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5/12

薮は、つつかれる

 天球儀を受け取った、翌日。


 机に向かっても、

 どうにも集中できなかった。


 書類の文字が、

 頭に入ってこない。


「……あら、アリア」


 声がして、顔を上げる。


 イレーネ・クラウスは、

 すでに席に着いていた。

 手元の書類に目を落としたまま、

 ちらりとこちらを見る。


 ほんの一瞬。


「何か、いいことでもあった?」


 すぐに視線は、

 また紙の上へ戻る。


「……いえ」


 アリアは、

 少し間を置いて答えた。


「なんでもありません」


「そう」


 それ以上は、追及しない。


 イレーネ・クラウスは、

 トキアス王立大学の教授であり、

 副学長ノクスの妻でもある。


 アリアは、

 この人の前では、

 無駄な言い訳をしない。



 アリアにとっては、

 上司であり、

 油断のならない人でもあった。


 沈黙が落ちる。


 その沈黙に耐えきれず、

 アリアは口を開いた。


「……イレーネ先生」


「なに?」


「どうして、

 副学長と結婚されたんですか?」


 イレーネの手が、

 ほんの一瞬だけ止まる。


「どうして、ね」


 少し考える素振り。


「まあ、直感みたいなものかしらね。

 まだ、お互い今みたいな立場じゃなかった頃の」


「……イレーネ先生が?」


 思わず、

 声に出てしまう。


「意外ですね」


 イレーネは、

 くすりと笑った。


「そうかしら?」


「もっとこう……」


 言葉を選ぶ。


「いい生活ができるとか、

 条件を考えて決めたのかと」


 今度は、

 はっきりと手が止まった。


 イレーネは、

 ゆっくり顔を上げる。


 アリアを見る。


 逃げ場のない視線。


「あなたらしいわね」


 責めるでもなく、

 呆れるでもない。


「でもね」


 一拍。


「最後は、

 自分の直感を信じるのも、

 悪くないと思うわ」


 アリアの指が、

 止まっている。


 書類の上で、

 ペンが動いていない。


 イレーネは、

 それを見逃さない。


「……手が止まってる」


 淡々と、

 釘を刺す。


「仕事中よ」


「……すみません」


 アリアは、

 慌てて視線を落とした。


 書類に向き直る。


 けれど、

 胸の奥に残った言葉は、

 簡単には消えなかった。



 廊下は、静かだった。


 人の気配はある。

 けれど、足音は遠く、

 誰も急いでいない時間帯。


「アリア」


 呼び止められて、足を止める。


 振り向くと、

 テオドールが立っていた。


 少し、距離を保った位置。

 昨日までと、変わらない立ち方。


「昨日は、すまなかった」


 先に、そう言った。


「少し……興奮していた」


 言い訳を並べることはしない。

 ただ、事実だけを置くような声。


 アリアは、一瞬だけ視線を伏せる。


「私も」

 静かに、言った。


「強く言いすぎたかもしれません」


 それ以上、続けない。


 テオドールは、

 それで十分だと判断したようだった。


「来週、副学長の講義がある」


 話題が、変わる。


「いつも通りなら……

 その使用人も、顔を出すはずだ」


 アリアの表情を、探らない。

 確認もしない。


「見てみるといい」


 それだけ言って、

 彼は、廊下を歩き出した。


 引き止めない。

 振り返らない。


 足音が、遠ざかる。




 アリアは、

 その場に残った。


(……嘘よ)


 そう思う。


 テオドールの。

 ただの、嫉妬。


 そう、片付けられるはずだった。


 けれど――


 副学長。

 講義。

 使用人。


 具体的な言葉が、

 胸の奥に、沈んでいく。


 確かめなければいい。

 見なければ、済む。


 それでも、

 来週という言葉が、

 頭から離れなかった。


 アリアは、

 ゆっくりと歩き出す。


 足取りは、

 いつもと変わらない。


 けれど、

 胸の内だけが、

 静かに、揺れていた。


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