表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/11

風は止まず、世は流る

 書類の山は、思ったよりも手強かった。


 机の上に広げられた文献。

 年号ごとに分けられた記録。

 付箋の色も、次第に増えていく。


「ずいぶん集めたね」


 テオドールが、苦笑混じりに言った。


「学術交流会ですもの。

 向こうに失礼があってはいけないわ」


 アリアは、視線を落としたまま答える。


 書類を揃える手つきは早い。

 迷いがない。



 テオドールは、

 その様子を横から眺めながら、

 一枚、資料を引き寄せて差し出した。


「ありがとう」


 短く礼を言い、

 ページを繰る。


「……今回は、

 どんな方が来られるんですか?」


 さりげない問い。

 雑談の延長のような声。


 テオドールは、

 少し考えてから答えた。


「向こうの王立大学の教授陣が中心だ。

 あとは、顔として――」


 一拍。


「第二皇子殿下だね」


 アリアの指が、

 ほんの一瞬だけ止まる。


「……そう」


 声は、何事もなかったように。


「やはり、重要な場ですものね」


 テオドールは、

 その反応を深読みしなかった。


「ああ、

 学術交流会とはいえ、

 夜は晩餐会もあるしね」


「そう」


 アリアは、

 ページを閉じる。


 内心で、

 小さく息を整えた。


(……これは、好機ね)


 テオドールとの距離は、

 確実に縮まっている。


 信頼。

 立場。

 条件。


 どれも、悪くない。


 そう思いながら、

 ふと、別の棚に手が伸びる。


 天文学。


 無意識だった。


 星表。

 観測記録。

 古い論考。


 必要な資料ではない。

 今回の主題でもない。


 それでも、

 一冊を引き抜いていた。


(……何をしているのかしら)


 自分で自分に、

 小さく呆れる。


「星に興味が?」


 テオドールが、

 穏やかに尋ねた。


「少しだけ」


 そう答えて、

 本を元に戻す。


 理由は、

 説明しない。


 説明できるほど、

 整理されていなかった。



 研究室の片隅。


「そういえば」


 アリアが、何気ない調子で言う。


「来月、オサリアで学術交流会があるわ。

 夜は、晩餐会も」


「え……」


 クロエは、書類をまとめながら顔を上げた。


「あなたも、参加しなさい」


 即断だった。


「いいんですか!?」


 思わず声が上ずる。


「いいに決まってるでしょう」


 アリアは、当然のように続ける。


「こういう場に出ないと、

 いつまでも裏方のままよ」


 少しだけ、言葉を選ぶ。


「向こうの貴族と知り合う機会でもあるわ」


 一拍。


「……そういう世界を、

 望むならね」


 クロエは、戸惑いながらも目を輝かせた。

「アリアさんらしいです」

「でも……手続きとか……」


「テオドールには、

 私から話しておく」


 あっさりと言い切る。


「気にしなくていいわ」


 クロエは、一拍遅れて頷いた。


「……ありがとうございます」


「感謝は、あとでいい」


 アリアは、書類に視線を戻す。


「まずは、

 その場に立ちなさい」


 クロエは、

 その横顔を見て、

 小さく背筋を伸ばした。


 少し離れたところで、

 イレーネが静かにそれを見ていた。


 何も言わない。


 けれど、

 何が動き始めているのかは、

 すでに分かっているようだった。



 オサリア王城の一室。


 窓は大きく、風が通る。

 机の上には、まだ整えられていない書類が積まれていた。


 ユリウスは、

 椅子にもたれかかり、

 それらを一瞥しただけで視線を外した。


「……交流会、ね」


 低く、気のない声。


「学術交流会だそうです」

 側に控える侍従が言う。


「分かってる」


 返事は短い。


「だから、面倒なんだ」


 書類に手を伸ばすこともせず、

 ユリウスは窓の外を見る。


 形式。

 挨拶。

 笑顔。


 どれも、

 彼にとっては退屈の部類だった。


「顔としては、

 第二皇子殿下にご出席いただくのが――」


「はいはい」


 途中で遮る。


「どうせそう言うと思ってた」


 溜息ひとつ。


「逃げ場はない、と」


 侍従は、

 それ以上は何も言わなかった。


 沈黙。


 しばらくして、

 ユリウスはふっと笑った。


「……まあ」


 独り言のように。


「ちょうどいい、かもしれないな」


 侍従が、わずかに首を傾げる。


「以前、

 ニールスが妙なことをしていただろう」


「……ああ、トキアスに行った件ですね」


「そう」


 ユリウスは、

 その時のことを思い出す。


 何も言わず、

 理由も説明せず、

 ただ「行く」と言ったニールス。

 ――あいつにしては、

 珍しい振る舞いだった。


 帰ってきた時も、

 何も語らなかった。


「……あれが、

 少しは分かるかもしれない」


 面倒くさい。

 それは変わらない。


 だが、

 ほんのわずかに、

 興味が勝った。


「準備は進めておいてくれ」


「かしこまりました」


 ユリウスは、

 ようやく机に向き直る。


 指先で、

 書類の端を軽く叩いた。


「顔役、か」


 苦笑。


「たまには、

 役に立つところを見せるとするか」




 一方、

 王城の別の一角。


 ニールスは、

 机に向かっていた。


 広げられたのは、

 学術交流会用の資料。


 農業記録。

 観測報告。

 季節ごとの星の配置と、

 作物の生育状況。


 分野は、

 一つではない。

 けれど、

 どれも彼にとっては馴染みのあるものだった。


 だが、

 彼の手は止まらなかった。


「……ここは、

 補足が要るな」


 小さく呟き、

 書き込みを加える。


 大学側からの依頼。

 王城からの確認事項。


 どちらも、

 彼にとっては特別なことではない。


 頼まれればやる。

 必要なら整える。


 それだけだ。


 扉の外を、

 人が行き交う音がする。


 誰かの足音。

 誰かの声。


 ニールスは、

 それらに気を取られることなく、

 黙々と作業を続けていた。


 第二皇子であることも、

 使用人であることも。


 今は、

 どちらでもなかった。


 ただ、

 役割を果たしているだけ。


 ペンを置き、

 一息つく。


 窓の外を見ると、

 オサリアの空が広がっている。


(……トキアス、か)


 思考が、

 一瞬だけ、

 そちらへ向かう。


 すぐに、

 引き戻す。


 考えても、

 仕方のないことだ。


 資料をまとめ直し、

 束ねる。


「これで、

 問題ない」


 そう呟いて、

 再び次の書類へ手を伸ばした。


 交流会は、

 まだ先だ。


 けれど、

 それぞれの場所で、

 すでに歯車は動き始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ