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魔の差す、黄昏

 イレーネの研究室の窓から、

 やわらかな光が差し込んでいた。


 机の上には、

 処理待ちの書類がいくつも積まれている。

 分類済みの束。

 未確認のもの。

 返却用の写し。


 どれも、

 見慣れた光景だった。


 アリアは、

 その一枚一枚に目を通しながら、

 淡々と印を付けていく。


 迷いはない。

 手も止まらない。


 向かい、

 クロエは、

 書類を整えながら、

 覚え紙を差し替えていく。


「……これで、

 ひと通り終わりですね」


 クロエが、

 小さく息を吐く。


「ええ」


 アリアは、

 視線を落としたまま答える。


「午後には提出できるわ」


 それだけ言って、

 次の書類へ移る。


 研究室の奥では、

 イレーネが黙々と筆を走らせていた。


 会話に加わることはない。

 けれど、

 部屋の空気を把握していないわけでもない。


 三人分の呼吸が、

 同じ速度で流れている。


 それが、

 この研究室の日常だった。


「オサリアからの追加資料、

 こちらにまとめておきました」


 クロエが、

 一束を差し出す。


「ありがとう」


 アリアは、

 短く受け取り、

 すぐに目を通す。


 内容を確認し、

 問題がないことを確かめると、

 何事もなかったように戻す。


「……順調ですね」


 クロエが、

 ぽつりと言った。


「何が?」


「全部、です」


 曖昧な言い方。


 アリアは、

 一瞬だけ考えてから答える。


「そう見えるだけよ」


 それ以上は、

 言わなかった。


 イレーネのペン先が、

 かすかに音を立てる。


 けれど、

 顔は上がらない。



 少し間を置いてから、

 イレーネが口を開いた。


「……アリア」


 名前だけを呼ぶ。


「この書類、

 法務局まで届けてきてくれる?」


 机の端に、

 一束の書類を置く。


 封はしてあるが、

 急ぎだと分かるまとめ方だった。


 アリアは、

 ちらりとそれを見る。


「今日中ですか?」


「ええ。

 できれば、夕方までに」


 特別な意味はない。

 いつもの頼み方。


「分かりました」


 アリアは、

 迷いなく書類を手に取った。


 椅子を引く音。

 立ち上がる気配。


 クロエが、

 少しだけ顔を上げる。


「お気をつけて」


「ええ」


 短く答え、

 アリアは研究室を出ていく。


 扉が閉まる音が、

 いつもより、

 わずかに遅れて響いた。



 イレーネは、

 ようやくペンを止める。


 何も言わない。


 ただ、

 今しがた置いた書類の束を、

 一度だけ見つめてから、

 再び作業に戻った。


 アリアは、

 書類を抱え、

 廊下を進む。


 その途中、

 ふと、遠くに人影が見えた。


 回廊の向こう。

 行き交う人の合間に、

 見覚えのある立ち姿。


(……ニールス)


 一瞬だけ、

 目が合った――

 気がした。


 けれど、

 確かめる前に、

 アリアは視線を逸らす。


 それ以上、

 振り返らない。


 今は、

 用事を済ませるだけだ。



 トキアス王立大学の構内、

 石造りの建物の一室で、

 ニールスは書類に目を通していた。


 署名。

 確認。

 押印の位置。


 内容は地味だが、

 抜けは許されない。


「この件ですが」


 向かいに座る役人が、

 指で一箇所を示す。


「次回の評議会までに、

 こちらの整理が必要でして」


「分かりました」


 ニールスは、

 即座に答える。


「こちらで引き取ります」


 言葉に迷いはない。


 書類を受け取り、

 必要な項目を頭の中で整理する。


 今後の予定。

 移動の段取り。

 関係者への連絡。


 どれも、

 彼にとっては日常だった。



「相変わらず、

 手際がいいな」


 横から声がした。

 ノクスだった。


「この調子なら、

 もう講師どころか、

 教授席を用意した方が

 早いんじゃないか」


 冗談めいた口調。

 だが、半分は本気だ。


 ニールスは、

 書類から目を離さずに答えた。


「……自分は、

 あくまで使用人です」


 淡々と。


「肩書きが増えれば、

 やることも増えますから」


 ノクスは、

 小さく息を吐く。


「……君は、

 もう少し

 自分がどう見られているかを

 自覚した方がいい」



 ノクスの言葉のあと、

 ニールスは残っていた事務処理に戻った。


 書類の確認。

 署名の照合。

 明日以降の段取り。


 どれも、

 今すぐでなくてもいいものばかりだ。

 だが、後回しにすれば、

 結局どこかで滞る。


 気づけば、

 窓の外の光が傾いていた。


(……遅くなったな)


 書類を束ね、

 椅子を引く。


 廊下に出ると、

 人の気配は少ない。


 もう、

 講義の時間帯ではない。


 ニールスは、

 歩きながら無意識に歩調を速めていた。




 厩舎で馬を受け取り、

 ニールスは鞍に跨った。


 日はすでに傾いている。


 ――遅くなったな。


 小さくそう思う。



 手綱を引き、

 城門へと続く道へ馬を向けた。


 その先は、

 オサリアへ通じている。


 その頃――


 アリアは、

 王都の一角を歩いていた。


 法務局での用事は、

 滞りなく終わった。


 書類は渡した。

 確認も済んだ。


 あとは、

 戻るだけだ。


 日はまだ沈みきっていない。

 けれど、

 街路の影は長くなり、

 人通りもまばらになっている。


(……思ったより、遅くなったわ)



 一瞬だけ、

 そう思った、その時。


 ――気配。


 足音ではない。

 視線でもない。


 ただ、

 記憶に引っかかる、あの感じ。


 アリアは、

 歩みを緩めずに、

 視線だけを走らせた。


 建物の影。


 そこから、

 一人の男が姿を現す。




「……ああ」


 低く、

 どこか馴れ馴れしい声。


「やはり、

 お一人でしたか」


 その声で、

 分かった。


(……また、この男)


 以前も。

 王都で。

 用もないのに、

 距離を詰めてきた。


 貴族の名を名乗り、

 こちらの反応を探るような視線。


 ――没落貴族。


 内心でそう切り捨てた、

 あの男だ。


 アリアは、

 足を止めた。


 表情は、

 崩さない。


「急いでおりますの」


 はっきりと。


「道をお譲りください」


 男は、

 薄く笑った。


「相変わらず、

 強気だ」


 一歩、

 距離を詰めてくる。


 アリアは、

 一歩、引いた。


「ご用件がないのなら――」


 その瞬間、

 腕を掴まれた。


「――離しなさい」


 声が、

 低くなる。


 抵抗する。

 想像以上に強い力。


(……っ)


 男は、

 力を緩めない。


「前も、

 こうやって睨んでいたな」


 耳元で、

 囁くような声。


 アリアの中で、

 何かが切れた。


 思考より先に、

 言葉が出る。


「……没落貴族が」


 言った瞬間、

 自分で分かる。


 ――しまった。


 男の目が、

 はっきりと変わった。


「……ほう」


 声が、

 冷たくなる。


「今、

 何と言った?」


 アリアは、

 言い直さなかった。


 その代わり、

 強く腕を振り払おうとする。


「やめ――」


 口を塞がれた。


 乱暴に。

 力任せに。


 声は、

 外に出ない。


 男は、

 そのままアリアを引き寄せ、

 建物の影へ押し込んだ。


 背中が、

 壁に当たる。


 逃げ場はない。


 足が、

 地面から離れる。


 次の瞬間、

 視界が揺れ――


 アリアは、

 地面に押し倒された。


 石の冷たさが、

 背中に伝わる。


 息が、

 詰まる。


 男の影が、

 覆いかぶさる。




 ――夕暮れの街は、

 何も知らないまま、

 静かに色を落としていた。


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