在架―8
ここら辺からようやく物語が重い腰を持ち上げるようです
父さんや母さんは本当に俺の為に何も残さなかったのか。あの親達が。
信じられない。
しかし、どうすれば? この事を確認する為には、どうやってこの事を父や母に尋ねればいい? 父や母に何か適当な、昔の思い出の品でも付き付けて反応を見るとか。駄目か。とにかく勝手に両親の私物を漁ってみるか。私物といっても、古い物は何でもかんでも押入れの奥に突っ込んであるはずだから。
思い出の品というよりは、捨てるのがもったいないというだけに見える。そんなのばっかりだ。
そんなのをアルバムと一緒にしておくなよ。布張りの表紙と裏表紙を合わせると中身と同じくらいの厚味がある。
実に大勢の人間が写っている。父と母が別々に写っている写真と、二人が一緒に写っている写真は明らかに様子が違う。見たままを言えば、背景に写っている人の数が違う。父の幼稚園に通っていた頃の写真。家族旅行の写真。詰襟に身を包んだ中学校の入学式。幼い母が自分とたいして大きさの変わらない産まれたばかりの叔母を抱っこしている写真。母の友達と一緒にいる写真。運動会。高校の卒業式。どちらも、せいぜい数人ずつでしか写っていない、ごく普通の日常を写した写真。
それまで別々に写っていた二人が、大学で出会う。二人で写り出してからはまるで世界が違っている。大学構内か、どこだか分らない場所。学園祭の写真だろうか? どれも熱気に溢れて、二人の背景は慌しく行き交う人、人、人で埋め尽くされている。何をやっているんだか想像もつかないものが多い。日付を見ると四月、記念撮影のように大勢の男女が並んで写っている。父と母はすぐに見分けがついたけど、それぞれ男の塊と女の塊の中に混ざっていて、お互いまだ離れている。ほとんど面識がないように見える。これは同じ大学構内? その割りには、壁が削れ、瓦礫が床に散乱し、にもかかわらず平然と何事も無かったかのように通り過ぎていく人の足が写っていて、その足元でコンクリ片を椅子にして学生数人が一緒になって何かを食べている。当然その中には若い頃の父と母も。または屋外で、道端に敷いたブルーシートに手を握り合って寝ている二人。途中から、母のお腹が序々に大きく目立っていく写真になる。小さな俺が一緒に写り出してからも、二人を取り囲む世界は相変わらずだった。学生結婚だったっけ? このアルバムを見たのは初めてじゃなかったはずだけど、今までそんな事を考えた事は無かった。
それにしても、こんな写真を親と一緒に撮って貰ったという覚えがない。他人みたいだ。母親に抱かれるしか能が無い赤ちゃんの時は無理にしても、二、三歳から小学生にかけてのものは覚えていてもいいはずだ。記憶力には自信があったのに。
でも、何か……大事な事を忘れている気がする。
親が言葉を喋られれば、いろいろ訊きたい事もあるのに。
母の実家には叔母家族が住んでいる。叔父は仕事、叔母は買い物、従姉弟は留守番。今の内にさっさと済ませてしまおう。
なにも俺に直接宛てた手紙でなくていい。何でもいいから私的な内容の文章でも残っていればいい。
祖父母は物を棄てない性格だった。言葉を残せない代わりに物を残す。しかし、何の意味があって残したのか判らないようながらくたも少なくない。小さい子供にとっては恰好の宝の山だが、それ故に、裏の倉庫は小さい従姉弟には立ち入り禁止になっている。いくら従兄でも勝手に入ったら怒られるかな。でも、叔母の帰りを待ってはいられない心境だ。まあ、こいつら二人を共犯者として連れてきてしまっているが。いつもは勝手に入ったら叱られるけど、従兄のお兄ちゃんが一緒ならきっと大丈夫だ、とかそんなふうに思っているのかどうか知らないが、こいつらはこのチャンスに大いに乗り気だった。
埃の匂いは嫌いじゃない。あまり酷いと喉にくるけど、何年も人から放って置かれ、誰からも顧みられてこなかったようなところが俺の興味を惹くのかもしれない。砂っぽい埃の臭いと物の匂い。窓からの光の筋が地面までまっすぐ伸びているのがはっきりと見えるほど埃が舞っている。物は多いけど手早くやればそう時間はかからないはず――くそっ。
バレずにこっそりやるはずが酷い事になってしまった。でも、あんなに物を積み重ねている方が悪い。煎餅の缶箱? 一旦、外に出よう。
ペーパーナイフで綺麗に封を切った便箋が一つ。見た事の無いサインだけど、多分男の。宛名は母さんのサイン。こりゃまずいものを見つけてしまったかもしれない。
『皆、お前を待っている。モタでは、誰も彼もがお前の話題で持ちきりだ。勿論、私も。
お前が男の尻を追いかけ回していると聞いた時には、失望を禁じえなかった。私の知る在棚はそんな人間ではなかった。お前の友人達が、無駄口も厭わず競うようにして私に教えてくれた事で、大方の推移は理解した。店長は売上減少を心配したらしいが、お前の情報を求めて以前と変わらずに店に人が集まり、渋い顔をせずに済んでいる。だがお前の帰りを待っている事には変わりない。
なぜ信頼を裏切るような真似を? お前も遊び気分だったのか? 否、モタに出入りしていた頃の私の方こそ遊び気分に見られていたのかもしれん。不満に思う事は色々あったろうが、お前と力を合わせれば解決していけると信じている。やり直す気はないのか?
こんな未練たらしい事を書いているのは、これが、お前に言葉を送れる最後の機会だからだ。お前の行動には失望したが、お前の評価を下げたのではない。だからこそ私だけでなく、皆もお前の事を話題にする。それとも私達に見切りを付けたか? であれば、まだ納得もできる。お前は指図を受けなくても正しい道を行くだろうからな。できれば戻ってきて欲しいが。
長文になってしまった。私の心情を吐く最初で最後の機会。感傷的になったのかもしれない。』
いつの頃の手紙だろう。母さんの失語前のものである事は間違いないはずだが。俺の産まれる前の……。全然想像できない。
――いや、どうだろう。薄々、俺は感じている。幼い頃にまだ若かった母さんを見ているはずなのに、そういうイメージでは母を思い出せない。
母さんの昔の男関係を匂わせる内容だな……。ただ、それだけじゃない感じもする。まあ、今となっては過去、終った出来事だけど。
母に宛てられたこの手紙は結婚前の物だろうけど、こんなの、父が知ったらどうなるんだろう。あんなラブラブな夫婦が過去の手紙一枚くらいでおかしくなったりするわけもないけど。いや、そんな、親を試すような事をしようというんじゃない。でも、親に揺さぶりをかけたいと、そう思う俺もいる。あの親が、いったいどんな顔をするのか、ちょっと気になる。
やっぱり倉庫ちゃんと直しておかないと。後片づけ。このチビら二人が俺のせいで怒られたんじゃ可哀相だ。母宛の手紙の入っていた缶箱を除いて、後は元通りに積み重ねておかないとな。ほらほら、もうお終い。出てった出てった。
今日は、父は早くに帰ってくるはずだ。俺が着く頃にはもう居るだろうな。気にしてもしようがない。
暮れていく陽の光とは対照的に、家々の灯りがあちこちで目立ってくる。
自分の家に入るのに躊躇うこともない。匂いを嗅いだら急に腹が減ってきた。
鼻歌……。ドアを開けると、一旦途切れた。匂いだけが途絶える事無く漂ってくる。
テレビ点けっ放しじゃないか。野球の中継? 今から始まるところだ。肝心の父の姿が見当らない。煙草でも買いに行ったのか。今はいない方が良い。かあさんはやっぱり台所だ。大きな鍋が火にかけられている。出来上がるまでまだ時間がかかりそうだ。料理中に甘いお菓子なんか食べたりして、料理の方の味がおかしくなったりしないか? 俺はいいよ。まだしばらくかかるとしても我慢できる。あんな手紙を読んでしまった後では、台所の窓の小ささにも心が動かされる。窮屈な窓からは天気の確認しかできない。まだ少しの間は、空は赤い色を保っていられそうだ。
鍋を監視し続ける必要は無いだろうに、椅子を鍋の前に持ち出してきて雑誌を拡げている。
家に来る手紙の類いをまずチェックするのは、自然と俺の係になっている。もうずっと前から、母にとって文字は存在していないんだ。だから、母の実家から掘り出してきた手紙を目の前でぶらぶらさせていても、反応が無い。開いている雑誌の上に手紙を滑らせて初めて、これがDMやチラシじゃないと気付いたようだ。これが何だか、直ぐに判るだろうか?
いや、不意に口元が弛んだ。普段見せた事のない、歳不相応な感じの少し無邪気で楽しそうな顔だ。他人のプライバシーを覗く様で、少し居心地が悪い。つい見せて良かったのかと思ってしまう。余計な詮索だったかもしれない。親の事を探るなんて不謹慎だった。このまま単に母が懐かしむだけなら、それならそれでいいか……
母さん? 父さんを探している? まるで俺の事を忘れてしまったみたいだな。本当に父にも見せるつもりなのか……。そういう風にしか見えないけど。普段ならその場にいる俺を気遣って、ちょっと待ってね、みたいな仕草をしたりするのに。
後を追うつもりもなく、目だけで後ろ姿を追っていたら、気づけば自身の視線に引っ張られるようにして、母に続いてリビングに足を踏み入れていた。
一瞬だけど、よそよそしい違和感を覚えた。様子がおかしい。そんな無表情な顔で何を見ているのか。父さんはまだ?
……まるで父さんの不在が、ドラマの演出上、必然であるかのようだ。
野球は延長? 一旦、ニュースに入っている。
くそ、今度はどこに行くの? 母さんが何のニュースを見ていたのかを確認する間もない。
何かのニュースが、母の唐突な外出への引き金になったらしい。手紙を握り締めたままだ。本当にどこかへ行くつもりだ。父さんに見せようっていうのとは別な気がする。つい引き留めてしまった。玄関で靴を履こうとしているところを、俺に腕を掴まれたもんだから、バランスを崩して、まるで俺に襲われているみたいな危うい姿勢なってしまった。恥ずい。母親相手に何をしてるんだ?
段々、自分の行動が偏執狂のそれに思えてきた。でも、それにしても、呼びもしないのにどこかへ行く母の後をついて来た息子にどうして何も言わないのか。失語症だから、というのは理由にならない。発語できなくても意思は伝えられる。追い払ったり手招きしたり、拒絶や受容の意思を伝えるのは簡単だ。母は、最も便利な道具を失ったからといって、意志表現を諦めるような人ではない。
母さんがこんな唐突に訪ねる相手は俺の知らない人間かもしれない。とすれば昔の知り合いか。手紙を母に宛てた張本人とか。
俺は完全に傍観者のようなつもりになっていた。だって母さん、ついて来る俺を振り返りもしないし。母さんの若かりし頃の知り合いに会いに行くっていうのなら、なおさら自分は部外者だ。いっそのこと、俺を追い払ってくれと思ってしまう。正直、気後れしている。
人について何かを知ろうとするのなら、無粋な方法を採らざるを得なくなる時もある。教えてくれることを期待することはできない。
――古いアパートだ……
たぶん、俺は初めて見たと思う。自分はこの場にはいない、存在しない、それくらいの気持ちで首を突っ込まずにいよう。
母の青春真っ盛りの頃からここに住んでいて、当時の学生がそのまま中年になったような男だ。それが母を歓迎するのは分かる。しかしなんで俺まで指差してそんなに嬉しそうにする? 母さんも母さんだ。そいつの仕草でやっと俺を思い出したかのような顔をしやがる。
いまだにというべきか年甲斐も無くというべきか、男は古臭いゲームで遊んでいる。でも、ファミコンって緑色だったっけ。緑色のコントローラーを渡されてしまった。
男に断り無くチャンネルを変える母の行動はどういう事なんだろう。母さんはこのおっさんにニュースを見せたいらしい。今の時間はNHKしかニュースはやってないはず。家で何かのニュースを見た時からずっと、母らしくない。
いつまでこうしてるつもりなんだ。しかも家でせっかく夕飯作ったのに、男と一緒にカップラーメンを啜り始めてるし。目はニュース番組に釘付けだ。汁を啜りながらもおっさんに手紙を突き付けようとしている。受け取った手紙に目を落とそうとしたところを母に小突かれたりしているおっさんを見ていると、どういう関係なんだと思ってしまう。母の指先が指すものが、この男に見せたかったものか?
火事? 積み上げた書物を連想させる建物だ。これが母さんの目当てのニュース? 母さんとこのおっさんに関係のある建物が燃えているのか? 図書館? それにしても、母さんはたかが火事のニュースに真剣過ぎる。
もう帰るの? 結局何だったんだ? どうもおっさんは母さんの期待に応えられなかったらしい。
……もう結構暗くなっている。明日も学校がある、といったような日常的の感覚がどんどんと薄れていっている気がする。結局三箇所まわって、母はともかく、俺は何も掴めなかった。母が求めているものと俺が求めているものとは違うんじゃないのか……?
四人目も男だったのは偶然に違いない。




