泣いて幻想を斬る
講義は、滞りなく進んでいた。
座学は、ソルとノクスが担う。
天体の動きと理論。
計算式と観測の積み重ね。
ニールスは、
一歩引いた位置で資料を整え、
必要な時だけ前に出る。
それが、
いつもの役割だった。
「では、ここから先は――」
ノクスが、
視線を動かす。
「実技に移る。
農地の方だ」
学生たちが、
ざわめきながら動き出す。
「さて」
ノクスが、
軽い調子で続けた。
「第二皇子くん」
「……やめてくださいよ」
苦笑まじりの声。
訂正するほどの力は、ない。
ノクスは、
くすりと笑う。
「次の講義は、
君に任せるよ」
声は、
先ほどより落ち着いていた。
冗談ではない。
周囲も、
特に気に留めていない。
ニールスは、
小さく頷いた。
「……はい」
それ以上、
何も言えなかった。
ソルは、
その場で小さく首を振った。
「私は、ここまででいい」
年配の声。
無理をしない調子。
「外は、今日は少し暑い」
それだけ言って、
椅子に腰を下ろす。
ノクスは、
すぐに頷いた。
「承知しました。
では、こちらへ」
言葉遣いは、
自然と丁寧になる。
ソルは、
オサリアでも指折りの天文学者だ。
同年代の学長とも親しく、
今日は講義より、
その挨拶が目的でもある。
「先に行ってくれ」
ノクスが、
ニールスに視線を向ける。
「準備を頼む」
「……はい」
ニールスは、
道具を抱え、
教室を出た。
廊下に出たところで、
足が止まる。
正面に――
人影があった。
アリアだった。
逃げ場は、
なかった。
(まずい)
最初に浮かんだのは、
それだった。
謝らなければ。
説明しなければ。
そう思った瞬間――
「私を、騙していたんですね」
彼女の方から、
声が飛んできた。
穏やかな口調。
柔らかな笑顔。
けれど、
そこにあるのは、
はっきりとした怒りだった。
ニールスは、
息を吸う。
「……ごめんなさい」
言葉が、
先に出た。
「騙していたつもりは、
なかったんです。
ただ――」
「もう、結構です」
遮られる。
声は、
静かなまま。
「二度と、
私の前に現れないでください」
はっきりと。
迷いのない言葉。
その笑顔が、
逆に痛かった。
何も、
言い返せなかった。
理由を述べる時間も、
許されていない。
アリアは、
それ以上、何も言わない。
ただ、
視線を外し、
歩き出す。
残されたのは、
ニールスだけだった。
廊下の空気が、
やけに冷たく感じる。
呼吸が、
うまくできない。
何が、
間違っていたのか。
どこで、
取り返しがつかなくなったのか。
答えは、
浮かばない。
ただ――
彼女の背中が、
遠ざかっていく。
それだけが、
はっきりと、
胸に残っていた。
アリアが研究室に戻ると、
空気が、少しだけ落ち着いた。
扉が閉まる音が、
やけに大きく聞こえる。
アリアは、
そのまま机へ向かう。
書類を広げ、
いつもの位置に腰を下ろす。
指は動く。
視線も落ちている。
けれど――
中身は、ほとんど頭に入ってこなかった。
「……あら」
イレーネの声。
いつの間にか、
向かいの席に戻っている。
「何か、
悪いことでもあった?」
視線は、書類のまま。
顔を上げない。
「いえ」
アリアは、即座に答える。
「別に、何も」
「そう」
それだけ。
それ以上、
追及はなかった。
紙の擦れる音。
ペン先のかすかな音。
短い沈黙が、
机の間に落ちる。
しばらくして、
イレーネが、
ぽつりと呟いた。
「……あなたは」
独り言のような声。
「いつも、
何を見ているのかしらね」
アリアの指が、
一瞬だけ止まる。
「見えているものなのか」
一拍。
「それとも、
見えていないものなのか」
問いかけでも、
断定でもない。
ただ、
投げ置かれただけの言葉。
アリアは、
答えなかった。
答えられなかった。
イレーネは、
それ以上、何も言わない。
代わりに――
「……手が止まってる」
淡々と、
現実を指摘する。
「仕事中よ」
「……はい」
アリアは、
視線を落とし直す。
書類に向かう。
けれど、
胸の奥に残った言葉が、
静かに、沈んでいた。
場面が変わる。
廊下。
人の行き来は少なく、
足音が反響する。
その向こうに、
見慣れた姿があった。
テオドールだ。
アリアに気づき、
一瞬、躊躇ったあとで、
歩み寄ってくる。
「……アリア」
声は、
昨日よりも低い。
「ごめんなさい」
最初に、
そう言った。
「あなたの言う通りだった」
視線を逸らしながら、
続ける。
「本当に……
ただの使用人だったみたいだ」
確認したのだろう。
教授に。
周囲に。
「疑って、
本当にすまなかった」
アリアは、
一瞬だけ彼を見る。
それから、
小さく息を吐いた。
「……そう」
それだけ。
テオドールは、
少し肩の力を抜いた。
「分かってくれたなら、
それでいいんだ」
責める調子ではない。
安堵に近い声。
「これで、
終わりにしよう」
アリアは、
それに頷いた。
終わり。
そういうことにしておく。
それ以上、
掘り返す理由はない。
二人は、
それぞれの方向へ歩き出す。
アリアは、
足を止めなかった。
背筋も、
歩き方も、
いつも通り。
けれど――
胸の奥に残るものは、
きれいには片付かなかった。
終わったはずの話。
終わったことにしたはずの気持ち。
それらが、
まだ、どこかで
静かに、燻っていた。




