第1話 : 三本しかない
泳ぐのは、割と得意な方だった。しかし山奥の川の冷たさ・流れの速さの前ではどうしても太刀打ちできない。張り出した岩や流木に身体をぶつけながらも、なんとか私は水面に顔を出した。
「ぷはぁっ!!」
大きく息を吸い、周りを見渡そうとしたところで、すぐ横を流れる岸壁がパンと音を鳴らし、小さな破片を散らせる。向きを変えた先の川岸には、既に追っ手が追いついていた。数人の男が、川を流れる私を馬で追いながら、こちらに向けて銃を放っている。
「おい!殺していいんだな!?」
追っ手の一人が仲間に尋ねる。
「構わん!どうせあいつが持っている!!」
このままぷかぷかと浮かんでいれば撃ち殺されてしまうだろう。私はなんとか対岸に出ようと体の向きを変える。しかし私が泳ぎ出すより先に、川沿いの木が私の後頭部を打ち付けて水中に押し戻した。突然のことで息を止める準備もなく、私は喉を突き刺すように冷たい水を一気に吸い込んでしまう。
それを最後に、私の意識は空の彼方に飛んでいった。
【序章:シダーランの町】
「ううん…?」
何がきっかけで目を覚ましたのか、はっきりと思い出せない。朝日の眩しさか、鳥のさえずりか、遠くから聞こえる人の雑踏か…… 私はゆっくりと身体を起こし、周囲を見渡した。私はどうやら、山の麓まで流れてきたらしい。周囲はうっすらと朝霧に覆われており、足元の草は青々と茂っている。私の後ろを流れる川は、記憶にあるような荒々しい渓流ではなくなっていた。私はゆっくりと立ち上がり、低い丘を登ってようやく川辺から離れる。そこでようやく、川沿いに並ぶくたびれた建物に気が付き、ここが小さな町の中であることを理解した。濡れたコートに風が吹き付けると、途端に身体が寒さを訴えだす。
「……シダーラン」
カビに覆われ、今にも崩れそうな立て看板に書いてある文字を、読んだそのまま口に出す。聞き覚えのない町の名前だ。
「おいおまえ!」
ふと大きな声がして、私の肩は僅かに強張る。振り向いた先にいたのは、建物の勝手口から顔を出している男だった。寝起きだったのか、気温にしては不自然な薄着の上から、肩にブランケットをかけている。
「一体どうしたんだ、水浸しじゃねえか!風邪ひいちまうぞ?」
濡れたコートの重さを肩に感じながら、私は彼のところまで歩み寄った。
「えぇ、その……上流のほうで足を滑らせて、川に落ちたみたい」
何者かに追われていたという話は、なんとなく口にするのがはばかられた。朝から刺激の強い話は止めておこう。
「それは本当か!?よく生きてたな。何年かに一度、お前みたいなヤツの死体がここには流れてくるんだ。熊に襲われたり、ギャングに襲われたり、鉄砲水に流されたり……そりゃあ運が良かったぜおまえ」
彼の話を聞いたところでようやく、私は自分の境遇の危うさを実感した。寒くて風邪を引きそうだとか、そんな悠長なことを言っていられる状況ではなかったのかもしれない。
「いいか、ウチの裏の通りを、ずっと川下の方に歩いていけ」
彼はそう言いながら、建物の奥を指し示す。
「赤い建物が保安官の駐在所だ。そこに行けば、あとは保安官補がなんとかしてくれるさ」
保安官補なのがどこか引っかかるが、一々たずねるようなことではなかった。私は一言ありがとうと返し、彼の家の裏を通り抜けて表通りに出る。
するとその通りには、朝方の小さな町にしては不自然な賑わいがあった。その誰もが丁寧にめかしこみ、何かを楽しみにしているような生き生きとした表情を浮かべている。何かの催し事があるような雰囲気は、初めて訪れる町でもなんとなく見て取れた。そして、そんな中でポタポタと水を垂らして歩く私はやはり目立つのだろう。周囲の視線を集めている気がして、どこか気恥ずかしい。駐在所が見えてくる頃には、気がつけば自分の足取りはずいぶんと速くなっていた。
「おや、見ない顔だね。開通式なら通りの反対側だよ」
駐在所に入る私にそう声をかけてきたのは、デスクに座りコーヒーを飲んでいた細身な男性だった。大きな白いひげをたくわえ、ベージュのシャツには星形のバッジをぶら下げている。彼はしばらく私を眺めていると、その不自然な様子に気がついたらしい。
「いや、失礼。何かワケありの様子かな?保安官のウォルターだ」
そう言いながら彼はデスクを離れると、私に右手を差し出してくる。私はそれを握り返そうと手を伸ばし……そこで初めて、自分の右手に指が三本しかないことに気づいた。薬指と小指は、最初の関節の途中から欠けている
「…………その手が痛むようなら、握手はやめておこうか」
私が戸惑っていると、保安官は勝手に納得して伸ばした手を引っ込めた。痛むような感覚はないし、傷口もとうの昔に癒えている様子だが、なぜこんな事を自分で忘れていたのかが引っかかる。
「あの、川上から、この町まで流れ着いてきて……町の人が、ここに来たら何とかしてくれるだろうって教えてくれたんです」
そうか、と彼は短く返すと、壁際のコート掛けからハンガーを取り出した。私が礼を告げながら手渡したコートを壁際にかけつつ、私にたずねる。
「あんな山奥に、なんの用事で行っていたんだい?」
答えようとして口を開くものの、返す言葉が出てこない。山に行く前のことすら、記憶に残っていなかった。
それどころか、話せるような記憶が、私には何もなかった。
「覚えて…ないです。行った理由どころか、自分の家も、名前も……」
保安官は顔をしかめるが、無理もない反応だろう。しかし私の表情を見て、実際に動揺していることが伝わったのか、彼は穏やかな笑顔をそのしわだらけの顔に戻した。
「まぁ、一度休んで気持ちを整理するといい。こっちに来なさい」
そう言いながら彼は、地下に伸びていた階段の下に消えていく。私がその後に続くと、その下は牢屋になっていた。保安官が腰から下げていた鍵を使い、その一つを開ける。
「鉄格子の中で居心地は悪いかもしれないけど、ここくらいしかベッドがなくてね、よかったらすこし休みなさい」
確かに気分は良くないが、選り好みできるような状況でもないだろう。事実として、屋根の下で横になれるだけでも今はありがたい。
「すいません、ありがとうございまっー」
私が牢に片足を入れた瞬間に、保安官は私の背を突き飛ばした。振り向いた頃にはすでに、牢の鍵は閉められている。
「あの山奥にいる人間は、ハンターか林業の作業者くらいだが、このあたりで仕事をしている人間なら私は全員把握している」
保安官は先ほどまでと変わらない、穏やかな表情でそう話す。
「それ以外であそこに居るのは、息を潜めているギャングくらいなものさ。……ダリア保安官補が戻ってくれば、そうでないと言い切れる。それまでは手荒な対応を許してくれるかな?」
保安官の言い分は、確かに筋が通っていた。そのためだろうか、私は今の状況に対して、そこまで理不尽な仕打ちだとは思えなかった。唯一の不満は、暇を持て余していることだけである。保安官はどこかに行ったのか、もうしばらくの間上の階から物音が聞こえてこない。
「……」
ベッドに仰向けになったまま、3本指の右手を頭上に掲げてみる。これは生まれつきなかったのか、はたまた事故で失ったのだろうか。
「うぅん」
目元にかかった前髪を、さっきまで眺めていた指先で横に流す。そういえば自分は、ずいぶんな長髪だ。まっすぐ下ろせば、後ろ髪は腰まで届きそうである。自分の身体が見知ったものではなく、次々と発見があるというのはどこか不思議な感覚だった。
他にもなにか、自分自身に対する発見はないかと探っていると、誰かが階段を降りてくる音が聞こえてきた。ベッドから身体を起こし、降りてきた相手を眺めてみる。一人は先ほどの保安官。そして両手を縄で拘束された状態で、彼に引っ張られていたのは見慣れぬ男だった。小綺麗なチェックのパンツに真っ白なシャツ、てらてらのレザーベストを羽織った、どこか胡散臭い雰囲気を感じる男である。なかなか印象的な様相だ。
「許してくれよ保安官さん。俺が掘り当てた金塊、特別にタダで譲るからさぁ」
保安官に引っ張られながら、彼は私の隣の牢屋までやって来る。
「そうやって真鍮メッキの鉛を、うちの町人にも高値で売りつけたんだろう。タダでだって欲しいもんか」
保安官はそう返しながら、彼を牢屋に押し込む。ガシャンと鋭い音が鳴り、彼のいる牢屋は鍵が閉められた。
「さて、ダリア!こっちに来たまえ!」
保安官が階段の先にそう声を張る。しばらくすると、また別の誰かが階段を降りてきた。
降りてきたのは、黒人の女性である。先ほどの男が印象的だなんて思っていたら、彼女はそれ以上に目に焼き付く見た目をしていた。
真っ黒な肌や長髪に溶け込むような、真っ黒なワンピースと真っ黒な帽子。その中でたった2つだけ黒くないものは、銀色の保安官バッジと顔の下半分である。その顔の鼻から下は、まるで等身大のくるみ割り人形のように真っ白な木で出来ていた。よく見ると、木と顔の接合部にはズタズタの傷跡が伺える。下顎が欠損していて、上から仮面を被せているのか?
「この子が、さっき話していた山の方から流れ着いたっていう少女だ。ミルハウス・ギャングの一団に、彼女みたいな子は居たかな?」
保安官にそうたずねられて、ダリアと呼ばれたその保安官補は牢屋の目の前まで近付いてくる。じっとこちらを見つめる彼女の視線は、どこか心地悪い。
「こ、こんにちわ……」
文字通りに無口な彼女が、私に挨拶を返すことはなかった。ダリアはもうしばらく私を眺めた後に、保安官に向き直って首を横に振る。
「そうか。それは悪いことをしたね」
保安官はそう言うと、腰にぶら下げていた鍵の束を取り出した。それを見て、私の隣に居た男が横槍を入れる。
「なぁ保安官、俺だってミルハウスの仲間じゃねえんだ、出してくれよ」
しかし保安官はそれを許さないばかりか、返事すら返す事はなかった。私の牢屋を開いた彼は、視線の高さを合わせるようにその場で屈む。
「まずはお詫びに、食事でもおごろうか。今日の町はお祭り騒ぎだからな、いいタイミングだぞ」
ずぶ濡れだったコートや髪は乾き、今の私は朝の時ほど周囲から浮いていなかった。ウォルター保安官、ダリア保安官補と肩を並べて、さっきは川下に降りてきた通りを川上に向けて登っている。
「あの。さっき、お祭り騒ぎだっていってたけど、何があるんですか?」
「鉄道の開通式だよ」
保安官がそう返す。
「 何年か前に、この町にも鉄道と駅を通そうって話が出てきてね。そこからずっと工事をしてきて、今日がついに開通式ってわけさ。なんと、こんな小さな片田舎の町だっていうのに、クライスラー州知事も挨拶に来てるっていう話だよ」
そう彼が話している中ほどで、通りの終わりに建つ駅と人の喧騒が見えてきた。しかしそこにたどり着くより先に、両脇に並ぶ建物の一つから声がする。
「おう、ダリアじゃねえか!少し来てくれるか?」
声をかけてきたのはガンスミスから顔を出す、店主と思しい男だった。ダリアは小さくうなずくと、保安官の背中を手のひらで叩いてから店の中に消えていく。彼女と別れて、私と保安官は駅に向かっていった。
明るい色を残した真新しい木でできている駅の周りには、ずいぶんな人が集まっていた。的あての銃声や走り回る子供たちの声、駅舎の向こう側からは華やかな音楽隊の演奏も聞こえてくる。目を引くものは色々あるが、駅のすぐ隣に馬車を停め、その前で煙といい匂いを出している男のところまで保安官は向かっていった。
「美味しそうな匂いじゃないか。何を作ってるんだい?」
赤く灯った炭に中腰で向かい合い、大量の串焼きをくるくると回していた男に保安官がたずねる。
「鹿肉のシシケバブだよ。肉だけなら10セント、サンドイッチは12セント」
「サンドイッチを2つもらおうか」
はいよ。と答えた男は串焼きの一本を取り出し、ワゴンから取り出したパンに乗せるように串から引き抜いた。横に積んであったオニオンソテーとソースを上から乗せて、最後にギュッとパンを挟む。それを眺めていると、今頃になって私のお腹はくるくると鳴りだした。ずっと緊迫していた私の身体は、空腹を訴える余裕が今までなかったらしい。保安官は受け取ったサンドイッチをそのまま私に手渡すと、2つ目を作っている彼のテーブルにコインを置いた。
「ありがとう。それじゃあ、いただきます」
保安官に礼をしてから、私はサンドイッチにかぶりつく。するとその瞬間に拍手喝采が響き渡り、私は思わず周囲を見渡した。もちろん、人々は私がサンドイッチにありつけたことを祝ってくれたわけではない。拍手の出どころは、先程まで音楽の聞こえていた駅舎の向こう側だ。
「ほら、彼が噂のクライスラー州知事だぞ。見に行こう」
保安官はそう言うと、サンドイッチにかぶりつきながら駅の中を通り抜けていった。
群衆が見守る即席の壇上に、床を軋ませながら恰幅のいい男性が上がっていく。彼は真っ白なネクタイをピンと正すと、深く息を吸ってハキハキとした声で話し出す。
「アーベント州の鉄道網拡大計画を始めてから、早5年。ついにこのシダーランまで延線を進め、正式に駅として運用出来るようになりました」
再び拍手が群衆から響く。
「この鉄道の開通により、ここからプロスペラの市街までは半日で到達できるようになります。街で発行された新聞はその日の夕方には駅前に並び、朝食を食べてから家を出ても、その日の夕食はプロスペラで楽しめるはずです」
そう語る州知事の目は、遠くからもはっきりと分かるほど活き活きと輝いている。
「この線路が生み出す変化は、都市の恩恵を皆様に授けるという一方的なものでもありません。シダーランの潤沢な木材や氷は、採ったその場から街に卸されー」
彼の演説は長たらしく、私はだんだんと興味を失ってきた。演説ではなく、それに聞き入る群衆を眺めながらサンドイッチを食べていると、誰かが私の背中を小突いてくる。いつの間にか私の後ろに立っていたのはダリア保安官補だ。
「はい、どうしましたか…?」
たずねた後で、彼女から答えが来るはずもないということに気がつく。しかしダリアは肩から下げていたポーチを開くと、手帳と鉛筆を取り出して何かを書き始めた。それが気になった保安官は、彼女の後ろに回り込んで肩からノートを覗き込む。
『川辺でバッグの落とし物。駐在所に保管した。お前のものか見てこい。』
彼女が私に向けたノートには、乱暴な字でそう書かれていた。
「あっ、ありがとうございます。覚えているかも分からないですけど、一応見てきます」
少しだけ手元に残っていたサンドイッチを頬張り、サンドイッチを咀嚼したまま私は群衆や保安官達から離れた。
みんな開通式に夢中なのだろう。振り向いた先の通りは、人の気配が完全になくなっていた。喧騒を離れるのはどことなく心細い気持ちになる。……とはいえ、自分の持ち物があるのならありがたい。失った記憶の手がかりがあれば、自分の家や、家族のもとに帰れるかもしれない。仮にそういうものがあればの話だが。私は改めて駐在所まで戻り、そのくたびれた扉を押して開いた。
「……あぁ!!」
それらしい帆布のショルダーバッグが、確かに保安官のテーブルには置いてあった。そして、さっき私と入れ替わりに牢屋に放り込まれていたはずの男が、その中身を物色している。保安官がいない隙をついて出てきたのか。しかしどうやって?色んなことを考えている間に、彼が先に動き出す。
「やべっ」
その男はショルダーバッグを奪い取ると、そのまま開いていた窓に飛び込んで外に逃げ出した。
「待ちなさい!私の(かもしれない)バッグなのよ!」
私は扉から外に飛び出し、駆け足で駐在所の裏に回り込む。低木と雑草をかき分けて、森の中に消えていく彼の背中を私は見逃さなかった。
「いったいなんなのよ!記憶をなくしたり!投獄されたり!盗まれたり!」
誰に向けるでもない怒りを吐き出しながら、私も森の中へと続いた。
保安官はたしか、この山で林業が行われていると私に話していた。それだけのことはあり、森の中はずいぶんと緑が深い。陽射しが直接当たるような場所はほとんどなく、その薄暗さは人を追うのにはたいへん都合が悪い。しかし、姿は見失っても彼を追うことは出来ていた。
「こっちね」
朝霧がかかるような湿潤な土地のおかげで、土はずいぶんと柔らかくぬかるんでいる。彼の硬いブーツが残した足跡は、少し草をかき分ければはっきりと辿ることができた。しかし中腰になると、前方に垂れる自分の長髪がわずらわしく感じる。もう少し深くかがめば、毛先に泥がついてしまいそうだ。記憶をなくす前の私は、何を思ってこんなことになるまで伸ばしていたのだろうか。
何分から足跡を追って進んでいると、小高い丘の向こうからパキパキと乾いた音が聞こえてきた。きっと、枝を踏めしめて折った音である。それを聞いた私は足跡の追跡をやめて、まっすぐ丘を登っていった。
「あっ」
丘を越えたすぐ先に、私のバッグを盗んだ男の姿があった。彼は倒木の陰に隠れるように、低く地べたに寝そべっている。
「見つけたわよ!」
私はそう言いながら、男のところまで駆け寄った。彼はぎょっとした表情でこちらを振り返る。
「大人しく返しなさいよ!私のバッ―」
彼はまた逃げ出すかと思っていたら、むしろ私の方に飛び掛ってくる。私を地面に押し倒すと、彼は私の口元をその手で押さえつけた。
そしてもう片手の人差し指を、自分の口に押し付けて「黙れ」と私に合図してくる。彼はゆっくりと頭を下げると、私のすぐ耳元でささやいた。
「静かにしてろ。死にたくねぇのはお互い様だろうが」
一体何を言い出すのかと思っていると、彼が隠れていた倒木のすぐ向こうに答えがあった。
ほんの20ヤードほど先には、茶色い毛皮の立派な熊がいる。それは鼻息を荒くしながら、自身の足元でもがいているエルクをむさぼっていた。それを見た瞬間に、私はサッと頭から血の気が引く感覚を覚える。
「ここは風下だから匂いじゃ気付かれねぇ。あいつのメシが終わってここを離れるまでは、何の物音も立てるんじゃねえぞ」
私が小さくうなずくと、彼はゆっくりと私の口をふさいでいる手を離した。
彼が肩に下げている私のショルダーバッグが気になるが、それは今心配することではないだろう。私と彼は横並びに寝そべって、クマの気配が遠ざかるのを待つ。アレが危険な生き物であるという記憶が残っていたのは、運が良かったと思うべきだろうか。
「……ねぇ、来た道は戻れないの?」
彼の耳元に頭を寄せてそう尋ねる。
「足音が出るだろ。あのエルクに鳴く体力があるうちなら逃げられたが、お前を黙らせるのに忙しくてそのチャンスも逃しちまった」
「なによ、私が悪いって言いたいの?元はといえば、こんなところに逃げてきたあなたが悪いじゃない」
ひそひそ声の口論は、徐々にヒートアップしていった。
「知るかよ。こんな町の近くでクマなんかいると思うわけねぇだろ。だいたいお前-」
私と向き合おうとした拍子に、彼はバシンと倒木を蹴りつけてしまう。その音を聞いて振り向いたクマと私は、明確に目が合っていた。ブモーと荒い鼻息を漏らしながら、クマはその図体からは想像もつかないような速さでこちらに迫ってくる。
「逃げるぞ!!」
彼はしっかりと声を張ってそう言うと、地面に両手をついて勢いよく立ち上がる。素早く飛び退いた彼の背中に、紙一重の距離でクマの拳が飛んでくる。しかしその手は私のバッグに引っかかり、肩紐で引っ張られるように彼は地面に叩きつけられた。
「がはっ!!」
バッグから飛び出した何かが、丁度私の手元に飛んできた。それは、銀色のずっしりと大きなピストルである。彼を襲おうと立ち上がる熊を前にして、私はとっさに左手でピストルを手に取る。使い方は文字通り、身体が覚えてくれていた。レバーを引いて、排莢口から弾が入っていることを確かめる。レバーを戻しながら彼にのしかかる熊の頭に銃口を向け、引き金を引いた。
手首を痛めそうなほどの強い衝撃と共に、ピストルは轟音と白煙を噴き出した。銃弾は確かに側頭部にあたり、熊は大きくよろける。その隙に男は立ち上がって距離をとった。
しかし、ピストルでは熊の命を奪うには不十分だったようだ。熊は標的を変えると、煙を押しのけて今度は私に近付いてきた。私は急いでレバーを引いて排莢し、再び引き金を引く。しかしカチンと撃鉄が打たれる感覚はあるにも関わらず、銃は発砲されなかった。
「嘘!?」
思えば、私と一緒に川を流れてきた水浸しの銃なのだ、むしろ1発目が撃てたのが幸運だったのだろう。殴りかかってくる熊を前に、私は両腕で顔を隠すことしかできなかった。
「ああっ!!」
飛んできた硬い爪が、私の腕から肉をえぐり取る。痛みに耐えかねて地面に倒れると、熊は私を逃がすまいともう片手で踏みつけてきた。内臓が押しつぶされるような圧迫感で、呼吸がままならない。
しかし、熊の追撃が私に飛んでくるより早く、どこかから銃声が響いてきた。
視線を上げた先には、先ほどの男がリボルバーを構えて立っている。
「どうした、かかって来いよこの野郎!」
私とあの男、熊はどちらを先にするか悩む様子を見せるが、その間にもう一発銃弾を受けて心を決めたらしい。熊は私を踏みつけていた手を離し、彼に向かって走っていった。
「うおおおお!!」
男は腰にリボルバーを構えて、もう片手で撃鉄を弾きながら次々と発砲する。6発全部撃ち切るころには、熊は明らかに朦朧としていた。男を押さえつけたのはいいものの、襲いかかる気力が残っていないらしい。その隙に私も身体を起こしてピストルを向け直した。右手の指でレバーを引いて、湿気ていた弾を捨てる。3発目も湿気ていた、またレバーを引く。4発目も駄目だった。熊は彼に噛みつこうと口を開く。
5発目でようやく、待ち望んでいた白煙が噴き出した。それでようやく事切れた熊は、ぐったりと男の上に倒れ込んだ。
「やった……」
安心感からか、出血からか、全身の力が抜けた私はそのまま大の字になって地面に倒れ込んだ。心臓はバクバクと力強く鳴ったままだが、そんな緊張に反して脚はまるで動いてくれない。頭だけ上げてみると、熊の下から這い出た泥だらけの男が、私のところに歩いてきていた。
「…おまえが俺を助ける義理なんて、なかっただろうが」
お礼を期待していたというのに、ずいぶんと薄情なものだ。
「貸しを作ったんだから、ちゃんと返しなさいよ。具体的には私のバッグで」
それを聞いた男はフンと鼻で笑う。
「俺だってお前を助けてやっただろ。それで貸し借りはナシだぜ」
「私が先に助けてあげたのに?」
それを聞いた男は、私の隣に座り込んで悩む素振りを見せた。
「……山分けで妥協してやるよ」
「いいえ、私が妥協してあげるわ。感謝しなさい」
それを聞いた男は笑い出す。つられて私の口角も上がっていた。
「エドワルドだ。お前は?」
「分からない。勝手に呼んでいいわよ」
それを聞いた男は再び笑い出した。
「本当に分からないのよ。気付いたら記憶がなくなって、あの町に居たわ」
ふうん、と男は適当な相槌を打つ。記憶喪失の人間なんてそう見られるものではないだろう、もう少し興味を持って欲しかったところだ。私は悪態をつきながら身体を起こして、髪にべっとりと絡みついていた泥を拭い落とした。ところで、今更になって腕の怪我がまた痛んでくる。熊と戦っていた興奮が落ち着いてきたのだろうか。
「……早いこと町に戻って、治療を受けないとな。さっさと荷物を分け合うか、金髪野郎」
駐在所のベンチに座り、ダリアに包帯を巻かれながら私は窓辺に目を向ける。日差しはすでに真上から照っており、朝の肌寒さは残っていなかった。森を出た安心感のおかげか、この暖かい日差しのおかげか、腕の痛みはまだ残るものの、先ほどよりはいくらかマシになっていた。
「そうか、我々がいない間にそんなことが……戻るのが遅いなとは思っていたが、気付けずにすまなかったね」
デスクに向かった保安官は何かをノートに記帳しながら、私にそう告げる。
「いえ、大丈夫です。元はと言えば、自分で犯人を追いかけようとした私が悪いので……」
私はようやく戻ってきたショルダーバッグを固く握り、保安官に言葉を返した。
「それで、貴重品はちゃんと取り返せたのかい?」
「はい。現金とか、金目のものは譲ることになりましたけど、大切な気がするものは全部あります」
エドワルドに渡したものは、現金の半分(15ドル)、コニャックのボトル、そして小瓶に何粒か入っていた砂金だ。そして私の手元に残ったのは、現金のもう半分、ピストル……そして私の直感が「絶対に手放すな」と訴えてきた、正体の分からない飾り物である。
私はバッグを開いて、改めてその飾り物を確かめた。動物の骨を繋いで作られた輪の中に、細い紐で星印の模様が描かれている。輪っかの片側からは、飾りを吊り下げるためと思われる紐が伸びており、その反対側から垂れる紐には真っ黒な石がくくりつけられていた。
「ドリームキャッチャーだね」
私の手元に気が付いた保安官がそう返す。
「インディアン達が信仰に使ってるおまもりさ。彼等の部落に行くと、たまにテントの中に垂れ下がっているんだ」
私の横に座っていたダリアもこくりとうなずく。彼女は包帯の端をピンで留めると、薬箱を閉じてベンチを離れていった。
「なんとなく、これだけは手放したら駄目な気がするんです。……私にとって大切なインディアンの人から、受け取ったものかも」
私はドリームキャッチャーをバッグに戻し、代わりにもう一つ手元に残っていたものを取り出す。熊の頭を撃ち抜いた、レバーアクションのピストルだ。
「熊は自分で仕留めたんだってね。女の子なのに、ずいぶんと銃の扱いが上手いみたいじゃないか」
「ん!」
それを聞いたダリアが、異論を唱える声が窓の向こうから聞こえてくる。駐在所に戻ってきた彼女は、水の入ったカップと真鍮のストローを持っていた。
「あぁ、そうだね。君がいるんだから、女は銃が扱えないなんて私が言うべきではなかった」
彼女はマスクと顔の隙間からストローを差し込み、水を飲みながらベンチに向かう。
「……とりあえず君の直感を信じて、バッグの落とし物は君のモノだったということで返還しよう。記帳するための名前だけ、思いついたものでいいから教えてくれるかい?」
自分が自分の名付け親になるなんて、なんだか不思議な気分だ。どんな名前がしっくりくるのだろうか……
「どうした?俺がブロンディって名付けてやっただろ」
駐在所の入り口に寄りかかり、私たちを眺めていたのはエドワルドだ。
「あなた、なんでここにいるのよ!?」
彼とはバッグの中身を分け合ったあとに、そのまま森の中で別れている。脱走した身なのだから、そのまま町を離れているものだと思っていた。
「ほう、わざわざ自首に来てくれたとは感心するじゃないか」
ウォルター保安官はデスクから立ち上がると、壁のフックに吊るされていた手枷を持ち出した。ガチャンと音がしたので振り向いてみると、ダリアは彼に向けてライフルを構えている。銃床もバレルも切り詰められた、変な形のリピーターライフルだった。
「自主とは少し違うが、ちゃんと罪は償いに来たぜ?」
彼はそう言いながら、ベストの胸ポケットに納めていた紙幣の束をデスクに置く。
「アーベント州の州法によれば、怪我や命の危険を伴わない詐欺罪は基本的に罰金刑、支払い能力が無い場合に限り懲役刑だろ?被害者への賠償金と、自治区を管轄する保安官への手続き手数料、罰則金で合わせて60ドルだ」
保安官は何か言い返そうとするが、エドワルドは話を続ける。
「そこに、俺からの誠意を込めてもう10ドル。……受け取ってくれるかな、保安官殿?」
デスクに並べられた紙幣とエドワルド、そしてダリアを交互に見ながら、保安官は何やら悩んでいる様子だ。そして最後に私を見下ろしてから、保安官は判断を下す。
「犯罪者の誠意なんて、そこの紙幣なんかよりずっと薄っぺらくて軽々しい。いくら積まれても重みは出ないし、それを受け取ったことは一度もないさ」
それを聞いたエドワルドの笑顔は、ほんの少しだけ引きつった。
「しかし、もう5ドルぶんの誠意が感じられたら、気も変わるだろうね」
ウォルター保安官が、贈賄に応じるような人だとは思っていなかった。そして私だけではなく、ダリアも彼の言葉には驚いている様子だ。
「ずいぶんと手厳しいな。これで俺の反省は伝わるか?」
彼は嬉しそうにポケットに手を入れて、もう何枚か紙幣をデスクに置く。保安官はそれを受け取り、満足気に頷いた。
そして保安官は受け取った15ドルを、そのまますべて私のカバンに押し込んだ。……森の中で、私がエドワルドに山分けしたのと同じ金額である。
「エドワルド君。君はこの子が熊に襲われた時、逃げられたにも関わらず彼女を助けようと立ち向かったみたいじゃないか。その善い行いに免じて、詐欺罪は州法に従い罰金刑の言い渡し。脱走した件に関しては『罰則金の支払いのため、銀行への引き落としに外出を許可した』ということにしてあげよう」
せっかく放免されたというのに、それを聞いたエドワルドはどこか不満げな様子だった。そんな彼の様子に気が付いたダリアは銃を壁に立てかけて、鉛筆でなにやら書き留めたノートを私に手渡す。
「……『お前が欲しければ、罰金刑、懲役刑両方とも言い渡す。』だってさ」
私(が代弁したダリア)の言葉を聞いた彼は、慌てて首を横に振る。
「ああいや、そいつは遠慮しておくぜ。それじゃあ保安官殿、どうぞよい一日を」
彼はそう言いながら、足早に駐在所から出ようとする。しかし立ち去ろうとする彼の背中を見て、私は突拍子もないことを思いついた。
「ねえ、待って」
悩んでいたら、大事な機会を逃してしまう。私は心を決めるより先に彼を引き留めた。
「町を出るんでしょ?だったら私も連れていって」




