白日の下に
夜。
自室の灯りは、落としてあった。
窓際の棚に置かれた天球儀だけが、
わずかに月光を受けている。
アリアは、
その前に立ったまま、
しばらく動かなかった。
指先で、
そっと天球儀を回す。
星々が、
ゆっくりと巡る。
――晩餐会の夜。
冷たい空気。
満天の星。
低く、落ち着いた声。
そして、
来週、副学長の講義がある。
見てみるといい。
テオドールの言葉が、
静かに蘇る。
(……余計なことを)
そう思う。
思うはずなのに、
天球儀から目を離せない。
信じたいものは、
すでに決まっている。
けれど、
確かめずに済ませられるほど、
鈍感でもなかった。
アリアは、
ゆっくりと息を吐く。
「……来週になれば、分かることよ」
独り言のように、
そう言った。
言葉にしてしまえば、
それで終わりにできると思った。
天球儀から手を離し、
灯りを消す。
部屋は、
再び闇に沈んだ。
翌週。
副学長ノクスの講義の日が来た。
王立大学の廊下は、
いつもより人が多い。
学生だけではない。
教授、助手、来賓。
それぞれが、
それぞれの目的で集まっている。
アリアが歩くと、
自然と視線が集まった。
足取りは、変わらない。
背筋も、姿勢も。
ただ歩いているだけなのに、
空気が、わずかに動く。
高嶺の花。
そんな言葉が、
どこかで交わされる。
いつもと同じ風景。
違うのは、
アリア自身だけだった。
廊下の途中で、
声をかけられる。
「アリア様」
聞き覚えのある声。
振り向かなくても、
誰かは分かる。
(ーー没落貴族)
「今日は、
副学長の講義ですね」
にこやかな笑顔。
距離の詰め方も、
以前と同じ。
「ええ」
アリアは、
微笑みを返す。
完璧な角度。
完璧な間。
「ご一緒できると、
光栄なのですが」
(誰が)
胸の内で、
短く吐き捨てる。
けれど、
表情は崩さない。
「また、機会があれば」
それだけ言って、
足を進める。
相手は満足そうに頷き、
それ以上は追ってこなかった。
廊下の先に、
講義室が見える。
大きな扉。
重い空気。
アリアは、
一瞬だけ足を止める。
胸の奥が、
わずかにざわついた。
――見なければいい。
――でも、来てしまった。
天球儀。
晩餐会の夜。
テオドールの言葉。
すべてが、
ここへ向かっている気がした。
アリアは、
何もなかったように、
再び歩き出す。
背筋を伸ばし、
視線を前に。
いつも通り。
いつも通りの自分。
そう言い聞かせながら。
廊下の先で、
人の流れが、わずかに滞っていた。
講義室とは、逆の方向。
中庭へ続く通路。
視線の先に、
馬車が止まっているのが見える。
ーーオサリアの紋章。
御者席から、
先に人影が降りた。
整った動き。
慣れた所作。
扉の前に回り、
中に声をかける。
続いて、
年配の男が姿を現す。
オサリア王立大学の教授――
ソルだった。
その名は、
天文学に関わる者なら、
知らぬ者はいない。
その瞬間、
降りた男が、
自然に手を差し出す。
支えるための位置。
距離の取り方。
――使用人の動き。
皇子のものではない。
アリアは、
一瞬だけ息を止めた。
けれど、
距離があった。
人の流れもあり、
細部までは、よく見えない。
見間違い。
そう言い聞かせる余地は、
まだ、残っていた。
ほどなく、
講義の時間を告げる合図が鳴る。
考える間もなく、
人は動き出す。
大きな扉。
息を詰めるような静けさ。
アリアは、
背筋を伸ばす。
天球儀。
晩餐会の夜。
テオドールの言葉。
それらが、
絡まり合って、
ほどけない。
扉の前に立ち、
深く息を整える。
――落ち着きなさい。
そう、
自分に言い聞かせて。
講義室に入る。
段々に並ぶ席。
すでに集まった学生と教員。
視線が、
自然と前方へ向かう。
講壇。
そこに――
いた。
先ほどの男。
同じ服装。
同じ立ち位置。
教授の一歩後ろ。
道具を整え、
資料を手渡し、
必要な時だけ前に出る。
誰が見ても、
助手の振る舞い。
皇子ではない。
貴族ですらない。
――使用人だ。
心臓が、
強く脈打つ。
音が、
やけに大きく聞こえる。
視線を逸らそうとして、
できなかった。
逃げ場は、
もう、なかった。




