トラック7
トラック7
走った。
鼻水を垂らして、涙も拭わず、走り続けた。
止まってしまったら、その場に座り込んで二度と立てなくなる気がした。
空が赤かった。世界は綺麗だね。
でも残酷だ。
私みたいな女を生み落とす。
私のせいでツラのいい美人が一人減るかもしれなかったんだ。
なんでこんな存在を許容しているんだ。どうして、私は生きてるんだ。
一体何に生かされているというんだ。
何のために、私は。
足が悲鳴を上げる。
根性無しが。ちゃんと仕事しろ。無理矢理にでも動け。
一刻も早く、一歩でも遠く、美咲から離れないといけないんだから。
私はこの街を詳しくは知らない。
どこに向かうべきかも定まらない。
人に見られたくない。
何も考えられない。
でも足を動かさなきゃいけない。
結果として迷子になった。この歳で。来年度から大学生とは思えないね。
スクールバックの中にスマートフォンをいれていた。財布もいれていた。その中には定期としての役割もあるカードが入ってた。
身一つで無一文。
あはは、嗤える。
自分で自分を卑下したら、あっさり限界が来た。
その場に崩れ落ちた。
アスファルトが冷たい。地肌に食い込む。
あぁ、コートも置いてきちゃった。
日が落ちそう。辺りが急速に冷えていく。
風が冷たい。
寒い。
痛い。
苦しい。
死にたい。
涙が止まらない。
声が止まってくれない。
路地裏だから響いちゃう。
見ないで。放っておいて。
全部自業自得。私が百パーセント悪いんだから。
すんすん、泣き声。
泣いているのは私。
ほんと?
顔を上げる。
空が赤と青に裂かれている。赤も青も深い色。
あれ、なんて言ったっけ?
現文か古典か忘れたけど教わった気がする……思い出した。
逢魔が時、か。
古来、魔物と遭遇すると信じられていた時間。
そうか、なら『出会ってしまった』と思うべきは向こうか。
私が魔物。
この子は人間。
私なんかを好きになり、泣いてくれて、美咲にすら激情を向けられる子。
きっと優しい子なんだろうね。
釣り合わないよ、私なんか。
だから、見捨ててくれていい。お願いだから優しくしないで。
手なんか差し出されたら私握っちゃうよ。
そして壊しちゃう。
だって私は……恐ろしい魔物で、醜い怪物で、狡猾な悪鬼で。
さっき人を殺めかけた殺人未遂犯だよ。
「うたかね、せんぱい? うそ、どうしてこんなところに」
どうしてなの。
なんで私の祈りは通じないの。
なんで私には祈る神様すら、いないの。
「え、あ、えっと、何かあったんですよね? 喋らなくていいです。辛かったですよね。私がそばにいますから。こういう時は、どうしよう、どうしよう。えーっと……とりあえず今から警察呼びますね。ちょっと待っててください」
違うよ。
それは貴方の勘違いだよ。
確かに胃の中身全部吐き出して、呼吸も乱れて、身一つだけどさ。
だからって私が何かされたんじゃないんだ。
なんで私は後輩の前で被害者面してんだよ。
加害者なんだから今すぐにでも天罰が与えられるべきでしょうが。
差し出されたわけじゃないのに、私はスマートフォンを取り出そうとしていた彼女の手をそっと掴んでいた。
この期に及んでまだ自己保身に走る己が憎かった。
腹をズタズタに引き裂いて内蔵全部を海の底に沈めてやりたかった。
「え、ちょっと、なにを」
ごめんね。
あなたの好意を利用する浅ましい私をどうか許さないで。
私が今から言うことに乗せられて、反論せずに、奴隷のように、ただ従って欲しい。
そして傷付いて。
傷付けることでしか生きられない私を好きになってしまった自分の恋を呪って。
代わりになるか分からないけどさ。
私のことバラバラに砕けるほど、壊していいから。
全部ぶつけてよ。
貴方の想いを、全て、余さずに。
それくらいしか、私には差し出せるものがないんだ。
抱きしめた身体は暖かい。
冷え切った私はもう離せない。
昂っている私に離す気はない。
柔らかくて心地いい。どうして、美咲にはこれが出来ないんだろう。
神様、私はどうして、好きな人を壊そうとしてしまうのですか?
「私を抱いてくれる?」
「どういう、意味ですか」
そう彼女は問うた。
「そのままの意味だよ」
「今してるじゃないですか」
そう彼女は問うた。
「違うよ。分かってるでしょ?」
私の問いを彼女は正しい意味で受け取っていた。
「それは駄目です。だって、だって! 先輩はそういう事されたんですよね? だから、今……こんな状態なんですよね? 私許せないです。先輩がそんなことされたのが。それなのに、心の傷も癒えてない内に……同じことできないですよ」
彼女の言う事は誰が聞いても正論だって肯定すると思う。
けど、私と彼女の間では、それは何の意味も成さない。
「優しいんだね。だから、その優しさの一片でいいから私にくれないかな。その優しさで上書きしてほしいの。今感じてる絶望を、あなたの優しさで。もっとあなたを感じたい。温もりが欲しくて欲しくて堪らないの。ダメ、かな。それとも今の私は汚らわしい?」
「そんなこと、ないです。一二三先輩はどんなに傷付こうと綺麗です。傷だらけになったとしても私にとっては宝石だから。どんな時も、どんな姿も。それに、私の恋はそんなことで、冷めるような、ものじゃ、ないんです」
「嬉しい。ねぇ、お願いだから。辛いの。苦しいの。あなたが欲しいの」
私は感じてるよ。
貴方が必死に隠したいその熱を。
「わ、私は……」
「ごめんね。返事もまだなのに無理言ってしまって。忘れてくれてくれるかな。みっともないとこ見せちゃったから」
「いや、あの、すごく嬉しいです。一二三先輩は、身持ちが固いことで有名だから、こんなに私を求めてもらえるのは凄く嬉しい、です……はい」
ふーん。
私に押されれば自らの気持ちに蓋をするのに、こっちが身を引こうとすればあっさり出しちゃうんだ?
「そうなんだ。私知らなかったよ。下級生の間じゃそんなキャラなんだ、私って」
「だからその、そんな状態の先輩に自分の気持ちをぶつけるのにちょっと自己嫌悪があるというか……ハッキリ言いますね。身持ちが固くて有名な一二三先輩が、初めてを無理矢理奪われたってだけで最悪なのに、その傷を癒すためだけに安易にそういうことして欲しくないって思っちゃうんです。余計なお世話かもしれませんけど。まぁ……私がその行為に使われるのは、別にいいんですけどね。でも駄目ですよ、やっぱり……そういうこと一回でもしちゃったら、一二三先輩の人生が狂っちゃう」
それはどうだろうね。
ホントは気付いてるんじゃない?
狂っちゃうのは私じゃなくて自分の方だって。
「貴方は本当に優しい子なんだね。こんな子と付き合える人は幸せ者だ」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「ぐっ」
「なぁに?」
「あ、いえ……」
「言ってごらん?」
「だめです」
彼女の言葉には美しくも薄汚れた願いが込められている、と私は感じる。
あともう少しで、こじ開けられそうかな?
「いいから、言って」
「だってこれは、醜いから」
「そんなことないよ。貴方が汚れた私をそれでもまだ宝石だと思ってくれるように、私も貴方がどんなに醜くとも煌めく宝石だと思うから」
「う、そんな、こと」
「ほら、言って?」
我慢せずに言っちゃいなよ。
言葉にしちゃったら、もう後には引けなくなるからさ。
「……一二三先輩」
「うん、なぁに?」
「最低な、お願いが、あります」
「うん、何かな?」
「先輩のお願いを叶えたら、私と付き合ってくれますか」
くっは!
やっと言えたじゃない。
理性で抑えきれなかったって諦めた表情、悪くないよ?
「あはっ、そうだねえ、どうしようかなぁ。じゃあ、一つだけ条件をつけよう。あなたが名前を教えてくれたら付き合ってあげようかな? 美しい名無しの権兵衛?」
「へ? あ、あぁ……そうですよね。まだ、私、名乗ってすら、なかったん、ですよね……はは、自分が情けない。では、改めて自己紹介させて頂きます。私の名前は『フジヤマイオリ』です。苗字の『フジヤマ』は『富士山』と同じ字です。えっと、あれです、日本一高い山と一緒の字です……って今更説明されなくても知ってますよね。それで名前の『イオリ』の方は、そうですね、んー……宮本武蔵の養子である宮本『伊織』と同じ字なん、ですけど……あれですよね、分かりにくいですよね。すみません……私、芸能人とかよく分からないから上手いこと言えなくて。それに、ちょっと、いや、すっごくテンパっちゃってて。あ、あと学年は一年です」
良い名前だって、なんでか思ってしまった。
私と違って親の願いが籠ってそうだからかな?
だから、きっと。
綺麗な名前だからこそ。
制服を脱いだら、流れでるように私の中から消えていくんだろうな。
「そっか、似合ってる名前だね」
「はい、はい!」
「ふぅー……聞いて富士山伊織さん。私と付き合って欲しい。恋人になって欲しい。私が卒業するまでの二か月間だけ。セーラー服を着ていられる間だけ私の彼女になって欲しい」
「それだけ、しか、だめなんですか?」
「うん。私は遠くの大学に行くから」
「そう、なんですね」
「そんな絶望しないで? じゃあ約束しよう。私が卒業して、時が経って、伊織ちゃんが色々な恋をして、それでも私のことが忘れられないって、どうしようもないほど好きだって思ってくれるなら、私はまた伊織ちゃんと一緒になりたい。伊織ちゃんが持つ思いが本物かどうか……私は知りたい。勿論、私より好きな人が出来たらこの話は忘れてくれていいから」
「嫌です。絶対忘れません。だから、この約束を一二三先輩もちゃんと憶えててください」
「うん」
「絶対に、絶対ですよ?」
「うん」
「あ、あの、じゃあ! 私達今この瞬間恋人になった、から、その……お互いの呼び方決めませんか? 私、宇多葉先輩って呼びたいです!」
あはは。
関係性が変わったと思えばすぐ要求するんだ?
待てしてた犬みたいだね。
「んー、しょうがないなぁ。特別に許可してあげる」
「や、やったぁ……」
「あはっ! 私さっき伊織ちゃんって勝手に呼んじゃったね。ごめんね。それで富士山伊織さんは私になんて呼んで欲しいの?」
「は、恥ずかしい」
「言ってくれなきゃあ、分かんない!」
「い、伊織ちゃんで……」
「はぁい。伊織ちゃん」
「あの、その、宇多葉先輩」
「なーに?」
「そろそろ、離してもらえませんか」
「なぁんで?」
「さっきから子供が見てて、恥ずかしくて」
「いいじゃん、見せつければさ。だって私達……付き合ってるんだから」
変な気持ち、なんかフワフワしてる。
これを言う日がこんな形で来たからかな。
「宇多葉先輩って、本当はそんな感じなんですね」
「もっとお堅い印象だった? あぁ、身持ちが固いんだっけ? 下級生の間では」
「えっと、そうですね」
「いいこと教えてあげよっか?」
「な、なんですか?」
「私はね、私を見せる相手は選ぶよ。今はこういう私を伊織ちゃん見せたい。恋人だから、ね」
「え……えっ、えっ!」
「あはっ! にやけてるよ伊織ちゃん?」
「い、いいじゃないですか、にやけたって」
「ホントかわいいね。伊織ちゃんは」
私と違って。
本当に優しくて、真面目で、素直で、純潔だよ、富士山伊織。
私達は抱擁を終えて立ち上がる。
彼女の、富士山伊織のスカートを汚してしまった。
なにをしても罪悪感が積もっていく。
私はそれを払うようにスカートに触れる。
富士山伊織は、気にしないでくださいと言っていたけど、抱き寄せたのは私だから、私の手で砂やほこりを取り除きたかった。
そして穢れた右手で富士山伊織の左手を握り、指を絡めた。
まだ忘れるには短すぎたから、温度と感触は数時間前と一緒だった。
そうして、富士山伊織と横に並んで、歩幅を合わせた。
本当に救えない。
何が『優しさが欲しいだ』反吐が出る。
約束するだと?
どの口が言ってんだよ。
何も知らない少女の勘違いを正さず、己の醜悪さを隠し、乙女の恋心を弄んでいるのは誰だ?
だいたいセックスなんてしようもんなら、突っ込まれる側は初めてだってことがバレて、嘘が破綻するのは目に見えてるだろうが。
また誤魔化すのか?
まだ嘘をつくのか?
そうなんだろうな私は!
そういう生き方しか知らないと嘯いて、他の生き方を知る努力を怠ったんだから。
そうなんだよ。
私を構成する全てが傲慢で、不遜で、高飛車で、他者を見下さなければ気が済まないと叫んでいるんだ。
数奇な人生だ。神崎美咲と入れ替わるように富士山伊織は私の前に現れた。
それにしても、客観的に見てもいい感じの演技だったんじゃないか?
我ながら称賛に値する『憔悴した悲劇のヒロイン』を演じきったと思うんだけど。
日本アカデミー主演女優賞とかもらえないかな……無理か。
フィクションじゃないし。
マジでただの屑女なんだよね、私って。
彼女のリアクションはほぼ予想通りだった。
事は私の筋書き通りに進んだ。
彼女の耳元で吐息を多めに囁きながら、私は内心ほくそ笑んでいたんだ。
女がみんな生まれながらの女優だって言葉が本当で、その全員にこのレベルの嘘つかれたら、もう世界の何もかも信じられない気がする。
彼女にとっては私がその筆頭なのかもしれないけど。
また知っているようで知らない街を歩く。
二度も手を絡ませて。
さっきとは違う左手と私の汚れた右手が繋がってる。
私は連れられる。
そのせいで好きな人を殺そうとした。
私はついていく。
そのせいで好きだと言ってくれる人に嘘をついた。
ねえ、伊織は……好きな人を殺したいと思う?
私をちゃんと殺してくれる?
優しくて真面目な伊織にできるだろうか。
もしできるなら、そうして欲しいよ。
私の心と身体を壊すだけじゃ足りないんだよ。
命すら、存在すら、消してしまいたいから。
祈りながら、また改札を通った。
もう擦り切れた記憶だから、また詳細を忘れてしまった。
一時停止。
分かってる。
言わなくて大丈夫。
『お前セックスの詳細語る気ないだろ?』って思ってるんでしょ?
これでも悪いとは思ってるよ?
でもしょうがないでしょ。
二十歳超えてから酒と煙草やりすぎて頭ヤっちゃってるんだからさ。
嘘ついた。
十八からやってた。
良い子のみんなは真似しないでね。
あと現在進行形でヤってる奴はちゃんと黙認されるとこでやってね。
これオフレコね?
間違っても言いふらすなよ?
それにこれ健全な高校生の頃の記憶だからさ、成人指定もらうのはおかしいじゃん。
仕方ないからカットしてんの。
ホントは憶えてるって。
ごめん。
聞いてるのはイマジナリーなもう一人の私だったね。記憶共有してたね。
続きいこうか。
再生。
電気を消した薄暗い部屋で、
カバーがしてある布団という宇宙の中で、
伊織のささくれだった手は、瑞々しい口は、抱きしめる腕は、
私のじくじくと痛む傷を癒すような慈しみに満ちていて、
自分の溢れる好きを伝えようとが必死で、
分からないなりに一生懸命で、
だから……とても私を壊すものじゃなかったことを憶えている。
私を貫いて赤く染まってしまった爪と指先を見て、
『え……宇多葉先輩初めてだったんですか? じゃあ先のアレは』
って言う伊織の口を私の嘘ばかり吐く口で塞いだ後に、
『ギリギリで逃げて来たんだ。初めてを恋人に、それもこんな綺麗な子に、何より優しくて真面目な伊織に……捧げられて良かった』
って言ったことも憶えている。
伊織は心だけじゃなくてセックスも優しくて真面目だった。
私と美咲のセックスがセックスじゃないって思えるくらいに、人間のセックスだった。
多分、これが正しいセックスだった。
私はそんなの知らないし、知りたくなかった。
抱かれなきゃよかった。
望んだくせに、そう思うんだ。
そんな熱を私は認めたくなかった。
やっぱり、私は悪魔だった。
身をもって実感した。
私はきっと、欠けちゃいけない何かが欠けていると。
これが初めての喪失。




