在架―4
朝から鍋……
俺はトースト一枚くらいでいいんだけどな。
昨日の残りっていうのは分るけど、朝から鍋っていうのは普通の事なのか。
……肉は避けて食べよう。朝だけは菜食主義者だ。おじやだけで充分ちょうどなくらいなのに。
食事をする物音が気になる。ひとつの食卓に4人。うち一人は泰午なわけだけど。
母さんは一人で居る時以外は音楽を嫌がる。音楽を嫌っているわけじゃない。学生時代のレコードをいまだに持っているくらいだ。俺が見ている限りでは、まるっきり音楽に興味が無いかのように一切の音楽を遠ざけているけど、でも、一人で家に居る時は聴いているみたい。たまに学校から帰ってきた時に音楽が流れている。でも、俺が帰ってきた事に気付くと、すぐに消す。
ずっとそうだったから、もう当り前のことのようになっていた。どうして母さんはそうなの? と聞こうにも、既に言葉を失っているのだから訊きようが無かったし。代わりに父さんに聞く事もできない。俺が産まれる前に二人共言葉を使い尽くしたから。俺が他人より無口なのもこの親の影響かもしれない。両親共、話せないだけでなく聞いて理解する事もできないんだから。
母は単に音を嫌がっているというのとは違うんだろう。訳がある。
二日経っても、あの人のことが頭から離れないでいる。
邯歩……か。
言葉も無しで……
怒っているとか泣いているとか笑っているとか、そんな単純なものじゃなかった。他人に、ああして欲しいこうして欲しい、という頼み事が自分の望むままに伝わるということはまず無い。どれほど伝わったのかもはっきりしない。言葉が使える間はまだなんとかなるけど――目の前でケータイを見せて、言いたいことを伝えるとか――両親のような失語者になったら言葉に頼ることはできなくなる。母はそのことが分っているから、少しでも他人からのメッセージを見逃したくないんだろう。人の仕草や表情だけでなく、人が立てるほんの小さな物音や声にならない声など、些細な気配を逃さず、その人の望み、意思を汲み取ろうとしているんだ。
でも邯歩さんは……
自分は今怒ってるんだとか泣いてるんだとかいう単純な感情なら言葉なんかいらない、簡単に伝わる。でも邯歩さんからはそれ以上のことが伝わってきた。あの短い間のことだったけど、言葉にならない多くのことが伝わってきたように感じられた。
名刺。忘れない内に泰午に渡しておかないと。受け取らなかったら俺が貰っておこう。こいつの反応を考えると、親の居るこの場で名刺を見せたりできないな。
泰午は朝から鍋だろうが肉だろうがオーケーみたいだ。泰午はしょっちゅう、朝早めにウチに来て、ついでに朝食を一緒にしていく。こいつには遠慮が無いのかと思ってしまうが、父も母もニコニコしてて、そんな泰午を全然気にしない。
朝から腹一杯だ。
今日雨は降らないはずだけど、空気は湿気を含んでいて良い匂いがする。雨を予感させる空気の匂いはいつも好きだ。一応都市部で生まれ育ったから、この程度のものでも自然を感じさせるものには癒される。でも、なんでこんな豊かな匂いがするんだろ。どこから漂ってきてるんだろう。間近を朝っぱらからひっきりなしに車が通っていってるのに。俺の歩幅に合わせてのろりのろりとチャリを蛇行させてる泰午も、同じことを感じたりするのか? いや、泰午は思ったことは何でもすぐ口に出すタイプだから。でも普通の人は、何かを感じてもそれを口に出したりはしない。そんなことで言語量を消費したいとは思わない。すぐ傍に居ても何を感じているのかはたいてい判らない。多くの人間が言葉を使わなくても周囲の人間とうまくやっていけてるのは、基本的にみんな同じことを感じているんだということを前提にしているからだと思う。
「なに? なんかくれんの?」
そういえば、これが誰の名刺かなんて泰午には分らないじゃないか。
「女? 素っ気ない名刺だなおい。色気ねー」
泰午、自分のケータイのアドレス帳の中に名前が無いか調べてる……のか? 調べても見つかるわけないぞ。アドレス帳に登録してある数が半端じゃないせいか、いつまでも調べている。
結局、傘は要らないかな、今日。降りそうだけど、学校から帰るまで降らなさそう。
あれは……雲じゃないよな……? 煙?
煙突……は見えないし。なんだろ?
黒々とした煙だな。火事かな。どんどん煙の量が増えていく。
あ、火も見えた。学校の方じゃないけど。かなり大きな火事みたいだ。空気は湿っているのにな。
まあ、消防の仕事だ。
学校に着く。




