胸中、波立ちて
晩餐会が終わり、
トキアスに戻ってから、最初の出勤日だった。
研究室の空気は、いつもと変わらない。
書類の匂い。
紙をめくる音。
窓から差し込む、少し淡い光。
クロエは、椅子に腰を下ろしたまま、
小さく息を吐いた。
「ああいう世界は……」
言いかけて、少し間を置く。
「私には、合っていないかもしれません」
声は控えめだったが、
迷いはなかった。
アリアは、机の上の書類から目を離さずに答える。
「疲れていたようだものね」
淡々とした口調。
「まあ、慣れよ、慣れ」
それで話は終わり、
のはずだった。
一拍。
アリアは、手を止めずに続ける。
「それと……」
わずかに、間を取る。
「オサリアの使用人と、
ずいぶん楽しそうに話していたわね」
クロエが、顔を上げる。
「……え?」
一瞬、考えてから気づく。
「ニールスさん、ですか?」
アリアは、返事をしない。
否定もしない。
その沈黙が、答えだった。
「……あの男には、気をつけなさい」
視線は、書類のまま。
「嘘つきだから」
言葉は短い。
感情は、乗っていない。
クロエは、すぐには返さなかった。
少し考えてから、慎重に口を開く。
「……私は、
そんな風には見えませんでした」
声は、柔らかい。
「とても、いい人でしたし」
アリアのペン先が、わずかに止まる。
クロエは、それに気づかないふりをして続ける。
「何か、事情があったんじゃないですか?」
一拍。
「……それに」
言葉を選ぶように、間を置いて。
「アリアさんは、
どうしてそんなに
ニールスさんのことを
気にしているんですか?」
研究室の空気が、ほんの少しだけ張る。
アリアは、ようやく顔を上げた。
クロエを見る。
けれど、睨むわけではない。
「あの使用人のことなんか、
気にしていないわよ」
即答だった。
「ただ――」
一拍。
「あなたが、心配なだけ」
それだけ言って、
再び視線を落とす。
クロエは、何も言えなかった。
反論も、納得もできない。
ただ、
その言葉のどこかに、
違和感だけが残る。
「……」
沈黙が、机の間に落ちる。
ペンの音が、再び動き出す。
研究室の奥では、
イレーネが黙々と書類に目を通していた。
会話に割り込むことも、
顔を上げることもない。
ただ、
ペンを走らせる速度だけが、
ほんの一瞬、変わる。
それだけで、
十分だった。
いつも通りの研究室。
いつも通りの会話。
けれど、
その奥に、
互いに触れないままの何かが、
確かに残っていた。
王城の一角。
窓から差し込む光は、
昼前の静かな明るさだった。
ニールスは、
手元の書類を整えながら口を開く。
「本日の公務ですが」
淡々と、要点だけを拾う。
「午後は評議会への顔出し。
その後、北部からの使節との面会。
夕刻には――」
「はいはい」
遮るように、
ユリウスが椅子に深く腰を沈めた。
「面倒くさいな」
心底、そう思っている声音。
「もうさ、
お前が全部やっといてくれよ」
冗談めかしているが、
半分は本音だ。
ニールスは、
表情を変えずに続ける。
「それができれば、
話は簡単なのですが」
一拍。
「国王陛下と皇太子殿下から、
“殿下がきちんと公務をなさるよう、
しっかり監視するように”と
言われていますので」
ユリウスは、
露骨に顔をしかめた。
「……監視って」
「正確には、
“補佐”ですが」
「言い方の問題だろ、それ」
ユリウスは、
投げやりに手を振る。
「はいはい、
分かった分かった」
「逃げません。
やりますよ、やります」
言葉とは裏腹に、
やる気は薄い。
ニールスは、
それ以上は言わなかった。
言っても、
無駄だと分かっている。
一度、
書類を閉じる。
すると、
ユリウスがふと、
視線を上げた。
「それはそうと――」
声の調子が、少し変わる。
「お前さ」
ニールスは顔を上げる。
「今のままで、
いいのか?」
問いは短い。
けれど、曖昧だ。
「……何が、ですか?」
ユリウスは、
肩をすくめた。
「全部だよ、全部」
具体的な名は出さない。
けれど――
含まれているものは、明白だった。
使用人という立場。
オサリアとトキアスの間。
学問と現場。
そして――
誰かの顔。
ニールスは、
すぐに言葉を返せなかった。
何を答えても、
どこかが嘘になる。
ユリウスは、
その沈黙を責めない。
むしろ、
納得したように息を吐く。
「まあ」
少し、軽い声に戻る。
「これは、
俺がどうこう言うことじゃないか」
立ち上がり、
窓の外を一瞥する。
「選ぶのは、
お前だしな」
それ以上は、
踏み込まなかった。
ニールスは、
小さく頭を下げる。
「……はい」
それだけだった。
部屋には、
再び静けさが戻る。
残ったのは、
片付けきれない問いだけ。
ニールスは、
書類を手に取りながら、
視線を落とした。
答えは、
まだ形にならない。
けれど――
問われたことだけは、
はっきりと胸に残っていた。




