各々、その道を行く
講義は、終わっていた。
質問は少なかった。
内容も、滞りなく進めたはずだ。
黒板に残る数式。
学生たちの筆記音。
頷きながら聞いていた視線。
どれも、いつも通りだった。
それなのに――
どこか、手応えがなかった。
自分が話した言葉が、
自分の中を素通りしていく感覚。
終わりの合図が出て、
学生たちが席を立つ。
ニールスは、
道具をまとめながら、
小さく息を吐いた。
「お疲れ様」
声をかけてきたのは、ノクスだった。
「ありがとう。
助かったよ」
労いは、軽い。
けれど、形だけではない。
「……いえ」
ニールスは、短く答える。
ノクスは、
彼の様子を一瞬だけ見て、
それ以上は何も言わなかった。
「ソル先生は、
まだ学長室みたいだ」
視線を廊下の奥へ向ける。
「挨拶が長引いてるんだろう」
少しだけ、肩をすくめる。
「君は、イレーネのところで
少し休んでいくといい」
勧めるというより、
当然の流れのように。
「呼びに行くのは、
こちらでやっておく」
「……分かりました」
ニールスは、頷いた。
ノクスは、
それ以上何も言わず、
別の学生に声をかけに行った。
イレーネの研究室は、
静かだった。
窓から差し込む光が、
机の端を淡く照らしている。
中を覗くと、
イレーネは書類に目を通していた。
「……あら」
顔を上げる。
「第二皇子くん」
いつもの調子。
揶揄でも、皮肉でもない。
「どうしたの?
悪いことでもあった?」
「いえ」
ニールスは、
苦笑に近い表情を浮かべる。
「そんな大げさなことでは」
イレーネは、
それ以上は追及しなかった。
「座りなさい」
短く言って、
再び書類に目を落とす。
ニールスは、
言われるまま椅子に腰を下ろした。
少しの沈黙。
紙をめくる音だけが、
部屋に落ちる。
その静けさに耐えきれず、
ニールスは口を開いた。
「……少し、失敗をしまして」
イレーネの手が、
ほんの一瞬だけ止まる。
「失敗?」
「ええ」
言葉を選びながら、
続ける。
「ある人に、
嘘をついてしまったんです」
名前は出さない。
状況も、詳しくは言わない。
「よく見せたかったのか、
近づきたかったのか……」
自分でも、
はっきりしない。
「なぜ、そんなことをしたのか、
自分でも分からなくて」
イレーネは、
顔を上げない。
ただ、静かに聞いている。
「……あなたにしては、
珍しいわね」
ぽつりと、そう言った。
責める声ではない。
驚きに近い。
「そうでしょうか」
「ええ」
即答だった。
「あなたは、
そういうことをしない人だと思っていた」
一拍。
「だからこそ、
面白いとも思うけれど」
ニールスは、
少しだけ目を伏せた。
「私はね」
イレーネが続ける。
「あなたに、
そういう一面があること自体は、
悪いことだとは思わない」
むしろ、と言いたげな間。
「ただ――」
言葉を区切る。
「あなたは、
何が大事なのかを、
もう少しちゃんと見た方がいいかもしれないわ」
断定ではない。
助言とも言い切れない。
ただの、
観測結果のような言い方。
ニールスは、
すぐには答えられなかった。
その時、
ノックの音がした。
「ソル先生がお戻りです」
ノクスの声だった。
イレーネは、
軽く頷く。
「そう。
ありがとう」
ニールスは、
はっとして立ち上がる。
「では、
失礼します」
「ええ」
イレーネは、
もう書類に視線を戻していた。
廊下を抜け、
中庭へ出る。
馬車は、
すでに用意されていた。
ソルが現れ、
ニールスはすぐに駆け寄る。
自然な動きで、
手を差し出す。
支える位置。
距離の取り方。
考えるまでもなく、
身体が覚えている。
「ありがとう」
ソルは、
穏やかにそう言った。
「今日は、
良い講義だった」
「……恐縮です」
ニールスは、答える。
ソルが馬車に乗り込み、
ニールスは御者席へ回る。
手綱を取る。
馬車が動き出す。
トキアスの街並みが、
ゆっくりと遠ざかっていく。
高い窓から、
その様子を見下ろしている人影があった。
アリアだった。
研究室の奥。
書類を片付けるふりをして、
ふと、視線を外へ向ける。
石畳を進む馬車。
小さくなっていく影。
(……もう、行ったのね)
誰にともなく、
そう思う。
馬車の中に誰がいるのか、
確認する必要はなかった。
分かっている。
見送るつもりは、なかった。
偶然、視界に入っただけだ。
そう、言い聞かせる。
その頃、
馬車の御者席に座る男――
ニールスは、
手綱を引いていた。
一定の間隔。
一定の力。
道の起伏を、身体が覚えている。
ニールスは、
前を見たまま、
考えないようにしていた。
振り返らない。
確認もしない。
トキアスの城壁が、
視界の端で小さくなる。
(……これでいい)
自分に言い聞かせるように、
そう思う。
窓際で、
アリアは一歩、後ろへ下がった。
視界から、
馬車は消えた。
それで、終わり。
終わったことにする。
背を向け、
机へ戻る。
ペンを取る。
書類に視線を落とす。
けれど――
文字は、にじんで見えた。
馬車は、
街道へ出る。
風が、少し強くなる。
ニールスは、
無意識に背筋を伸ばした。
オサリアへ。
いつもの場所へ。
役割へ。
(……戻るだけだ)
そう、思う。
思おうとする。
同じ空の下で、
二人はもう、
互いを見ていなかった。
けれど、
同じ方向へ背を向けたまま、
同じものを切り離そうとしていた。
それが、
正しいのかどうか。
まだ、
誰にも分からないまま。




