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AI利用に対する私のスタンスについて

作者: 曲尾 仁庵
掲載日:2026/06/14

 ここのところ、作品に対するAI利用について世の中がざわめかしい。AIによる創作は真に創作と呼べるか。面白い、いや、面白くない。権利は発生する、いや、しない。AIは筆と同じ道具である、いや作者が創作の過程に関与しなくても作品が出力される時点で従来の道具と同一視はできない。様々な人が様々な立場で様々な角度からAIを論じている。

 私も一応、世界の端で文章を書いては世に放流している身ではあるので、AIの創作というテーマに無関心ではいられない。ビジネスの世界ではメールの本文、挨拶状のような定型の文章をAIに書かせるなど当たり前に行われている。『物語』という分野だけが聖域のように守られるはずもない。実際に、AIで書かれた物語はすでに無数に存在している。ならば私は、私たちは、劇的に変わりゆく世界の中で『物語』とどう向き合っていくべきなのか。創作の価値は何に宿るか。人間が書くということに意味があるのか、あるいはないのか。考えねばならない。




 創作の価値が議論されるとき、つまり、AIが作った作品に価値を認めるか否かについて考えるとき、しばしば表出する典型的な意見は『面白ければよい』というものである。読者にとっての作品の価値はその作品が当人にとって面白いことであり、それ以外にない。ならば、作品の価値は『出力された結果』にあり、『出力までの過程』にあるのではない。AIの創作であろうが人の創作であろうが、読者の目に触れる言葉の羅列が作品として読者の需要を満たすのであればよい。『面白ければよい』という主張を上記のように理解した場合、さて、それは『創作の価値』に対する妥当な結論だろうか?


 先に結論を述べれば、否である。『面白ければよい』は『創作の価値』に対する妥当な結論ではない。なぜなら読者は作品を作品単体で評価しないからである。読者は作品を『作者の書いた作品』として評価する。『作者』は読者の読書体験を左右する要因として機能する。極端な例を挙げよう。

 一つのヒューマンドラマを想定してほしい。認知症の父親を一人で介護する息子の話。父親の症状は緩やかに悪化し、介護の負担は増していく。仕事をしばしば休まねばならず、職場の視線は冷たい。仕事と介護だけの日々が続く。誰も助けてくれない。ある日、父親は息子を不思議そうな顔で見つめる。「どなたさまですか?」息子の目から涙が溢れ、彼は父親の首に手を伸ばした――

 あなたはその物語を『面白い』と思った、としよう。実際に面白いと思ったかどうかは問題ではない。議論の前提として『あなたが面白いと思ったヒューマンドラマが頭の中に想定された』状態になってもらえればよい。例が肌に合わなければ自分の趣味に合ったものを各自で想像してほしい。準備はよいだろうか。では続けよう。

 その物語を読んだ翌朝、ニュースがこんなことを伝える。


『〇〇の作品で知られる作家A氏が脱税の容疑で書類送検されました』


 〇〇というのはまさにあなたが『面白い』と思ったその作品であった、とすると、さて、あなたの作品への評価は変わるだろうか、変わらないだろうか?

 変わる、という方も、変わらない、という方もいるだろう。では、少し想定を変えてみよう。


 逮捕容疑が動物愛護法違反だったら?

 買春だったら?

 青少年保護育成条例違反だったら?

 殺人だったら?


 実は逮捕容疑が何であるかは本質的な問題ではない。問題の本質は『あなたが不快だと思う行為を作者がしていたことを知った』ことにある。作者の名前を聞いたときに不快感が込み上げる、あなたがその状態にあるとき、それでも作品への評価は揺るがないだろうか? 面白かった、感動した、その気持ちはいささかも色褪せないだろうか?

 無論、温度差はあるだろう。二度と見たくないと本を燃やすか、古書店に売り払うか、棚に置いたまま手に取らないか。各自の選択は様々であったとしても、知らなかったときと同じように作品を楽しむことはもうできなくなっているはずだ。人間は文脈の中で物語を読む。そして文脈とは、文章中にあるものだけを意味しないのだ。

 つまり、『誰が書いたか』は読者の読書体験を左右する。上記で説明したように、作品の内容、言葉の一字一句がまったく同じでも、『作者』という情報が変わるだけで作品の評価は変わるからだ。『面白ければよい』という言説は読者を取り巻く文脈を取りこぼした(あるいは意図的に無視した)単純化された議論である。




 『面白ければよい』のではないとして、では次に、なぜ『AIか否か』が殊更取り上げられるのか、ということを考えよう。前述の議論は『誰が書いたか』の重要性を浮き彫りにするものではあるが、『AIが書いた』ことと『不快な作者が書いた』(あるいは『好ましい作者が書いた』)こととの差異を説明しない。なぜ創作において『AIか否か』が重要な意味を持つのか。あるいは本当は意味などないのだろうか? それを解き明かすには、我々が創作という行為の何に価値を見出しているか、を考える必要がある。


 一つ、こんな想定をしてみよう。AとB、二つの作品があるとする。Aの内容はこうだ。舞台は剣と魔法の中世ヨーロッパ風異世界ファンタジー。王女が悪の竜にさらわれ、高い山のてっぺんにある塔に幽閉された。勇敢な一人の若者が立ち上がり、山を登って塔に挑む。塔の中は竜の手下が蠢き、若者は傷付きながら塔を昇っていく。最上階には竜がおり、若者は激戦の末竜を討ち取り、王女を救い出す。竜が蓄えていた財宝を手に入れて王女を連れ帰った若者は歓声と共に迎えられ、王は若者に王位を譲った。若者は王女を妻とし、能く国を治めて末永く幸せに暮らしましたとさ。

 さて、あなたはAとBを別の作品であると証明しなければならない、としよう。AとB、何が違えば別の作品だと証明することができるだろう?

 ある事象が同じものか違うものか、その境界を探る場合のセオリーは、要素を一つずつ変え、それ以外の要素を全く同じにして比較することだ。地道に考えてみよう。例えば、Bは主人公の名前が違うが、他は一字一句同じであるとする。その場合、AとBは違うものだろうか? おそらく大多数の方が『AとBは同じ作品である』と判断すると思われる。主人公の名前は作品を識別する指標にはならない。主人公のみならず、固有名詞の差異は作品を識別する指標にはならない、と言い切ってしまって問題ないだろう。王女の名前、王国の名前、主人公の剣の名前、山の名前、塔の名前。それらが違えば別作品、などと判定することはあるまい。

 では、王様を女王様に変えたらどうだろう? 他の一切は変えない場合、AとBは別の作品だろうか? こちらも別作品とは言えないと判断されるのではないか。王位を譲るのが男性であろうが女性であろうが、竜を討伐した若者が次の王になるという流れは変わらない。

 ならば若者を女性に変えたら? 女性に変えたことで物語に生じる矛盾を最低限修正するとして、それは別作品になるだろうか? 少なくとも主人公は王女を妻にはしなくなる。結末が変わるなら、それは別作品? おそらくこの場合は、翻案、あるいは改作とみなされる。完全に同じ作品でなくても、『一部を変えた同じ作品』と評価される。『同じ作品』であるかどうかは、『完全な同一性』を意味しない、ということは意識しておく必要があるだろう。

 逆に、別の作品だと明らかに分かる変化とは何だろうか? 例えば、若者が王女を助けに行かないとしたら? こちらも『若者が王女を助けに行かない』という変化によって物語に生じる矛盾を最低限修正するとしよう。竜が城を襲い、王女は攫われ、王は悲嘆にくれる。だが、若者は故郷の村で畑仕事に精を出し、隣家の幼馴染と結婚し、慎ましくも幸せな生涯を送りましたとさ。この場合、AとBを『同じ作品』と言う余地はあまりないように思われる。物語の冒頭以外にAとBに共通点はない。しかも、Bのその冒頭はその後の展開に不要であり、むしろ蛇足である。Aの作品において竜や王女は不可欠な存在だが、Bの作品において両者は完全にただの背景に退いている。

 若者を女性に変えても同じ作品なのに、若者が王女を助けに行かなければ別の作品になるとすれば、そこにある差は何だろう? それは、何を描くか。物語の主題が異なるかどうか、である。

 Aの主題は二つ。悪事を為した者は正義によって滅ぼされるという勧善懲悪。名もなき若者が自らの力によって功を為し、地位と財と愛を手に入れる、努力と成功の物語。主人公を女性に変えたとしても、その構造は変わらない。悪は悪であり、善は善であり、努力は報われ、能力に相応しい地位を得る。

 だが、若者が王女を助けない場合、Aの主題は跡形もなく消滅する。竜は王女を攫うが、討伐されない。若者は自分の社会的地位を向上させるための努力をせず、元の階層に留まる。成功を収めないわけではないが、それはあくまで日常の延長であり、劇的な変化を伴わない。そこで描かれるのは、身の丈に合った生活の中で慎ましく生きることが幸福であるという、安定と安寧の物語である。

 勧善懲悪の立身出世譚と日常を慎ましく生きるヒューマンドラマを同じ作品とは言わない。つまり、作品を同一であるか否か判定する鍵は、作品の持つ主題、テーマ性である。提示した例は極端なものなので、実際にはもっと判別しづらいものになるだろうが、テーマ性に差異を感じるものを同じ作品と呼ばないことについてはお分かりいただけたものと思う。

 蛇足的に捕捉すれば、物語の主題とは物語の類型、ファンタジーやヒューマンドラマという枠の選択を意味しない。王女を攫った竜を討伐した若者が帰還して王となる、という型を完全に踏襲して、竜と若者の激闘に文字数の四分の三を使って描いたとすれば、それはもはや別の作品となりうる。その場合、物語の主題は勧善懲悪でも立身出世でもなく、血沸き肉躍る戦場のリアリティである。そしてその場合、王女はトロフィー以外の意味を持たない装置であるだろう。


 我々が作品のどこに差異を見出すか、とは、すなわち我々が作品のどこに価値を見出すか、ということをも示す指標である。人は等しく価値のないもの同士に差異を見出すことはない。アイドルに全く興味のない相手に二つのアイドルグループの違いを説明する場面を想像してもらいたい。おそらくどれほど説明を尽くそうと、「見分けがつかない」と言われて終わるだろう。それは、アイドルに全く興味のない人が本当に二つのアイドルグループの見分けがつかないわけではなく、二つのアイドルグループを見分けるための差異を認識するだけの労力を払う価値を見出していないことを意味している。つまり、我々は創作の価値を『テーマ性』に見出す。この物語は何を描こうとしているのか。それが伝わり、読者の共感を得たとき、その創作に価値があると、読者は判定する。そしてそれはこう言い換えることができるだろう。


 創作の価値とは、描かれた物語から伝わる『これを描きたい』という作者の意志である。


 創作の価値の正体に対する考察が終わったとして、やっと本題である『AIであるか否か』が殊更に問題視されるのか、に戻ることができる。創作におけるAI使用の問題点の焦点は大きく二つ。一つは『意志の不在』、もう一つは『ゴーストライター』である。

 一つ目の問題は、前述の創作の価値の定義を受け入れるならば、極めて単純な話である。すなわち、AIには『これを描きたい』という意志がない、ゆえに創作の価値を認められない。これは小説投稿サイトで発生している、定型的なプロンプトを使って作品を大量生産し、投稿する行為に対する回答になる。意志なき作品に価値はなく、価値なきものにリソースを奪われることは許容できない、ということだ。

 二つ目の問題は少し複雑になる。作者が『これが描きたい』という確固たる意志を持ち、AIへの指示を極めて細密に行って物語を創出した場合はどうか。AIは筆やメモ帳と同じ、作品を作るための道具に過ぎず、作者の意志を完璧に再現するまで調整されていたとしたら? 読者は作者の意志を文章から明確に感じられる。『この人はこれが描きたかったんだ』とはっきりと分かる。ならばそこには創作の価値を見出せるだろうか?

 答えは、否である。確かに文章に意志が宿り、読者に伝わる。一見創作の価値があるように見える。だが、AIを使った場合と使わなかった場合では明らかな、越えようもない断絶がある。それは、『意志を持つ主体と意志を表現する主体が乖離している』という点である。そしてそれは、ゴーストライターの問題として考えると分かりやすい。

 作品を書いた人間と、作品を発表した際の名義人が異なる場合、一般にそれは『ゴーストライター』と呼ばれ非難される。読者は作品を書いたのは作品の名義人であることを暗黙に期待するからだ。それは最初に考察した、読者は作者という文脈を含めて物語を受容するという事実に基づく。「あなたが書いたっていうから読んだのに!」という言説は正当なものとして扱われる。ゴーストライターはその期待を裏切る。

 AIによる創作も基本構造は同じだ。文章から意志を読み取るとき、読者は作者という文脈を期待する。「この言い回しはこの作者特有のものだ」「この作者だからここでこの言葉を使ったのだ」という納得を読者は要求する。しかし『実はAIが書いていた』とすると、読者の納得は崩壊する。なぜならAIが出力した文章は作者の人生の結果ではなく、過去から現在に至る無数の創作を単語単位に分解し、特定の語句に繋がる次の語句の登場確率に基づいて計算された結果だからだ。たとえ作者がAIの生成した文章にすべて目を通し、納得がいくように手で修正を入れていたとしても、文章の中に『作者以外の何か』が混入するおぞましさを読者は感じ取る。

 まとめると、創作において『AIか否か』が殊更に問題視されるのは、『作者という文脈を期待する読者を裏切るから』である。もっとわかりやすくひとことで言えば、


『てめぇの言葉で語れや』


 という要求にAIによる創作は応えないからである。




 それでは結論といこう。我々はこれまでの議論の中で以下の結論を得た。


 『誰が書いたか』は読書体験を左右する

 意志なき創作に価値はない

 意志は自分の言葉で語られねばならない


 AIでの創作は上記の三つに対する読者の要求をいずれも満たさない。ゆえに、『AIによる創作か否か』は常に読者の関心事でありうるし、『AIの創作である』ことを隠蔽することは作品に対する優良誤認をもたらす。上記の理由により、『AIを利用した創作に価値を見出すことは困難である』と結論する。




 AIの台頭は時代の流れであり、もはや止める術もない。しかし、AIを使用するのは人間であり、AIを使用した結果の価値を判断するのもまた、人間である。何を価値とするのか、その主導権を明け渡してはならない。

 そしてもう一つ、AIの創作は過去の膨大なデータと確率の結果に過ぎないということを強調しておきたい。AIの作った物語は、もしかしたら面白いかもしれない。でも、新しくはない。AIの作った悪役令嬢の物語は上手に書けているかもしれない。でも、AIは悪役令嬢というジャンルを作ることはできないのだ。小説という創作の地平を広げるゲームチェンジャーは、人間でしかありえない。AIの創作を無批判に受け入れることは小説という表現形式の緩やかな死に他ならない。

 人間が書く、ということの意味は、おそらくそこにある。言葉で何ができるのか。何が伝えられるのか、伝わってしまうのか。試行錯誤し、可能性を見出し、表現そのものを拡張する。その格闘の残滓こそ、作品の真の価値ではないだろうか。

 そして叶うならばどうか、読者の皆様にお願いしたい。孤独な作者の戦いに、ほんのわずかでいい、目を向けてほしい。休日を費やし、睡眠時間を削り、魂を削って作った作者の想いに触れてほしい。流行りのジャンルではないかもしれない。普段読むものとは毛色が違うかもしれない。それでもその作品は、誰かが新たな表現を切り拓くべく苦闘した証拠なのだ。AIによって数秒で出力された文章に流されて消えてよいものではない。午前二時、今日の午後の会議に使う資料の作成から目を逸らしてまで書き上げた小説がPV17だなんて間違っている。書き上げたときに確かに手ごたえを感じたのだ。それなのにこの作品が当然のように0ポイントで、AIの作った小説がランキングに載っているなどという不条理を我々は決して許してはならない! 結局上司にめちゃくちゃ怒られたというのにまったく報われないこの結果を我々は決して受け入れない! AIによる創作に価値はない、その認識を共有し、創作の在り方を正常に戻すことが、小説という表現形式の未来を守る唯一の解なのだ! AIの創作がなくなれば私の作品はもっと読まれるに違いないのだ!


 そうだろう? AI!




『創作に対する熱い想いにあふれた、素晴らしい宣言ですね! 作者様のストイックな姿勢に読み手の背が自然と伸びる様な、見事な文章です』


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― 新着の感想 ―
「エッセイ? なんか曲尾さんっぽくないなー」と思いながら読んでたら、オチで曲尾さんらしいユーモアが炸裂しててめっちゃ笑いました(笑) まあ私も人が書いた作品を読みたいほうなので、この主人公の気持はわか…
仰られていることにはほぼ同感なのですが、実際にAIで自分の思うとおりの文章を出そうと思うと、数秒じゃないところに問題があると思います。 (もちろん、自分のテンプレがあって、ちょっと変えただけで数秒で仕…
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