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柳恵那―8

 日が暮れていく。

 もう7時過ぎてる。

 街中で生まれ育った癖に、ごちゃごちゃした街並みが嫌い。大きさも形もばらばら。調和を一切考えてない。センスの欠片もない看板だらけ。車も煙草も臭いし。地面と言えばアスファルトで、空は、すれ違った後に気付く友達みたいに、建物の切れ目から辛うじて覗くだけ。空は、どこか遠くへ旅行に出かけた時にだけ見ることができるもので、日常には無い。でも、幅の広い道路の車道の伸びゆく上空には空き地のような空があって、私はいつも見上げて横断歩道を渡る。東京の空は汚いと云っても、汚くても、私は慰められる。譬え誰も振り返らなくても、自分だけは毎日見ている。

 7時20分。

 塾以外でこんなに遅くなったことなんて初めて。お母さんやお姉ちゃんらに怒られる。

 でも怒られても、今は構わないという気分。何でも歓迎。今なら那々の勉強も喜んで見てあげられる。

 本当にあいつは手間ばっかり掛かるお子様で、たまにうざい。どうしてお母さんは4人目も生んだんだろ。お金もかかるのに。一人で良かったじゃない。そうなったら私は、お母さんから生まれなくても、どこか別の人から生まれてくることになる。そっちの方が幸せだったかもしれないじゃない。

 いや私は充分恵まれていると思うよ。不幸せだなんて思ったことは本当に無い。

 でも、一人っ子の方が良かった。服でも何でも、自分一人の為だけに買って貰えるし。私なんか、服も鞄も自転車もお下がり。終いには言葉も。

 そう、服とか鞄とか、物なんかどうでも良いの。言葉は人の人格形成にも影響を与えるのに、私はあんな姉二人に……

 万莉姉も莉恵姉も、母さんの言葉を覚えている。どうして? 莉恵姉とはほんの何歳かの違いじゃない。それなのに私には保護者ヅラして。直ぐにああだこうだとちょっかい出したがる。まだ親の脛かじっている癖に……

 母親独りで、4人の子供に言葉を教えるなんて事が無理だっていうのは、頭では分っている。でも、やっぱり不公平だ。万莉姉はお母さんから言葉を貰った。莉恵姉はお母さんと万莉姉から。私は万莉姉と莉恵姉から。そして、那々は莉恵姉と私から……だから、自然と那々の面倒も私が看るようになった。莉恵姉は、学校が忙しいとかバイトが忙しいとか云って、もう完全に面倒くさい事は私に押し付けて、その癖、ウルサイ。まだ万莉姉の方がマシだった。冷たい所があるけど真面目だったから。厳しかったけど。万莉姉に恨みは無いけど、半分は莉恵姉から言葉を貰ったと考えると何かむかつく。

 言葉の橋渡しと言うと格好良いけど、少ない言葉を4人姉妹で分け合おうっていう、戦後の日本じゃないんだから、貧乏臭くて余計な苦労背負い込んじゃってるみたいな感じがして……。服や自転車のように、言葉も乱暴に使われて、痛んで擦り切れていく。少しずつ伝えられていくなかで、言葉は劣化していくようだわ……

 少しずつ伝えていく。

 伝言ゲームのように。

 言葉を分け与えていく。

 莉恵姉の私を見る目つきで解る。莉恵姉も二十歳過ぎて人生を考えるようになって、私の為に言葉を使った事を後悔してるんだ。なんであんなヤツの為に! あの眸の奥でそう思っている。私を恨んでいる。万莉も、一度そういう目をした。万莉姉は、働きつつ、子供にも恵まれたいと思っていると思う。中途半端に学歴と能力の高い万莉姉が望む仕事は、言葉を磨り減らしそうなものばかり。それで、ちょっと損得勘定を働かせただけだろうけど。それから直ぐに万莉姉は家を出たから、偶に家に帰ってきても何となく気まずい。勝手に私が気まずく思ってるだけなんだけど。

 私は惜しいなんて思わなかった。今でも思ってない。那々は昔から生意気だったけど、人に言葉を教えるのは大事な事なんだって、私は子供ながらに思ってた。責任感から気が重くなった。私なんかが……って。でも莉恵姉は気楽な感じで遊び半分にしてた。私の時もそうしてたんだ。きっと。私がこんな人間になったのも、半分は莉恵姉のせい。あんな奴に、誰かに言葉を教える資格なんて無い。私は、こんな奴になっては駄目だよって願いも込めつつ、口移しで食餌を与える親鳥の気持ちで、一生懸命教えた。でも、初めは素直だったあの子が気付いたら私が教えていない事を知っている子になっていた。まだ小学生なのに、あの子が理解できなくなっていた。私が言葉を教えたから? 私のような人間には、誰かに、肉親にさえ言葉を教える資格は無いの?

 一時期、何も手に付かないくらい……那々と顔を合わせるのが恐かったくらい、そうやって悩んでいたな……

 今は、それ程でもない。自分の努力が全て無駄だったとは思わないし、少なくとも、那々は言葉を話し、聞いて理解することができるようになった。今、うまく言葉を操れない子供が増えてるってニュースあった気がするけど、那々は大丈夫。それにやっぱり言葉は素敵だなって、言葉が使える事って素敵だなって、あの人の手紙が気付かせてくれた。言葉は、限りがあるから貴重なんじゃない。思いを伝える事ができるから、貴重なんだ。減るというのは案外それで良い事なのかも。正しい在り方なのかも。伝えた分、減っていくのは当然の代償というか……

 泰午君は。

 泰午君……今からあんなに誰彼と話していて、将来、子供が欲しくないのかな。まあ、今時の共働きの奥さんじゃなくて、いつも家にいるような奥さんと一緒になったら、奥さんが泰午君の子供に言葉をあげるのかな……

 泰午君のメールアドレス。気付くと眺めている時が多い。携帯を持っていてもたまにしかメールは届かない。それよりも泰午君のメアドを眺めている時間の方が長い。教えてくれた人は、その子の携帯の電話帳にメアドと一緒に顔写真も登録していた。

 私の携帯、性能低いのか、その子の携帯で見た時よりも色が悪い。気のせいなら良いけど。フィルムじゃなくてデジカメなのに、粒状の粗が集まって泰午君の顔を作っているような、粒状というか、何かが寄り固まって集合して泰午君を形作っているような印象で、見ていて飽きない。飽きないのは、単にこれが泰午君の顔だからというだけなのかもしれないけどね。

 依ちゃんに貸した手紙、今は誰が持っているのかな。依ちゃんの友達が持っているとは思うけど。

 早く返ってこないかな。手元に無いと不安だ。本当に返ってくるのかな。持ち回りで所有しようみたいな事も依ちゃん言ってたけど、それって、どうなるの? 私の手元に返ってくるよね。

 泣きたくなってきた。

 でも、貸しているものを返してとは言いにくい。盗られたわけじゃないんだから……

 さすがにもうあんな手紙は見つからないかな。

 あ、電車。この駅からの風景も見慣れてきた。大学でも近くにあるのかな。時間帯によっては学生っぽい感じの人達の姿が増える。私も、2年後にはこうしてるのかな。大学生になったら、何かのサークルに入りたいな。

 うわっ――メール? もう、携帯のバイブレータって唐突で、痴漢に遭ったみたいにどきっとする。

 私にメールって、どうせ怪しいのに決まっている。どこで知るんだろう私のアドレスなんか。

 泰午君? え。え。会えないかって? 嘘。どうしよう。会いたい……!

 でもどうして。冷静に考えたら不自然。おかしい。謎だ。でも万が一にもっ。万が一にもほんとだったら……どうしよう、一回家帰って服着替えて来た方がいいのか、時間優先ですぐ行った方がいいのか。い、行くだけ行ってみようかな。万が一だったらやばいし。

 でも……やっぱり信じられない。こんなの。送られてきたアドレスは間違いなく泰午君のだし。何度も何度も見返したけど、泰午君のアドレスの文字は微動だにしない。私が目を逸らしている隙に勝手に変化したりしていない。ほんとに泰午君が? っていう疑惑に比べたら、それくらいはありそう。とか云いつつ、待ち合わせの場所に近づいてる。そこの影から待ち合わせの場所が覗ける。

 ……見当らない。

 7時55分。

 放っておくと、どんどん時間が経っていくね。

 頭が真っ白になって、前にも後ろにも行けない気分で、まるで自分には一切の選択肢が与えられていないような……気付いたら、もうこんな時間。帰らないと、駄目なんだけど。せめて、8時までは。お母さん、心配してるかな。

 あ……独りでいる時は、あんな顔、するんだ。

 たまには、こんな日があっても良いよね。

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