることだ。日本だけの特徴ではないのさ」
父は自分の体験からそう言っていました。日本以上にメデイアをはじめ様々な自由が奪われている国はたくさんあるということでした。
「マスコミの自由どころか、ものを自由に言えない国はたくさんある。政治家もトップも選べないし、指導者層の批判ができない国も多いのさ」
という父の発言でした。
ところで、勝治に聞いた話では、昭和天皇について最近の研究で次のような指摘があります。
”
ジャーナリスト徳本栄一郎氏は次のように言っています。
“英国も日本と戦争に突入することを念頭に、対日本政策を立案すべきであると考えて、おそらく首相チャーチルはもう昭和天皇や穏健派など眼中においてなかったのであろう”(※2)。
私は世の中の状況を違った目で見るようになりました。表面の様子や状況を見ているだけでは真実はつかめないということを知ったからです。
「築地市場に数の子が大量に入荷し、去年の半値だそうだよ」
井出君が例のように早耳情報を流していましたが、その年に西条八十作詞・古賀政男作曲の「誰か故郷を想わざる」が発売になり、大ヒットしました。
私はこの歌を聞くたびに故郷の十日町を懐かしく思い出しました。
「越後の山々が目に浮かぶなあ」
私が言うと、
「うん。私も山形の山や川を思い出すよ」
井出裕太も目を遠くに遊ばせました。
十日町の家からは時々、山菜・蕎麦・米などを送ってくれました。母の菜園でとれた野菜が入っていることもあり、ひときわ懐かしい贈り物でした。
雪に埋もれていた越後に春が来て一番先に目に飛び込んでくるのは山菜や春の花々です。
ゼンマイやコゴミはよく知られた山菜ですが、同僚たちは言いました。
「ウルイとかショデっていうのは初めて食べたよ」
「みずみずしくって甘いね」
十日町産の蕎麦で、へぎ蕎麦、妻有蕎麦はおいしくて腰があり、つなぎに「布海苔」を入れたものが伝統の味です。
へぎ(片木)と呼ばれる器にお蕎麦を丸く小さな束にして盛りつけていく妻有産の蕎麦なのですよ。
冬は日照時間が短く降雪が多く、夏は日照時間が長く雨量が少ないという新潟県の気候は、おいしい米作に最も適した気候で、雪解けの清流は米作に必要な豊富な水量をもたらし、夏季の高温は元々高い温度を好む稲の生成を促します。
十日町から送ってきた荷物の中には母手作りの肌着や足袋もあり、心づくしの贈り物をありがたく使いました。
この頃、私の紳士服仕立て修業は裁断などの勉強に進んでおりました。
修業が仮縫い・縫製へと進むのは、さらに後年です。
弟の勝治が呉服業の研修のため上京することになり、同じアパートに住むようになったのは昭和十五年の秋も終わりのことで、弟が十九歳、私が二十二歳の時でした。
「勝治もいよいよ呉服業の勉強だな」
私がそう言うと、勝治が言いました。
「なに、僕の勉強は一年間ほどで期間が短いよ。だが、その間にいろんな所に出かけてみたいさ」
東京の老舗呉服店は“経営革新”を繰り返し、三越本店の建物は、一九三五年(昭和十年)に六年の歳月を費やし増築改修されていましたし、店々では品ぞろえや雰囲気、販売方法、宣伝でも常に工夫をこらしていました。
勝治は一年余り東京の呉服業を研修し、十日町の家業に生かしたいという気持ちで張り切っておりました。
彼は半年間、大手の百貨店本店に通って勉強しましたが、その後、知り合いの紹介で個人商店の「萌黄」という店へ通うようになりました。
「萌黄はすごいよ。なかなかやるものだ」
勝治は興奮気味でした。
「店主が芸術家肌でね、その素質を生かしているようだ」
勝治が研修先に選んだ銀座・萌黄は着物の伝統を大切にしておりましたが、五代目の現店主は芸術の才能に恵まれ、着物に限らず、絵画・書・陶芸の作品も作って、高く評価されていました。
店では、モダンアート、更紗柄、ペルシャ・イスラム・欧風装飾模様などのデザインを取り入れた独創的な作品も扱っていました。
「驚くような経営だよ。店員にもレベルの高い人が多いよ」
弟は私に興味深く語ります。
「へえ、そうかい」
「一度一緒に行ってみよう。百聞は一見に如かずだよ」
弟が話す萌黄の様子があまりに個性的なので、梅雨が明けた七月下旬のある日、弟と一緒に店を見学に行きました。萌黄は、華やかななかにもしっとりした雰囲気のある銀座通りに面していました。
萌黄は、初代が雪深い越後長岡から江戸へ丁稚奉公に来て、年季の明けた後で、暖簾などを染める藍染屋を始め、その後、商いも木綿物から絹物へと広げてきた店でした。
この日、私たち兄弟に様々なことを説明してくれたのが、この店に勤めている若い女性でした。
「岩崎紀子と申します」
和服姿の彼女はそう言って私たちに挨拶しました。
明るい笑顔が人を惹きつける人で、笑うときれいな白い歯と真っすぐな鼻筋が目立ちました。
・・・さすがに、和服の似合う人だな。
私はそう思いました。
店を見学した後で、店の奥にある応接室へ案内されました。驚いたことに岩崎紀子さんは私と同郷の出身でした。
十日町では明治時代に、蝉の羽と言われるほど薄くて軽い「明石ちぢみ」が開発されましたが、紀子さんは、この高級な絹織物を織って個人商店等に卸す、そういう商家に生まれ育った女性で、彼女は私の実家、木村呉服店を知っていると言いました。
明石ちぢみのヒットは機屋の経営形態を一変させ、副業の家内工業から、専業の工場生産制へと移り変わるようになり、それにつれて年間を通して生産できる商品が必要になってきました。
そこで開発されたのが冬物の「意匠白生地」で、無地でよし、柄下でもよさが冴える白生地の織物として登場しました。意匠白生地はその品質とデザインの斬新さが話題となり、発売からわずか四、五年で明石ちぢみをしのぐ人気となりました。
これをきっかけに十日町は織物産業の町として充実の時を迎え、昭和十年には戦前で最高の生産高を記録しました。
しかし、皮肉にもこの頃、日本は第二次世界大戦への道を歩み始めていました。
「明石ちぢみも白生地も、この頃では織る人も着る人も少なくなりましたね」
紀子さんがそう言いました。
「時が時ですから」私はそのように言い、
「しかし、この店にいると雰囲気が優雅で、時局を忘れます」
と付け加えました。
華やかさの残る店内の装いでした。
「ここはおもしろい店なんですよ」
彼女は、よく響くきれいな声で話します。色白なところが印象的で、顎の下に、二つに分かれるような小さなくびれがあります。
彼女と話す私の胸は少々高鳴りました。
「萌黄は様々な試みをしているんですよ」
と彼女は私たちに教えました。
「四季折々の花鳥風月をはじめ、モダンアートなども組み込んだ織物や和服を作るのです」
四方山話の中で、彼女は三年前に十日町から上京してきたと言いました。紀子さんは私が在学したのと同じ中学に通い、同じ地区に住んでいたのです。
この日はこれで別れましたが、一か月後の休日に彼女と再会しました。
裕太、勝治と銀座を歩いていた時でした。
「岩崎さん」
街で勝冶が紀子さんを見かけて声をかけると、
「あら」
と言って振り向き、彼女はにっこり笑いました。
「その笑顔にぐっとしびれがきたんだね」
後で裕太がそう言ったことでした。
「今日は三人で映画です」
私たちはこの日は封切りの「支那の夜」を見て、蕎麦屋で昼食をとるという日程でした。「支那の夜」は、昭和十五年(一九四〇年)、東宝映画と中華電影公司の合作で制作された映画で、長谷川一夫と李香蘭が主演でした。
「今度、この先の築地でお寿司をご馳走しますわ」
「え!お寿司ですか」
勝治が言うと、
「ええ。知り合いのお店がありますので」
さらに一か月後の日曜日に彼女は勝治と私を築地に誘いました。
築地は、その頃、寺が移転していった跡地に街を開発中で、生魚を商う商店や鰹節、海苔などの干物をはじめ、料亭のためのお箸、お鍋などの金物備品などを売る店も並んでいます。
・・・おもしろい所だな。と私は思いました。
「築地は寺町から市場、商店街への移行で、商売人が集まるようになったというわ」
紀子さんは私たちを案内して、彼女の知り合いの寿司屋に連れていってくれましたが、白米禁止令の陰で闇売り米を使っており、私には初めての豪華な寿司でした。
・・・紀子さんの明るい美しさは相変わらずだ。
私はそう感じました。
「この米なら新潟産の米に負けないでしょう」
寿司屋店主の言う通り、おいしい米でした。
「岩崎さんの着ている和服、すばらしいものですね。こういう所で着るにはもったいない」店主はそう言いました。
「お店で着ている着物ですから、汚れも付いているんですよ」
紀子さんは商売用の和服で出かけてきたようです。
「絹織物を使った着物ですね」
私たちは越後の織物の話をしました。
「越後縮みは雪深い所で作られ、ずっと受け継がれてきたのですね」
紀子さんは越後織物の専門家です。
「ご存知のように、十日町の越後縮み作りは初雪の頃に始まり、雪解けの時期に終わるんですよね」
その後、私は紀子さんとたびたび会うようになりました。
二人で休暇に鎌倉、江ノ島に行ったことがあります。
一日をゆっくりと過ごした後、海岸に出ると西空は夕焼けで橙に染まり、東の空には星が輝き始めて青色が徐々に濃くなり、星の明るさが増してきました。
周辺は潮騒の音がするだけで、金色の月が、静まりかえった海の上にくっきりと浮かび上がりました。
月の周りだけがきれいな青色に染まって、息を止めるほどの美しさがあります。
「こんな光景は初めて。すばらしいわ」
「ほんとだね」
二人は海岸で天のドラマをながめながら、故郷十日町の話や今後の仕事のことなど話しました。
一緒にいると、胸にしみこむ温かさがあり、そこに魂が流れ込むような感覚が紀子さんから私に流れ、その動きはやがて私から紀子さんに伝わっていったようでした。
星と月が輝き、人気が引いた海辺はひときわ美しいけれど、まるで夏の終わった海のように、どこか静かで寂しいのです。
波打ち際に映り込む隣接公園の灯影や、そこだけ雲が遠慮してるようにも見える夜空の月がかすんできました。
「命の動きがあるのは、天空や陸地の世界だけでなく、この海面の下も私たちも同じね」
紀子さんは神秘的なことを言いました。
潮騒の音が高鳴り、海の香りが強く漂うなかで、二人とも何か感動を自覚し、相手への親愛の思いがひときわ強くなっていきました。
数日後、紀子さんから鎌倉、江ノ島を案内したことへのお礼の手紙が私に届きました。
〝私は今まで、あのような時間を過ごしたことはなく、勝一さんには感謝の気持ちで一杯です。あの夜の天空や海の様子を思い出すと、今でも胸が震えるようです。あの日のことは忘れません。〟
紀子さんの手紙にはそのように書いてありました。手紙を読んだ私は改めて紀子さんとの絆を感じ、この絆を大切にしようと思いました。
「最近は紳士服より軍服の注文が圧倒的に多いなあ。陸軍の軍服はドイツの軍装の影響が強く、海軍はイギリス海軍の影響が強いかな」
山田洋服店のご主人がそう言っていましたが、その言葉から当時の日本の様子がうかがわれますね。
「陸軍幹部の留学先は陸軍国ドイツやフランスが主だが、海軍の留学先は米英が多いそうだ。米英に留学している人が多い海軍の方がアメリカのことをよく見ているようだ」
ご主人は、海軍贔屓の父が聞いたら喜びそうな話をしました。
「警視庁が年末年始の朝風呂と昼酒を特別に許可するそうだよ」
同僚の井出裕太が情報を仕入れてきました。
「暮れには上野駅が帰省客であふれ、憲兵が行列の整理に出動したそうだよ」
彼の早耳は相変わらずで、いつもおもしろい話を聞かせてくれます。
明けて昭和十六年の正月休み、私が帰郷した時に、招かれて田中角栄さんの実家へ行ったことがあります。
「柏崎まで行って乗り換え、羽越線の礼拝駅から歩いていくのがいいだろう」
角栄さんは私にあらかじめこのように案内していました。
田中氏は応召した満州で陸軍騎兵上等兵となりましたが、二年後、大病を患って内地へ帰還し、病の治癒とともに除隊となりました。
その後、田中さんは東京の飯田橋で田中建築事務所を開設したのですが、この年には新潟県刈羽郡二田村の実家で年末年始を過ごしていたのです。
越後線の礼拝駅で降りた私は冷たい越後の空気を胸に吸い込み、雪深い田舎の田畑を歩いて、山間にある角栄さんの実家に着きました。辺りは丘陵と田畑ばかりの寒々しい村でした。
囲炉裏端で正月料理を食べながら話を聞きました。
「わしは村の二田高等小学校を卒業したのだ。成績はよかったが、体が小さいうえに吃音がひどくて、近所の悪童たちにずいぶんいじめられたよ」
「西山駅寄りの小学校へ通う道々、二田神社や小川、長嶺の池なんかで遊んだもんだよ」
田中氏のお母さんは「のっぺ汁」を作ってくれましたが、これは越後の郷土料理で、サトイモ・ニンジン・コンニャク・油揚などを出汁で煮こんだ温かい料理でした。
角栄氏はこの汁を食べながら次のように言いました。
「食料を買い出しに来る東京の連中は、米や味噌も、よくもまああんなに持てるものだと思うくらいたくさん担いで帰っていく。私は子供心に〝東京の人たちは嫌な人たちだ〟と思った。私の母は朝、真っ暗なうちから起きて、田んぼに入って働いている。牛や馬の世話もある。毎日、仕事の連続だ。そんな努力の集積を、東京の人たちは何食わぬ顔をして持っていく」
「わしには東京に飲み込まれまいという意地がある。恐ろしい魔物がひしめき合う大都会にどうやったら太刀打ちできるのか考えているんだ」(※3)
角栄氏は建築事務所の構想を雄大に語りました。
・・・この人はやがて大物政治家になるだろう。
と私は感じました。
彼は、恐ろしい魔物がひしめき合う大都会・東京と、雪国で田んぼに入って働いている越後人の環境の差を繰り返し語りました。
越後の寒村から上京した田中角栄さんは、働きながら早稲田大学の「校外生制度」という通信教育制度で学んでいました。
彼は、大学が発行する各学科の教科書雑誌の「講義録」による在宅学習で力を蓄えていたのです。田中氏は努力の人、苦学の人でした。
「君の英語力を我が社で生かしてもらえればありがたい」
角栄氏はそう言いました。
私は彼の〝生きる迫力〟と努力にショックを受け、自分自身に気合いを入れ直した記憶が、今でも鮮明に残っています。
帰京した私は、角栄氏にならって早稲田大学の通信教育「校外生」として英語英文専門部へ入学し、英語の勉強を再開したのでした。
やがて、この英語の勉強の縁で、私は戦地の諜報要員として働くことになります。
三 母が語る戦争突入の頃
その頃の私にとって、勝一や勝治から東京で元気に暮らしているという手紙がくることが、一番うれしいのでした。
「月月火水木金金」、土日返上で働くという意味を表すこの言葉がこの年の一番の流行語で、私たち女性は労働着のもんぺ姿が日常の服装でした。休日返上で猛訓練をする軍隊を礼賛し、国民もそれに倣うのがよいという風潮でした。
勝治は昭和十六年の秋の終わりに東京での研修を終えて十日町へ帰省し、日本橋の百貨店や銀座の「萌黄」で学んできたことを生かすんだと言って、張り切っていました。
ところが、勝治は、この翌年、肺結核を発病し入院しなければならないという事態になってしまいました。若い勝治もこの病気には勝てません。
東京で感染した病気が潜伏期間を経て発病したらしいのですが、周囲の者への感染を防ぐために、勝治は医者の勧めで長岡郊外の療養所に入院することになりました。
結核は当時の日本では国民病、亡国病と言われるほど恐ろしい病気として社会に広く浸透していました。
勝治が病院に入ってしまいましたので、店の方は家族では私のほかは美智子が手伝うだけで、夫は相変わらず自分のペースで暮らしていました。美智子は人手がなくなった家を助けて一生懸命手伝いをしてくれました。
十日町は周囲を山に囲まれ、冬には三メートルもの積雪がある日本有数の豪雪地帯ですから、冬の間、雪下ろしが大仕事なんです。
家屋が雪の重みで倒壊するのを防ぐために屋根の除雪を行う必要があり、その作業の担い手を毎年確保していましたが、昭和十六年も冬の初めから大雪で、勝治の発病前のことでしたので、勝治も手伝って店員やら臨時雇いの近所の人たちが雪下ろし作業をしていました。
「今年も雪との闘いが始まったよ」
「また半年は雪の中の暮らしだね」
私は、子供らとそんな話をしていました。
一九四一年(昭和十六年)の年十二月、日本に中国から無条件即時撤退せよというアメリカの要求があり、これを拒否した日本は開戦を決意し、大東亜戦争に突入しました。当時は太平洋戦争とは言わず、大東亜戦争と言っていたことは前にも言いましたね。
「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
十二月八日朝、ラジオの臨時ニュースが繰り返し勇ましく叫んでいました。
日本は、アジアを植民地として支配している白人たち英米に戦いを挑んでいくのだということで、ラジオも新聞も、近所の方々も夫も、この開戦を大いに喜び、明るい気持ちになったのです。
私たち日本人の大部分は“頭上の雲がパーっと消えたような、晴れ晴れとした気持ちになり、万歳、万歳の叫び声をあげていました(※4)。
「アメリカの力を知らない日本陸軍と情勢認識の甘い海軍がとんでもない戦争を仕掛けたものだ」
勝治はそのように言いましたが、当時の日本では、勝治の感想は非常に特殊な考え方でした。
新聞等で伝えられる戦況は、日本軍の勝利に継ぐ勝利であり、押せ押せの必勝ムードで、
「敵に甚大な損害を与えた」
と言い、日本の勝利は間違いなく、すぐにも米軍は降伏するであろうと、国民を楽観させるような情報ばかりでした。
開戦当初、日本軍が連合軍を撃破したことで、日本が欧米の抑圧をはねのけ「鬼畜米英」に打ち勝つだろうと、国民は気持ちが高揚し、日本中が浮き浮きと湧いていたのです。
家の近所でも皆が大喜びをしていましたが、これがぬか喜びだったことは間もなく分かります。
「日本は、長い間欧米の植民地支配の下にいたアジアの人々を勇気づけた。インドやインドネシア、ビルマで日本援助の下、軍隊組織が作られ、国民軍が結成されたようだな」
夫はそう言って喜んでいましたが、自分自身も在郷軍人として表舞台に駆り出され、隣組を束ねる組長や地区の出征兵士見送り係を拝命することになりました。
「とんとん とんからりと 隣組
格子を開ければ 顔なじみ
廻して頂戴ちょうだい 回覧板
知らせられたり 知らせたり」
こういう歌謡がはやりましたが、隣組の活動はだんだんと厳しいものになっていきました。
隣組というのは国民総動員体制の末端組織で、各地で十世帯から二十世帯単位で組織されていきましたが、一也の記録によると、目的は、祭祀慶弔・親睦・相互扶助・災害防護・役所や官公署との連絡・各種団体との連絡協調等とされていました。
特に防空については、地域での消防・灯火管制・警報伝達・防護などを担い、民間防空体制を整えていったのでした。
十日町には信濃川対岸に水力発電所があり、その防護防空体制は特にやかましく言われました。
「米軍の空爆を受ける恐れがあるからだ」
隣組の組長として一也が役所の情報を伝えました。
事実、この発電所は後に米軍の爆撃機に狙われ、周辺住民は大変怖い思いをしました。
生活必需品の配給も隣組を通じて行われましたが、組によって真面目に活動しない人には配給してあげないなど、意地悪なこともあったようです。
隣組は「常会」を通してその活動をしておりましたが、常会とは一定の日と時間と場所とを定めて定例的に行う会合のことでした。その運営は住民の自発的な創意にまかされるというものでなく、役所を通して、日時・場所・出席者・司会・進行順序まで細かく指導されていました。
「上からの指導もあり、きちんと運営しなければならん」
一也はそう言って常会を真面目に開き、会議をこまごまと運んでいました。
一也の生活記録によると、日常生活必需品の配給制は一九四一年(昭和十六年)二月、東京で米の配給制として行われ始め、年末までには全国に波及しました。
新潟県は首都圏の穀倉で、一県で全国割当量の七%以上を担ったそうです。越後は食糧危機にあえぐ大都市部にとって最大の供給基地であり、こうした状況を反映して、当時、マスコミでは新潟県を指して「日本のウクライナ」と呼ぶことがしばしばでした。
しかし、米どころの越後でも米は手に入りにくくなりました。
ただ、我が家では得意先の近隣農家数軒から特別に分けていただいており、その中から東京の勝一にも送っていました。
「山田洋服店の家族や職人が大喜びだよ。この頃こちらでは米だけでなく小麦粉や味噌、醤油も品薄だ」
勝一の便りにそのように書いてありましたので、衣類等の中に隠して折々に米や小麦粉を送りました。
戦争が長引くとともに必需品の不足が度を増し、物価が高騰し、東京では同年五月に家庭用木炭が、九月には砂糖・マッチ・小麦・食用油が配給制となりました。
翌一九四二年(昭和十七年)一月には食塩の通帳配給制が実施され、六大都市では味噌・醤油の通帳割当制となり、二月には衣料品が点数制となりました。その後も配給の範囲は広がってほとんどすべての物が統制下に置かれました。
米は米穀通帳を通して成人は一日三三〇グラム、砂糖は購入券を通して月に一人〇・六斤、塩は購入券で月に家族で二〇〇グラム等々非常に細かく決められていました。
生鮮食料品や魚介類等の副食品は配給が難しく、情実売り・闇売り・横流し・抱き合わせ販売などが横行しまして、それは都市部ほどひどい有様だったようです。
品物を手に入れるための行列買いや、都市から農村への食料品買い出し列車の雑踏ぶりは日常茶飯事となったのです。
「家では食糧については割合に恵まれていたな」
生活が平穏に戻った後年、一也が思い出話をしたことがありました。
「米や小麦粉、野菜は近隣の農家から分けてもらったし、我が家の衣料品と農家の穀物を物々交換したこともよかった」
私も食糧についての思い出はよく覚えています。
「お砂糖や魚介類には困ったわね。菓子類はほとんどなくって、母さんがお砂糖抜きのドーナッツをよく作ってくれたわね」
美智子が言うと、
「東京から買い出しの人たちがやってきて、米や芋類を担いで帰った光景を覚えているわ」
従業員も話に加わりました。
「柏崎の親戚に漁師がいて魚介類を衣料品と取り換えたことが何度もあったね」
私は山向こうの柏崎からお魚を持ってきてくれた親戚をありがたいと思ったものでした。
「田中角栄さんの東京嫌いは、金品で農村の収穫をさらっていく都会人への嫌悪だろうね」
東京から帰省していた勝一はそう言いました。
家業の呉服店経営は「ぜいたく品」の制限令や衣料点数制等で窮屈極まりない状態になりまして、越後縮みや明石ちぢみなどは取り扱いすらできなくなりました。
政府は一九四〇年(昭和十五年)、「奢侈品等製造販売制限規則」を公布し、これによって、ぜいたく品・不要不急品・統制外にあった高価な規格外商品の製造、販売を禁止したのです。
一九四三年(昭和十八年)、商工省は、反物の長さ制限、長袖の和服・ダブルの背広など「非必需品」六〇〇余種の製作、生産を禁止しました。
「これでは越後縮みも明石ちぢみも滅びてしまう」
同業者や関係者は集まるとそのように嘆きました。
「だけど、時が時だけに織物の伝統とか言っていられないだろうよ」
衣料点数制というのは衣料品を支給された点数の範囲で買う制度のことで、戦局の逼迫化にともない、生活必需品の生産量が不足し、衣料品購入にも切符でということになり、生地(綿製品)を多量に使用するものほど多くの点数が必要となりました。
袷一枚六十点、国民服、制服の上下揃いが五十点、ワンピースが一着二十点、ブラウス十点、ズボンまたはスカートが一着七点などとなっておりました。
実際には、こうした衣料品を購入したくても衣料品は少なくなり、食料品への支出が増え、人々はありあわせの衣類でやりくりしていました。
「男物のパンツは十三人に一人、女物の仕事着は六人に一人しか渡らないという事態だ」
常会でこのような会話が交わされ、衣料切符も有名無実なものになってしまいました。
国は、常会等を通して、戦意高揚の標語として「ぜいたくは敵だ!」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」等と国民に繰り返して呼びかけ、ラジオは「パーマネントはやめましょう」「日の丸弁当奨励」などと叫んでいました。
「日本中が同じような顔つきで、同じことを叫ぶようになったな」
勝治がそのように洩らしていました。
日の丸弁当にも白米は年々少なくなり、麦や芋類、トウモロコシ入りのお弁当が普通になっていきました。
勝治の話では、日本軍はシンガポール、マニラ等へ進撃し、東南アジア各地を占領しました。
ですが、後々の歴史家によると、日本軍は昭和十七年六月ミッドウェー海戦で敗北し、以後は旗色が悪くなっていったようでした。
入院していた勝治は暇にまかせてこれらの事情をよく調べておりました。
夫が言うには、ミッドウェー海戦は大東亜戦争の転換点となった海戦で、連戦連勝を続けてきた日本軍が初めて経験した挫折だそうです。
「お店では国民服の製造ばかりで、紳士服の注文はほとんどなくなったよ」
勝一からの手紙にそう書いてありました。
日常生活必需品の配給制にともなって、我が家の衣料品、呉服販売も限られた枠内で細々と続けられていました。
「欲しがりません、勝つまでは」 これはこの年、昭和十七年に大はやりした言葉です。「滅私奉公」が強調され、国家への協力は国民の心情に訴えて、さらに強力に押し進められました。
日本政府が大東亜戦争と命名したこの戦争の目的は「自存自衛とアジアの欧米支配からの解放、大東亜共栄圏の建設」ということで、国民はこれを熱烈に支持していました。しかし、勝治の調べでは、実態は次のようだったといいます。
「決戦!」の連発、「必勝の信念」の氾濫、戦況の一方的伝達や情緒的国民歌謡の流布など、非合理的ムード化が国民生活の破綻と表裏して進行しました(※5)。
日本中で、きちんとは説明しきれない高揚した気分が蔓延し、戦争推進の空気が醸成され、発酵し続けたのでした。
このような世相のなか、勝一に召集令状が来て出征したのは、昭和十八年十月、勝一が二十四歳の時でした。
四 歴戦 勝一の話
「木村勝一君、電報だ」
店のご主人が仕事場にいる私に小さな紙片を差し出しました。
私は、もしやと胸が高鳴り、さっそく開けてみると、父からの電文です。
「アカガミキタ 十七ヒ ニュウタイ アトフミ」(赤紙来た 十七日入隊 後文)
ついに来るものが来たと思いました。
赤紙とは男子を兵として召集する命令書で、紙の色が赤かったので俗に赤紙と呼ばれていました。
父が、召集令状が家に届いたことを急いで知らせてきたのです。十月十七日に入隊せよとの召集令状が来た、後から手紙で送るという意味でした。
後日、封書で届いた召集令状を見ると、
「十月十七日午前八時に、北部二十一部隊新潟工兵隊に入隊すべし。」
と書いてありました。
日数が半月間あったので、入隊準備はできます。
私は紳士服の仕立てを修業中で、その基本を覚えた程度の段階であり、これから店主自身に本格的な技術を習うという手はずでしたが、これは中止ということになってしまいました。
店の人たちがあわただしく壮行会を設けてくれました。
「元気で行ってこいよ。帰還後にテーラーの修業を続けような」
ご主人がそう言ってくれましたが、この別れが主人との永の別れになろうとは知る由もありませんでした。
「九月にイタリアが英米軍に降伏したが、なに、ドイツがついているさ」
同席していた井出裕太がニュースを口にしました。
この年、一九四三年(昭和十八年)五月、連合艦隊司令長官の山本五十六大将が戦死、七月、ムッソリーニは失脚し、九月、イタリアは連合国に無条件降伏をしていました。
しかし、日本の新聞や街には国民を鼓舞するために「撃ちてしやまむ」(敵を撃ち殺さないでおくものか)などという標語があふれ、国をあげて戦意高揚を図っており、女子挺身隊・少年兵募集・学徒出陣等々、国民は総力戦体制に組み込まれていきました。
ところが前にも述べたように、大東亜戦争の実情は、昭和十七年六月ミッドウェー海戦の敗北を境に、日本が戦争の主導権を失っている状況だったのです。
国民はそういう実情をまったく知りませんでした。国民が情報を知ることができないような様々な仕組みがあったようです。
今考えると、主導権を失い、負けっぱなしの戦争に行くべく、
私は出発準備をしていたことになります。
自分の進んでいく悲劇的な状況を知ることなく、私を含めて膨大な数の青年たちが勇んで戦地に向かったのでした。これは恐ろしいことです。
私は上野の叔父に出征の挨拶をするため出向きました。
「いい加減にやれよ」
叔父は、いつものように、少々ふざけた調子でそう言いました。
「本気でやると人先に命をなくしかねない時代だ。いい加減にやって生き延びるようにせい」
叔父は、真面目で生一本な人間ほど時勢に巻き込まれて危ない目に合い、戦死しかねないと言うのです。
「隣家の青年は、兵役検査の前日に多量の醤油を飲み、高熱を出して不合格になって召集を免れたよ。そういう生き方もあるんだ」
叔父の話は、私には嘘としか映りませんでした。
叔父によれば、徴兵を忌避して醤油のようなものを飲み込んだ例はかなりあったようでした。しかし事情がばれると、「非国民」とか「国賊」とか言われ、相当な非難を受けたのでした。
岩崎紀子さんとの別れはつらく、彼女は十日町の私の実家まで一緒に行くと言い、
「せめて送らせて」
帰省する私についていくと言ってききませんでした。
私は、昭和十四年の春以来、四年半余り親しんだ日本橋に別れを告げて、岩崎紀子さんとともに越後の十日町に帰郷したのでした。紀子さんのことは実家に夙に話してありました。
車窓から黄金色に実った田んぼや山々が見え、十日町の駅で降りると、新しい稲穂の匂いが空気に混じって香っていました。
私は、家族や岩崎紀子さんとともに、別れの一夜を過ごしました。
二日目の夜には親類縁者や近所の人たちが集まって、夜更けまで酒を酌み交わし、赤飯を食べ、別れを惜しんだのです。
「おめでとうございます」
人々はそう言いましたが、実際には、月に何回となく飛び込んでくる知人や縁者の戦死公報に心は湿りがちだったのです。
奉公袋を準備しましたが、この袋は出征兵士が軍隊に出向くとき、軍隊手帳・召集令状・徽章・貯金通帳など軍隊生活に必要なものを収納しておくための、小さな巾着袋です。
国旗への縁者の寄せ書きも持参する準備をして、やがて出発の朝がきました。
私は軍服に身を固め、両肩に赤いたすきと「木村勝一」と書いたたすきを交差して掛けました。
〝祝出征木村勝一君〟と書いた大きな幟を先頭に、家族、近隣の人たちとともに村の鎮守様に参拝して武運長久を祈ります。父は誇らしげな顔つきをして人々に挨拶をしていました。
大東亜戦争の始まった頃は、地域あげての盛大な見送り風景が常でしたが、昭和十八年頃を境に出征兵士を送る行事もすっかり寂しくなったのでした。たとえ出征兵士のためでも酒は制限され、楽隊で送ろうとしても楽器を持つ若者が出征したり戦死したりして、隊員がめっきり少なくなっていたのです。
それでも私は親族縁者に送られて、新兵として十日町駅から汽車に乗って故郷を離れました。
我々初年兵二五〇名が新潟市の「新潟工兵隊」に入隊したのは、昭和十八年十月十七日午前八時でした。薄暗くどんよりとした空に、風が冷たく頬をよぎったことを覚えております。
さっそく、皺だらけの軍服と硬い軍靴を支給され、姿格好を陸軍軍人に仕上げられました。日本橋の洋服縫製店で修業中のテーラーの面影はどこにもありません。
戦地の北支(北部中国)から派遣された少尉・軍曹らの四名が私たち新兵の教官でした。
まず教官を囲んで記念写真を撮り、これからの軍隊生活の注意を受けた後で、営庭(兵営の中の広場)や練兵場、内務班等に案内されたのですが、お客さん扱いはその日だけでした。
就寝前に宿舎で自分の荷物を解いてほっと一息つき、出発した十日町駅で紀子さんが手渡してくれた紙袋を開けると、「無事のご帰還をお待ちしています」と書いたメモとともに飴玉が十個ほど入っており、胸にジンと来るものがありました。
翌日からは、軍人勅諭の座学・軍事教練や敬礼の仕方・掃除・洗濯・食事当番など、起床から就寝まで目の回るような忙しい日々が襲ってきたのです。
「聞きしにまさる忙しさだ」
初年兵の誰もがそう口にしていました。
まず、軍人勅諭を全部暗唱できるよう命令されました。軍人勅諭は一八八二年(明治十五年)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭で、総字数二七〇〇字に及ぶ長文です。
前文で天皇が統帥権を保持することを示し、続けて軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五つの徳目を説いた主文、これらを誠心もって遵守し、実行するよう命じた後文から成っています。
〝我か国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある。昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中国のまつろはぬものともを討ち平け高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ〟と始まるのです。
「長すぎて覚えられん」
多くの者が愚痴をこぼしていました。
この直喩は、一九四五年の敗戦まで、教育勅語とともに天皇制国家を支える思想・主義の二大支柱と言われ、兵隊に徹底的に仕込まれたのです。
「国の中心に天皇がおられ、天皇の統率する軍隊ががんばっているからこそ日本国が一体となって発展するのだ」
これは夫の常套句でしたが、当時は国民皆がそういう感覚であり、私もその一人でした。
新潟工兵隊の訓練は二か月弱でした。
「工兵」とは陸軍における戦闘支援兵科の一種であり、歩兵・砲兵・騎兵等と並ぶ兵科でした。
「要するに何でも屋だよ」
と古兵が教えてくれましたが、任務は戦闘陣地の建設から戦闘における歩兵の支援など多岐にわたり、古兵の言葉どおり何でも屋の性質が強い兵隊でした。
敵の地雷原や鉄条網の破壊のために誰よりも先に敵に攻撃を開始することもあるので、その訓練も必要で、初年兵は行軍・陣地設営や通信機器設置・地雷破壊等の訓練を連日行いました。
私はテーラーとして手にしていた洋服の生地や裁断鋏の替わりに銃や地雷を持って、その操作を学ぶ日々を過ごすようになったのです。
冷たさを増してきた潮風に吹かれながら海岸で通信機器設置訓練をしていた時のこと、たまたま無線で傍受した電波に、日本海で戦闘中の米軍の英語が流れ、私がその英語を翻訳したことがありました。
“We are fighting with the Japanese Navy in the Sea of Japan”
「アメリカ兵が、我々は日本海にて日本海軍と戦闘中であると言ってるよ」
私がそのように言うと、
「お前は英語ができるのか」
上官の少尉が聞くので
「はい。英語は以前から学んでおりました」
「・・・そうか。それは特技だな」
少尉はそう言って何か考えておりました。
その年も押し詰まった頃、私はその少尉に呼ばれ、上官の部屋に行きました。
「通信の諜報要員が前線で不足しているんだ」
少尉はそう切り出しました。
諜報要員とは敵情をひそかに探って知らせる兵士で、米英語の語学力が必要でした。
私は、以前から学んでいた早稲田大学の「校外生制度」、英語英文専門部の経歴を生かして、諜報要員として陸軍幹部候補生へ転進、昇進するよう勧められたのです。
「ついては久留米予備士官学校へ入校してもらいたい」
これは勧告というより命令でした。
私は、以来、見習い士官候補として、軍事教練や掃除・食事当番よりは、英語英文の翻訳と諜報訓練・無線傍受訓練等を主な任務とすることになりました。
偽電報を打って敵を混乱させる練習で、
“Have you ever been to China ? “(中国へ行ったことがあるか)と言うべきところを、
“Do you have ever been to China ? “というような間違いをすると、すぐに敵側の偽文だなとばれてしまいます。諜報訓練、打電訓練も真剣でした。
現在完了で使うhaveは助動詞ですから、canやmayを使う疑問文が主語の前に出てCan we ~?とか、May we ~?とか言うのと同じです。Do you have~?とは言いませんので、日本式の英語だと分かってしまうんですよ。
諜報要員として久留米に行くということは外地の前線に派遣されることを意味していました。
一九四四年(昭和十九年)十一月、私は幹部候補生に合格し、十二月には見習い士官として久留米予備士官学校へ入校することとなりました。
久留米に出発する前、新潟工兵隊寄宿舎で家族に面会し、別れを告げる機会が与えられました。
「人相が変わったな。軍人らしい顔つきになってきた。これからさらに厳しい生活だろうが、国のためにがんばってくれ」
父が私を見るなり言った言葉です。
「久留米行きは南方派遣につながるが、そういう指令は出ているのか」
父はそうも言いました。
「いえ、指令はまだです。しかし、久留米に行っても行かなくても、日本兵の外地派遣は今や時の勢いです。多くの者が南方へおもむいています」
「必ず無事で十日町へ帰っておいで」
母はそのように言って涙ぐみました。
勝治や美智子も面会に来ていましたが、私には岩崎紀子さんが倉庫の陰で泣いている姿が長い間忘れられませんでした。
久留米予備士官学校に着くと、すぐに新しい軍靴・軍服・軍刀の支給がありました。
この士官学校の訓練は諜報訓練が中心で、英語習得・暗号解読と打電訓練・有線、無線機器の設置・一週間の行軍訓練等でした。
諜報訓練のなかには戦闘機の識別訓練もあり、この性能調査には苦労しました。グラマン機・P51機等、日本軍にない戦闘機の形状や性能を知っておくのですが、見たこともないのですから、その形状や性能を知るのは。容易ではありません。
また、戦車各種や軍用ブルドーザー・ダンプトレイラー・トラックター等作業車の名称学習も行います。
ある時、通信訓練があり、受信の練習をしました。
疲れていた私はレシーバーから聞こえるピーピー音が子守り歌のように聞いて眠気を誘われ、どうしても受信用紙にきちんと書けません。
初めの方は正確に書いていますが、途中から数字がなんと「εηκξ ωψτν」のように化けてしまっており、どうも夢の中で無線を受けていたような具合です。
「前に出ろ!皆が一生懸命に練習をしているのに、無線を受けてないとはけしからん」
そのように言った班長は私を往復びんたで殴りつけ、黒板に大きく、
「ニイタカヤマノボレ1208」と書きました。
「貴様はこのことをよく覚えておけ。昭和十六年十二月八日、真珠湾を攻撃せよとの暗号文だ。一通の受信文が戦局を左右するのだ」
しかし、実際には真珠湾での開戦通告一通がきちんと敵側に伝わらなかったために、日本は後世まで米国から批判されていることはご承知の通りです。間抜けなのは私ばかりではありませんね。
一週間も続く行軍訓練がありました。一週間の行軍とは阿蘇外輪山の演習場から門司まで、不眠不休で一週間行軍するという訓練でしたが、
「この程度は戦地における実戦とは比較にならないほど優しいものだ。諸君は第一線で実戦がいかに苦しいか体験するだろう」
生徒隊長の中佐はそのように言いましたが、後年、この訓示がまさに真相であることを何度も体験しました。
士官学校は通常は十一か月で卒業です。しかし、私はにわか仕立ての士官として三か月で卒業し、急遽、マニラに向かうこととなりました。
当時、私たち兵士は上官から「貴様らは消耗品だ」とよく言われました。ちり紙同様使ったらすぐに捨てられ補充できるという意味で、兵隊は次々と惜し気なく戦線に送られました。
三月、私に南方派遣軍への転属命令が下り、輸送船で数百名の僚友とともに門司を出航しました。
「皆も覚悟していることと思うが、我々は今完全なる戦闘装備を終えて門司港を出港した。大砲も実用弾薬を満載し、魚雷も実用頭部に取り換え、他の装備もすべて実戦準備が完了している。本船はこれより戦地に向かって進むので、いつでも配置について戦闘できるよう心掛けよ。戦地においても日ごろの訓練の実力を生かし日本軍人として立派に戦ってくれ」
これが船長の訓示でした。
玄界灘で私も軍友も船酔いの試練を受けました。大荒れの海でまともに食事ができた者は数百名中二名の兵だけということでした。
以来、南方の激戦地を転々と駆け巡って、文字通り「地獄」を体験することになったのです。
この激戦体験で私の心は劇的に変化し、平穏な人生を送ることのできない心の傷を負ったのでした。詳しいことは順次お話しします。
寝室は下の船室にあって、二百三十名の兵隊はここで起臥を行いました。
私は、船側に上下二段あるベッドの下段が割り当てられました。
ベッドは狭く、天井は低いのですが、足はかろうじて伸ばせます。横幅は60cmほどでしょうか、寝返りはうてます。
ベッドに座ると、頭が天井に当たるほどの高さで、ベッドにはカーテンはなく、外から丸見えでした。
小さな棚が一つ付いていて、小間物はここに置けました。
海路の途中、台湾とルソン島間のバシー海峡で米軍潜水艦の攻撃を受け、僚船が多数撃沈されましたが、私の乗った船が、日本兵の死体がたくさん浮く海峡を渡り切り、マニラに到着したことは、先に母への手紙に記したとおりです。
船内では映画上映や余興大会もありましたが、戦意高揚映画などは見たくないものの筆頭で、映画ではなんといってもエノケンが人気で、「エノケンの千万長者」など明るいのがよかったんですね。
マニラでは比島方面軍最高司令官山下奉文大将の閲兵を受けました。その感激は忘れられません。
次に、一九四四年(昭和十九年)三月から半年間の、 マニラ近辺での生活を述べます。
マニラには一九四二年にはすでに日本軍が進軍し占領していましたが、統治政策の不手際によってフィリピン人の反感を買っていて、大変に残念なことでした。その訳は・・。
日本軍がフィリピンを支配するようになってから、夜間外出禁止令・建築物の接収・フィリピン全国の新聞雑誌書籍の発行所及び印刷所の接収、統合・映画館の統制・公共の場でのアメリカ国旗の掲揚及び国歌の演奏の禁止など次々に実施しました。
さらに、町や橋、川、公園の名前を日本風に改名・教育の基本原則の発令・カトリック教会の統制・軍票の流通など、日本軍は、フィリピンに対する政策を矢継ぎ早に実行して、フィリピン社会をたちまち日本軍の支配下に組み込んでいきました 。
私は、日本の「大東亜共栄圏」というスローガンは日本国民向けの表現であり、「共栄」とは真逆の実態であることを感ぜざるをえませんでした。
フィリピン人は日本人に敵意や恨みを抱きました。
「侵略軍」であった日本軍は住民から信頼されていませんでした。
フィリピン人はアメリカ人には深い忠誠心を示しました。
「アジア解放のための戦いだ。日本軍が先頭になって闘うから、フィリピンの人々も協力してくれ」
「これまで四十年間アメリカ型の民主主義教育を受けたフィリピ人には、天皇崇拝など受け入れられないよ」
「今までに日本は朝鮮・台湾・満州を植民地として手に入れ、その後も中国大陸に侵攻している。アジア解放のための戦いだと言われても、誰も信じないだろう」
これは日本軍人と知日派の現地人との会話ですが、自国の政策を一方的に強制、強要した日本軍や日本人移民がフィリピン人の根強い敵対心にさらされたのも故あることでした。私は原住民による抗日ゲリラ活動によって何度も命の危険にさらされました。
フィリピン人を侮蔑し、「土人」として馬鹿にした日本人の様子は忘れられないないものですが、ここでは詳しくは触れません。ただ、「大東亜共栄圏」の「嘘」を解説した歴史書の一節をご紹介します。
「大東亜共栄圏」の建設は、太平洋戦争の戦争目的とされた。それは、開戦の名目「自存自衛」と共に、時と場合によって使い分けられた。「大東亜共栄圏」という場合は、欧米からのアジアの解放という「聖戦」を強調するときに使われた。(中略)実際には占領した南方諸地域で日本が行ったのは資源の収奪であり、アジアの解放ではなかった(※6)。
日本の上層部は現実を隠して都合のいいことだけを発表していたようです。
諜報要員の私にはこのような特徴に気づく機会が多く、日本軍部幹部への疑念がきざすのを禁じ得ませんでした。
ひどいことを知られるのが嫌で、事実を隠し上辺を装って過ごすことは、軍隊でも企業でも、さらには国においても陥りがちな傾向なのでしょうか。
当時、日本人がアジアの国々を理解せず、彼らの誇りや文化を無視して、一方的に弾圧したことは嫌でも目に入りました。 後に知ったことですが、アジアの民衆がどう思っていたのか、一例を挙げておきます。
「日本兵は私たちを米軍から解放してくれるだろうか」
「どうかな。彼らは中国ではひどい仕打ちをしているようだ」
フィリピンでもインドネシアでも民衆は初めは日本軍を歓呼で迎えました。
しかし間もなくそれは幻滅に変わりました。
司令部や軍人の前で敬礼をしないということで、日本兵がすぐ殴ったり,蹴ったりしたからです。
米軍やオランダ軍は民衆を拳骨で殴ったり蹴ったりというようなことをしなかったのです。
日本兵の暴行は現地の民衆に対する耐え難い侮辱でした。
「軍隊ががんばっているからこそ日本国が一体となって発展するのだ」
という父の常套句について、日本国民ほぼ皆が同様の考え方であり、私もそうだったことは前述しました。
しかし私は、現地の人々をすぐに拳骨で殴りつけたりして暴行する日本の軍人を見たくはありませんでした。どうも、「がんばる」方向が違うのではないかと私は感じたのです。
ところで、無線の傍受で私が得ていた情報は次のようでした。
“フィリピン作戦では、日本軍は決戦場をフィリピンのルソン島に限定する計画であり、これに基づいて、陸、海軍をフィリピンに進出させるべく配置する。”
一方、同時期、アメリカ軍では、マッカーサーの強い提案によりフィリピンを攻略する作戦が承認されました。
これによって、フィリピンが大戦場となることが決定的となったのです。
一九四四年(昭和十九年)六月、出征してから初めて家族の手紙が私の手元へ届きました。
安否を尋ねる文面のほか、家族が元気でいること、岩崎紀子さんが訪ねてきたことのほか、十日町線と飯山鉄道が一体となり、国鉄飯山線となったことなど十日町の話題が書いてありました。
「町の観音様に毎日お参りして、勝一の無事を祈っていますよ」
母はそう書いていました。
観音様は寺境内の小さなお堂の中に祀られ、地域の人々の信仰を集めていました。母もこの観音様に以前からよくお参りしておりました。
「上野の叔父さん流に言えば、危険なことはいい加減にやって生き延びるのが一番だよ」
そのような弟の手紙も入っていて、この文面には笑ってしまいましたが、戦地では通用しないことです。それどころか真面目に戦っている兵隊には国賊ものの言葉で、このような手紙が軍の検閲を逃れてよく届いたものです。
手紙の中で岩崎紀子という名前に接し、また十日町という字を見て、それこそ胸がつぶれるような愛しさ、懐かしさを覚えました。
紀子さんや母、家族が日本にいるということが私の心を支えていることを感じました。
しかし、私は、戦場の逼迫状態から見てもう日本へは戻れないないだろうと思いました。日本の光景が目に浮かび、うずくように切ない思いが胸中に去来しました。
八月、アメリカ軍は南洋群島を次々と占領した後で、八月三十一日に硫黄島を空爆し、ミンダナオ島を九月九日に襲い、セブ島・ルソン島南部そしてレイテ島のタクロバンを九月十二日~十四日に空襲と、連続して攻撃し続けます。
さらに沖縄、台湾沖の空襲と続けざまの猛攻撃を行いました。
これに対して、日本軍参謀本部は、ルソン島決戦という当初の計画を転換し、レイテ島を決戦場にする作戦を立て、海軍の主力戦艦、大和や武蔵を持つ第一遊撃部隊、第二艦隊の連合艦隊はレイテ湾に向かいました。
・・・ルソン島決戦という当初計画の転換はどうして行われたのだろうか。
これはこの時、私が抱いた感想ですが、その理由は後になって分かりました。
機動部隊は、おとりとなってアメリカ軍を引きつけ、第二艦隊のレイテ湾突入を容易にするための陽動作戦としてルソン島北部に向かったのです。
さらに、十月二十日、アメリカ軍がレイテ島に上陸した日、マニラの北に駐屯していた部隊では、戦闘機での体当たり攻撃を公式の任務とする「神風特攻隊」が初めて組織されたのでした。
二十四名の神風特攻隊員の任務は、レイテ決戦を目指す連合艦隊を援護する目的で、生還を期さずに体当たりする攻撃方法がとられました。
日本軍にとってレイテ決戦の焦点は、戦艦大和や武蔵を率いる艦隊のレイテ湾突入でしたが、進入を図った艦隊は途中で反転し、結局レイテ湾には突入しなかったのです。
・・・どうしてレイテ湾に入らないのか。
私はそう思いましたが、入らないのではなく、入れなかったのです。
レイテ沖海戦では、アメリカ軍の船舶沈没が六隻だったのに対し、日本海軍の損害は、主力の戦艦武蔵を含む三〇隻沈没という大敗に終わりました。
戦艦武蔵が沈んだ様子を上官より聞きました。
ひときわ目立つ「武蔵」は敵にとっては最もよい攻撃目標となりました。
日本人は、戦艦武蔵は絶対に沈まない、沈んだときは、日本の終わりなのだという「信仰」を抱いていました。
その武蔵も、命中魚雷二十本以上、直撃弾十七発以上、至近弾二十発以上を受け、夕暮れ迫るシブヤン海に沈んだのです。
十二月十八日、大本営陸軍部は、「決戦思想ヨリ持久思想へ転換ス」という指示を出しました。
その指示は思想の転換というのではなく、実はレイテ沖海戦の敗北で持久戦へとずれこむための方便、仕方なしの防備策であることに、私は後で気づきました。
結局米軍はレイテ島を攻略し、フィリピン方面の制空権と制海権を掌握してしまいました。
翌一九四五年(昭和二十年)、山下奉文大将はマニラを事実上放棄して、山岳地帯での持久戦にもちこもうと図りました。
このとき、岩田少将指揮下の海軍部隊は山下奉文陸軍大将の命令に従わず、マニラでの市街戦を一か月にわたって展開しました。
十二月十五日、山下奉文大将は日本人の病人と女子に対して疎開命令を出し、主力軍と武器・弾薬・食糧などの移送を始めました。
後の歴史書によると、これは、マニラ市街の多くが木造で燃えやすく、地下水が浅く、地下陣地や地下坑道を作れないので市街の防御戦が困難だったからです。
しかし、日本の海軍はマニラでの市街戦を主張して譲らず、その結果日本軍勢力は分断されました。
二月三日、米軍はマニラを急襲、戦闘は市街地に波及しました。
米軍は、多数のゲリラ部隊と砲撃により、市街地に残留していた日本軍約二万人を孤立させ、全面的な包囲攻撃を行いました。
すさまじい攻撃で火炎と噴塵煙の上がるなか、砲撃の轟音と炸裂弾の臭い、血煙と生血の臭いで市街は地獄図絵と化しました。
平穏だった市街は、これがあのマニラかと思われるような壊滅状態となったのです。
日本の司令官は自決し、マニラの市街戦は終了しました。
北部山岳地帯に移動した主力軍数十万人と、敗走する日本の民間人は、空からは米軍の爆撃に、地上ではゲリラの出没におびえながら、飢えと死の地獄旅を始めざるをえませんでした。
この後、私は作戦に従い、レイテ島決戦に備えて、この市街戦直前にマニラからレイテ島へ赴任しました。
この島は大東亜戦争中に世界海戦史上最大の激戦となったレイテ沖海戦の舞台近くにあります。
レイテ沖海戦は、私の着任前、一九四四年十月にフィリピン・レイテ島沖で行われた、日本海軍とアメリカ海軍との戦闘のことで、比島沖海戦もしくはフィリピン沖海戦とも言われます。
これにより、アメリカ軍はレイテ島に足場を築くことに成功し、フィリピン奪回を進めていくこととなります。
日本軍はこの海戦で空母四隻、戦艦三隻、重巡六隻他多数の艦艇を失い、残存艦艇は燃料のない本土艦艇と、燃料はあっても修理のできない南方艦艇に分断され、組織的攻撃能力を失いました。
この海戦で日本海軍は総力を挙げました。アメリカも太平洋に展開する全艦隊を挙げて戦ったため、史上最大の海戦として有名ですが、私のレイテ島赴任前のことでもありますので本稿ではこれ以上言及しません。
その後フィリピンにおける決戦、レイテ島の戦いが全島を戦場として起こりましたが、この戦場で日本軍は実に八万人以上の兵士がほぼ全滅するという惨敗を喫することとなります。
では、その戦闘の様子を記述いたします。
レイテ島決戦は日本兵の九十七%が死んだ戦闘です。
台湾沖航空戦で日本軍が大勝利を収めたという情報を陸軍が鵜呑みにし、海軍は翌日、これが誤報と知ったのでしたが、両者が情報を共有することはなく、結局、レイテ島決戦の指示が出されました。
私がレイテ島への転属命令に接したのは、昭和十九年十月、米軍がフィリピンのレイテ島タクロバンへ上陸する直前で、私が関東第一師団と合流する前のことでした。
レイテ島はマニラに比べると夜は涼しく、眠りやすかったのですが、米軍のほかゲリラの出没には注意が必要でした。
「レイテ島に米軍が来たというのでやっつけにきた」
「一週間もあれば方が付くさ」
満州からレイテ島に移動してきた関東第一師団の将兵たちは皆気軽な気持ちだったようです。
「だから一週間分の食料と武装しか持たなかった」
と僚友は語っています(※7)。
ところがレイテ島で待っていたのは、米軍からの雨あられの砲撃でした。それから数時間、私たちは間断ない猛烈な砲撃を受けました。
“最初の砲撃で小隊長は頭の真ん中を割られ、小隊の数十名が絶命。兵卒は全員が地に伏せた。顔を上げたら辺りは血しぶきで小隊長以下、兵の影も形もなかった“(※7)。
これは生き残った兵士による生の証言です。
レイテ島は、面積七二一四平方キロメートルの島で、レイテ湾に面した一帯は農業に適した平地なのですが、中央部は山岳地帯で、熱 帯性の気候と相まって密林となっています。
当時、島の人口は九十一万人で、その大部分は平野に住んで米やサツマイモ、トウモロコシを作っていました。
島内最大の都市は東海岸のタクロバンでした。
さて、米軍の攻撃が続くなか、私たちは徐々に密林に追い込まれていきました。
「米軍の圧倒的な攻撃の下、日本の飛行機は一機も姿を見せない。ただの一機も来ないんです。後で分かったことですが、援軍の補給計画はほとんどないままレイテ決戦は強行されたのです」
このように語る兵士の悔しそうな表情が、悔しさのあまり口がゆがむものですから、まるで笑い出しそうな顔に見えたほどです。
食料は底をついてきました。
「蛙や蛇・イモリ・ヤドカリなど生きているものは皆食べた。生で食べるからすぐ下痢をする。日に三十回も四十回も下す。で、赤痢になって倒れる者、食べ物がなく飢え死にする者、その数しれずという状態だった」
兵隊は調達とか徴用という名の略奪を行い、畑の作物のほか、水牛や豚を奪いました。
当然フィリピンゲリラの抵抗があります。
レイテ島は原住民による抗日ゲリラ活動が非常に盛んな所でした。ゲリラとは奇襲などで敵を襲う小部隊で、原住民戦闘員のことです。
レイテ島の日本軍壊滅の後で、丘陵地カンギポット山周辺に集結した日本軍敗残兵約一万人は原住民ゲリラの襲撃で殺戮されたり、飢餓によって行き倒れたりしたのですが、この件は後で詳述します。
もっとも、被害を受けたのは日本兵だけではなく、逆に、日本兵が外国の住民や兵隊を虐殺したり虐待したりした例にも事欠きませんが、これは本稿の目的からはずれますので省略いたします。
ただ、日本軍によるシンガポールの華僑虐殺事件をはじめ、中国・韓国・フィリピン・ビルマ・インドネシア等での虐殺や虐待事件を歴史に残す必要があると、今の私は思っております。
日本人は、自分たちの被害体験や歴史を記録するだけでなく、自分らが他国・外国人を弾圧した事件をきちんと見つめる必要があります。そうでなければ、物事の本質や全体像をつかむこともできませんし、世界に友人も親しい国も持つことはできません。
│ さて、私がレイテに着任した翌日、衛生中隊が付近山中でゲリラに襲われ、中隊長以│
│下、将校三人、兵十三人が戦死しました。 │
│ 戦況は厳しさを増すばかりで突破口がありませんでした。 │
│ 決戦の指揮者山下大将は九日目に停戦を上申しましたが、大本営は無視しました。 │
│ 大本営は現地の最高指揮官の意見を無視しただけではなく、大本営参謀の意見も無視│
│していました。 │
│ 大本営は爆弾の芯が溶けてゆくような無様な姿をさらしているのですが、当時、誰も│
│それを指摘しませんでした。 │
│ 関東師団が上陸して十六日目、火炎放射器で攻撃してくる米兵に対し「切り込み攻撃」│
│の指示がありました。 │
│ 一グループ十人から十五人の兵隊が集団で切り込むという攻撃なのですが、突撃して│
│も先方の敵軍に届くはるか手前で皆が砲撃を受けるか火炎に焼かれるか銃殺されるかし│
│てしまいます。 │
│「あまりの惨状に部下を救おうと退却命令を出した部隊長は『戦線離脱を指示した』と│
│して上官から激しく叱責され、中には上官の中隊長に撃たれた部隊長もいた。」│
│ 青い顔色でそう語る兵士がいます。 │
│「え!本当かい!」 │
│「私は豪内の隣部屋で銃撃音を聞いたんだ。中隊長が激しく叱り飛ばした後で、拳銃の│
│発射音が二発して、ドサッと倒れる音が聞こえた」(※7) │
敵にやられるのではなく、味方に撃たれるようでは何の戦なのか分かりません。
さて、私は、師団長の命令により、隊の所有する武器・弾薬その他の全品目を英文で作成するという仕事に取り掛かりました。
「お前は鉄砲弾が怖いか?」
ある日、隣の兵士が、上官から質問されていました。
「怖くありません!」
兵士が即座にこたえると、
「よし。お前には今日から第三中隊の戦闘隊長を命ずる」
上官の声が返ってきました。
この兵士以下数名は上官の命令で食糧徴用に出て、翌朝、全員が隣村の入り口際でゲリラの銃撃を受け、崩れるようにうつ伏して死亡しているところを発見されました。
徴用と称する略奪が横行し、飢餓による行き倒れや殺し合いを目撃することは日常茶飯事となりました。
各師団、兵士は「弾一発、米一粒も補給なし」という状況で、「担架かついでさまよえど、米の補給はさらになし」という極限状態に陥ったのです。
日本兵が激戦地に送られ、放置された状態は、南方前線の至る所で見られました。その訳は「絶対国防圏」の移動です。
絶対国防圏とは守勢に立たされた大日本帝国が本土防衛と戦争継続のために、必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域のことです。
数倍の兵力をもって侵攻するアメリカ軍に対し日本兵はよく戦ったのですが、すでに制空権、制海権を失っており、マリアナ沖海戦、サイパンの戦いなどで大敗を喫し、サイパン諸島を失ったことによって、攻勢のための布石は無意味となり、日本軍は防戦一方となりました。
かくして国防圏が次々に移動し、防衛圏外に置かれた南方前線は放置されることになったのです。孤立した戦線を支援する艦船一隻、飛行機一機もありませんでした。
関東第一師団と合流して五十日余りたった十二月二十一日、師団に対して転進命令が下りました。大本営がレイテ島を放棄し、兵隊を米軍のいないセブ島へ移らせるという策のようでした。
兵隊は海岸に向かって移動するのですが、疲れ果てていて黙々と歩くだけ。食料も体力も尽きてバタっと倒れるとそのままです。誰も助けない。助けられないのです。 戦友を置いて背中を超えて前に進むだけです。
・・・動けなくなったら自決せよ。
そういう教育を受けていましたから、私も他の兵隊も同じ気持ちでした。
行軍の邪魔になったり捕虜になったりすることのないよう、自分で自分を始末するように普段言われていました。
一万三〇〇〇人の師団中、海岸に集結した者二五〇〇人。このうち数百人が七十五人乗りの小舟四隻に乗りましたが、残る一八〇〇人はレイテ島に置き去りとなったのでした。
「置き去りにした部下の姿が忘れられないよ。その様子を何度も夢に見た」
と語る上官もいます。取り残された兵隊こそ哀れです(※7)。
私たち残留兵はカンギポット山周辺に行ったのですが、結局は米軍やゲリラにやられ、または飢え死にして、数名以外は全滅しました。私は生き残り数名の中の一人です。山岳と密林で過ごした地獄のような生活は、ここに描くに堪えません。
笑顔の多い明るい性格と言われていた私は、この頃から笑いが消え、眉間に常に皺のよった厳しい顔つきに変わりました。
「日本に帰ったものの、生き残った負い目から遺族に会えない。日本やフィリピンのお墓や戦没地にはお参りに行くけれど、遺族には会うことはない。自分自身の親や兄弟にも話したことはない。なぜって?・・・あまりにも多くが亡くなりすぎたよ」
セブ島からの帰還兵はそのように述べ、多くを語ろうとしませんが、私も同じでした。
セブに渡った将兵四百五十五人は七か月後に敗戦を迎え日本に帰ったそうです。
セブ島に渡って日本に帰っても、私のようにレイテ島に居残って生き続けても、亡くなった戦友の遺族に会うことなど、辛くてとうていできようもありません。
日本が兵隊を激戦地に送ったまま、多くの兵隊を放りっぱなしにした状態は、南方前線の至る所で見られました。
現場に上ったものの、はしごをはずされた将兵、島に置き去りにされた兵卒等、なす術のない兵隊たちの運命は悲惨なことこの上なしでした。
後々、レイテ島に居残った戦友と語った記録がありますので要点を再現します。
「残されて以後、おれたちの運命は残酷を極めるものだったな」
「道端に息も絶え絶えに寝転がる負傷兵の目や鼻や口にはウジ虫がうごめいていたよ」
「伸びた髪の毛に集まった真っ白なウジ虫で白髪のようになった兵士が、木の枝に妻子の写真を掛けて、それをおがむように息絶えていたよ」
「水を飲もうと沼地に首をつっこんだ兵士がずらりと行列のまま白骨となっていたよ。頭髪だけが水草のように泥水に漂っているのさ」
「パックリとあいた腿の傷に指を入れてウジをほじくりだして食っている兵士がいたっけ」
「泥に埋まったまま、『兵隊さん、兵隊さん、手榴弾を下さい、兵隊さん』と呼びかける兵士の姿が忘れられん。苦しすぎて死にたいのだ」
「それでもよ、上官は手榴弾による自決を許さず、戦車・重火器の放棄を禁ずる、全力を尽くすべし、という一点張りだったなあ」(※8)
次に、レイテ島山間部における飢餓、戦況について記述します。
戦死は敵軍の攻撃によるものだけではありません。山間に住む少数民族や、なんと味方のはずの兵によって殺されたこともありました。
さらに山奥へ避難した私たちは、紙袋入り餅粉など戦闘携帯食もすぐに尽きて、タロイモなどの芋類は言うに及ばず雑草も糧とし、幹から採取する椰子澱粉、鼠や蛇を捕らえて食べました。
ほかにヤモリ、トカゲ、コウモリ、イボガエル、モグラ、ゲンゴロウ、トンボなどの昆虫類も食べました。数日間食べ物なしで過ごす日々が多くなり、眩暈がして動きが鈍くなるようになりました。
やがて、食いものの尽きた兵隊たちが同じ日本兵を殺して食べるのを目撃したこともあると告白しなければなりません。この件はここでは省略いたします。
また、私は道々で死んでいる日本兵や白骨化した兵を見ましたが、恐ろしいことに、このような光景に徐々に慣れてきたのでした!
私は、いよいよ最後の時だと、遺書を二通書いて奉公袋に入れました。
一通目は次のようです。
「祖国を思いつつ、ここに天皇の命に殉じて、死ぬ覚悟を固めました。
父母へ 先立つ不幸をお許しください。
弟、妹へ 両親を頼みます。」
二通目は、
「岩崎紀子さんへ いろいろとありがとう。さようなら。」
とだけしたためました。
水も飲めず、飢えに苦しむ状態の中で、私は頭の朦朧とした状態で過ごしました。極限体験の連続で異様な精神状態に陥ったのでした。
私は何か叫んだり、そこにある物に食いついたりしました。
やがて木々を嘗め、地上を転げ回り始めたようなのです。
また、私は何かを振り払うような奇妙な動作をし、何事かを訴えるような異様な踊りをするようになりました。
私はボーフラの湧いている水溜りの水を飲み、涼しい熱帯樹の影で休憩しました。
ひんやりとした熱帯林には、青海鼠や裸足の黄蜥蜴 、孤独な声で鳴いている黒蛇、陰嚢が揺れている痩せた鼠、頭の毛がない灰色の鳥、 イエスの向う脛のような白蛙が集まってきました。
それらは皆、私の食料に変わったのです!
ある日、私は空中に、故郷の山河や恋しい人の顔を見て、声を立てました。
「あれ、観音様、仏様。何じゃのお呼び。@*$#・・・天皇陛下様神様・・・・」
私は言葉をしゃべるのですが、何だか分からない内容のようでした。
異常体験の連続で私は奇妙な言葉を発し、異様な夢を見ました。
自ら命を絶った同僚が奇怪な怪獣と化し罰として炎熱の海に漬けられる、また、私が友軍とともに岩穴に入れられて炎に包まれ体を焼かれ内臓を露出する、こんな夢を見て汗びっしょりになって目覚めるのです。
この頃の状態について詳しいことは覚えていません。目覚めると、ほとんど水分のない痩せ衰えた身体から、汗が滴り落ちるほど出ていました。
ここに記したような奇怪で無様なことは、私は今まで誰にも話せませんでした。
「勝一は楽観的で、自分をしっかり持っているわね」
と、かつて私に言ってくれた母の声を遠くに聞いた気がしました。
岩崎紀子さんの笑顔や父母、弟妹たちの姿が、そして故郷の山河が目に映ったまま気を失ったのでした。
やがて、私は意識を取り戻すのですが、首を反対向きにねじ曲げられて背中に涙を流し、「水ー!、水ー!」 と言いながら、鋭い角のある骸骨から鞭打たれるようにして、ジャングルを転がり出ました。
私は、誰知らぬジャングルの果てで、異様な意識のなかで行動していたのでした。
この後、私は米軍の捕虜となり、レイテ島タクロバンの捕虜収容所へ送られました。昭和二十年九月中旬、米軍のリバー艇に乗せられて移動しました。
湾の遠く、海上に数艘の米艦が浮かんでいるのを見た時、私は、カンギポット山で高台の洞窟に行き、その隙間から外をのぞいたことを思い出しました。
あの時は、見渡す限りの海面が数百の米軍艦と輸送船で埋まっていました。あの時ほど彼我の力の差を感じたことはなく、しばらく無力感で動けなかったことも前述しました。
・・・相手の力を承知しながらレイテ島作戦を変えず、自国兵を死に追いやった大本営とは何だったのだろうか。
そういう疑問が、この後で、私を繰り返して襲ってくることになりました。
日本への帰還経過につき、要点を記録に残します。
有刺鉄線で囲まれた捕虜収容所で一か月ほど過ごした頃、私たちに乗船命令があり、日本兵五、六百人ほどがタクロバンの波止場に並びました。
行く先を告げられないまま、皆それぞれ不安な気持ちで乗船しました。日本へ帰るとは限らないからです。
ただ、捕虜収容所と同様に輸送船でも、日に三度、きちんきちんと出してくれる食事が、涙が出るほどありがたかったです。
船は広い海原を進んでいました。
一週間ほどして日本の山が見えた時、甲板にいた者たちは一斉に歓声をあげました。
しかし、側にいたひとりの兵士は少しも喜んでいないようです。
様子が変なので同じ隊の者に聞くと、彼は精神に異常をきたしているようだと教えてくれました。
「墓穴に葬られている骸骨たちの踊りが激しく、私は動けません」とか、「奇怪な姿の敵が私にたまらなく臭い息を吹きかけています」と叫んだりしていました。
ただ、彼の言葉は、密林での経験をした私には、妙に納得のいくような内容ではありました。
七日目の朝、十二月二十六日、輸送船はどこかの港に着き桟橋に横づけとなりました。後で聞くとそこは横須賀でした。
「これでやっと日本に帰ってきたんだ」
私たちは皆がそう思いました。
真に生きるとは、自分が納得できる場所で、納得できるように動き、眠ることだと思った。これまで戦ってきた、弾の飛び交う街や死体だらけの密林で、命の危険におびえ、飢え続けて過ごしてきた暮らしは自分が生きている時間とは言えない。(※9)
これは帰還兵の感想ですが、私もまったく同感です。戦地は死と飢えとの地獄世界でしたから。
この日の夜、久しぶりで日本の風呂に入り浴槽の中で深呼吸をしたり、洗い場で身体を流したりしているうちに、涙が出てきて止まりませんでした。
横須賀から東京府への電車交通費は〝復員証明書〟を交付してもらい、それで帰ることができました。
私は、一九四五年十二月、暮れの二十九日朝、久しぶりに祖国の電車に乗りました。
車窓から見える景色は空襲で焼けた街々ばかり、それは荒涼とした状況で、横浜辺りはまともな家はないという状況でした。これほどひどい爆撃とは想像もしていなかったので、私はただ茫然とながめながら思いました。
・・・紀子さんは元気でいるだろうか。日本橋の山田洋服店はどうなっただろうか。
私は日本橋に寄ってから十日町に帰る予定でいました。
電車から湘南の海が見えたとき、かつて近くの江ノ島海岸で紀子さんと過ごした夢のような時間を思い出していました。
・・・そうだった。あの時、潮騒の音がするだけで、金色の月が、静まりかえった海の暗闇にくっきりと浮かんでいた。潮の香りが強く漂うなかで二人とも感動し、相手への親愛の思いがひときわ強くなったのだった。
私は紀子さんの顔を懐かしく、切なく思い出しながら東京へと向かいました。(後編へつづく)
日本兵の母が最後に語ります。
「私たち家族にとって昭和の前半は、どうやら〝落日の時代〟だったような気がいたします。日が落ちていくように戦争の進行と敗戦とともに家族、家運が傾き、衰退していったからです。私たちの希望は過去の日々からのみ汲み取れることを信じ、その様子を記録に残します。この記録は私が家族に捧げる、いわば鎮魂の歌でもあります。」