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在架―6

 まずは送られてくる回答済みアンケートの集計から始まった。まずは、と言っても、ずっとこんな調子なのかもしれないけど。それとも、これは俺達に仕事に慣れさせるためで、これを覚えたら他の仕事もさせるてくれるのかもしれない。まあいい。何かをしたくてこのアルバイトを始めたわけじゃない。お金は欲しいけどお金に困っているわけでもなく、知りたい事があったから始めたんだから。社会勉強にも興味は無い。いろんな経験を積みたくてバイトやってるって人もいるだろうけど、俺は将来やりたい事が決まっているわけでもないのに、闇雲に経験値を積みたいとは思わない。

 バイトは初めてだったけど、緊張したのは、初日に会社に向かうまでくらいだ。それも会社に着くまでだ。どういうわけか、たとえそれが他人であろうと誰かと一緒にいる方が落ち着いていられる。「見えない敵を相手にするよりは……」という気分。

 邯歩さんは何をしているのかよく分らない。ここの社員なのかと初めは思っていたけど、社内で邯歩さんの姿を見かけない時の方が多い。

 あれ? 今日は来てないのかな、と思ったら現れて、気付いたらまた居なくなっている。まあ、ここの社員じゃないのなら、関係ないのに頻繁にここに出入りしているということになるけど。営業の人? 外回りでほとんど顔を出さないってだけなのかな。女性はネクタイ絞めたりしないし、邯歩さんはめったにスーツっぽい格好はしてこない。もっとも邯歩さん自身は、普段の私服と会社用の服とをちゃんと使い分けてるんだろうけど。

 ここでバイトを始めて1週間。隙あらば邯歩さんを目で追っていたけど、やっぱり邯歩さんは普通じゃない。こんな風に感じてるのは俺だけなのか? 他のバイトとも社員とも普通に接しているけど、あまりにも意思の疎通が自然に行き過ぎてる。泰午みたいに喋りまくっていてもこうはいかないだろう。おかしな感じだ。あの人の、具体的に何が、またはどこがそのような事を可能にしてるんだろうな。何か大袈裟な事が起こっているっていうんじゃ全然無い。融け合うように意志が通じ合っている気がする。まあそれはアレとしても、なにかな……

 ……なんていうのか、おかしな感じだ。大事な事を目にしている事に気付いているのに、具体的にそれが何か分っていないというか……上手く言葉にできない。

 これだから言葉は……

 肝心な時に役に立たない。

 皆も彼女との間では意思疎通がスムーズに行くのが当り前って感じでいる。慣れちゃっているのかな? 俺は一週間経っても新鮮に驚いているのに。

 ちょっとこれには苛々する。もっとも、自分の言葉で言い表せられないような何かがあるからこそ、未だにずっとあの人のことが気にかかっているんだろうけど。

 ちょっとお茶。

 お茶はタダなのが嬉しい。マイコップかマイ湯飲みを持参してきているバイトや社員は少なくない。俺も三日目くらいからそうしている。

 何? 会議? か何かあるみたい。

 ――席に戻ったのはコップを置く為だけになってしまった。

 バイトの女の子に手招きされた時は、上司が替ってその挨拶かな、とも思ったけど。違うようだな。

 階を移るのか……上の、4階。会議室? ここに入ったのは初めてだ。

 なんだ、他にもバイトのヒト来てるじゃん。俺と同時期にまとめてバイトを採用したらしい。なんとなく気配というか空気でそうなんだろうとわかる。

 女の子だ。自分より頭一つ分も背が低い。両腕にバインダーやノート、一掴みのマーカーの束を抱え込んだ子。別の女の子と身振り手振りを交えている。背の低い娘を見下ろす顔が、背の低い娘の頭に邪魔されずによく見えてる。なんかそれが妙にツボだ。話相手の娘の方も俺より背が低いのに。気付かれた。そんなに見つめていたわけじゃないけど、変に思われたかな。その娘の目の動きを追って背の低い娘もこっちに振り返った。今度は俺が見上げられる番か。

 忌み嫌われているように言葉の使用が避けられる代わりに、みんな、他人の仕草には敏感だ。仕草や表情は言葉よりも素直に人となりが表われる。だからって、そんなにじろじろ見られても困る。

 器用に両脇の物を落さずに、たくさん握ったマーカーの内の一本のキャップを口で外す。シールを表紙・裏表紙にべたべた張った小学生のような落描き帳を片腕の上で開けて絵を描き始める。でも、この娘そのものには子供っぽさがない。愛想笑いなどはしなさそうな顔をしてる。

 これで分ったかな? まだ分らない? とでもいう風に、その娘はちらちら俺の顔色を伺いつつどんどん絵に絵を描き足していく。俺の方も、相手がこちらを伺うのに負けじとこの娘が何を伝えようとしているのか、この娘を観察し、考える。

 なんだか、登場人物が何人もいるようだけど、絵は下手じゃないんだけど、よく分らない。

 でも、両手にこれだけ物を抱えているのは、急に呼び止められて連れて来られたからなんだろうな。これは予定に無い会議なのか。もしかして、この娘はその事を俺に伝えようとしているとか?

 一応、名刺を渡しておこう。

 なんだか、見えない一つのボールを3人が目で追っているみたいだ。背の低い娘が俺を見上げ、それから、さっきまで話していた娘の方に振り向く。俺の目もそれに従って、そっちの娘の方を見る。人の意志がすんなりと通じ合っているのを見るのは気持ちが良い。見つめられた背の低い娘は、その娘の尻ポケットから名刺入れを取り出し、本人に代わって俺に名刺を渡してくれた。

 完成度は低くないけど、なのに既製品とは思えない枠からはみ出した個性を感じる。やっぱり男より女の方が名刺に凝るんだな。でも、これはほんとに手造りみたいだ。紙質も珍しい感じで、美大生とかそっち系の人かもしれない。対して俺のは、いたってシンプルだ。でも、サインだけは自信がある。小学6年生の時に完成させてから全く変わっていない。もはや『在架』とは読めないまでに崩した文字。意識的に、自分でもこれは『在架』という文字になっていないなとわかってて暴走気味に崩してる。ここまでくれば言語量は消費してないんじゃないかな? それでも、サインに文字を使っている人間は自分以外に見た事がない。

 楊末……Yan Sue、か。この娘のサインは本人の似顔絵風のサルだ。サルの絵風の似顔絵というか。本人は全然はサルっぽくないと思うけど。名前の書体も含めて凝ったデザインの割りにはアドレスその他何もない。「とりあえず」用だな。いきなり初対面の人にメアドまでは教えない、と。

 名刺のデザインに目を奪われていると本人を忘れそうになった。地味という程でもないけど、どこにでもいるような……どこにでもいるような娘だ。娘っていっても年上だろうけど。それがこんな……人の個性は不思議だ。頭の中にどれだけのものが詰まっているのか分らない。

 両手に大変そうだから、手に持っているものは俺が持つよ。ついでにノート類も。

 最後に入室した二人の社員が議事進行役のようだ。

 ――このプリントをリレーしていけばいいのか。全員に行き渡るように。

『乙は業務上知り得た事項を他人に漏らしてはならない。(退職後も含む)……』

 バイトの初日にサインさせられた労働契約書でも見た文章だ。その下に裁判の判決文らしき? 長文。判決自体は短い文章で、関連する法律が付記されている。六法全書? からそのまま引用したようだ。判決文とそれに付記された法律の文章のところだけ色が濃いし、斜めにずれている。コピー機で後から重ねて印刷した感じだな。被告はここの元社員。過去にここで不祥事があったっていうことみたい。

 裁判沙汰になるほどの情報って、そんなものがここにあるの? そういえば、3日前、誰か知らないけど政治家が来ているのを見た。政府関係とも取引があるようだ。

 この労働契約書や法律の文章にしろ、最初に一人か何人かで書かれたものが言葉の素材として残され、あちこち文章が追加されていきながら、色々な場面で使い回されてきたものだ。ウチの会社でやっていることも似たようなものだ。調査会社ってことは一から何かを作り出している訳じゃなく、誰かの仕事をまとめたり多くの人間から意見を集めたり分析したり、そこに言葉を付け加え、それを求めるお客に渡す。言葉の食物連鎖みたいな繋がりの一環を担ってる。政治家達の議論や行政の場でも、多くの人間が少しずつ出した言葉をそうやって吸い上げて、自分達の発言として使っている。政府関係もここの取引相手となると、ここで作成された文章がそういったお偉いさんの手に渡っているんだ。改めて考えると、何だか凄い事だな。俺なんかを雇ってて良いの?

 全員がこのプリントを読まされている。よく頭に叩き込むまでここからは出るな、みたいな雰囲気だ。

 楊さんにならって俺も暇潰しに落描きしよう。

 邯歩さんなら、どんなサインを書くんだろ。貰った仕事用の名刺にはPCで印字された明朝体でしか書かれていなかった。サインにはその人の個性が反映されるはず。邯歩さんのサインが想像できないというのは、俺がまだあの人のことをほとんど何も分ってないからだ。勝手に想像しながら色々描いてみるけど、どれも違う感じ。

 楊さんも隣りで暇潰しに何か描いてる、と思ったら俺の落描きを真似てる。こっちを見てにやにやしてる。何を描いているのかと聞きたいのかな。

 小学生の頃、よくデッサンをしていた。物とか人とか動物とか。お絵かきというより、正確さを得る為に。言葉の替わりにならないかみたいな事を、その時の自分は考えていたようだ。小学生にしてはそれなりに上手かったと思う。でも、小学校5、6年くらいには描くのを止めていた。学校の美術を除いて久しぶりに描いた絵になるだけど、やっぱりあの頃より下手になっているよな。それに、自分の絵に対する何とも言えない不満は、あの頃と同じだ。

 そんなことより、会議は? もうこれで終わりなのか……?

 もう出ていってるバイトもいる。じゃ、俺も……

 でも、まだ邯歩さんは中なんだよな。ちょうど出た所にお茶やポットが置いてある。邯歩さんに持っていこう。まだ邯歩さん以外の人も何人か中に残ってるし。全部を盆に載せてと。まだあまり他のバイトの人とかと全然仲良くなれてないし。親しくなるのは、究極的には邯歩さんだけでいいんだけど。

 邯歩さん、この場で仕事を始めていた。まあ、取り敢ず、ここにいる人数分のお茶を炒れるかな。

 お茶の器が、俺だけに聞こえるような小さな音で鋭く鳴った。

 邯歩さん――ありがとう、美味しかった。お茶を淹れるの、今度からはあなたに頼むことにする。そんな彼女の声が聞こえてきそうだ……

 彼女が他人に何かを伝えようとする時、顔は微笑んでいてもその目は相手を食い入るように見つめている。たとえそれが些細なことでも、どうしても伝えたい、と必死でいるかのようだ。その切実さが力になっているのかな。声には出さなくても間違いなく彼女の言葉は伝わってくる。俺の勝手な思い込みだけじゃない。邯歩さんの隣で休憩しているバイトの人も、邯歩さんの意見に同意して頷いている。俺には真似出来そうにない。

 彼女の声をまだ一度も聴いてないということが不思議なくらいだった。

ここももっと短くできたかなと思います。

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