薔薇に蝶来たらず
音楽は、ゆったりとした拍を刻んでいた。
踏み込み。
回転。
距離を保ったまま、二人は言葉を交わす。
「……やっと」
アリアが、わずかに顎を上げる。
「やっと、
本物の第二皇子殿下に
お会いできましたわ」
言い方は丁寧だった。
けれど、
そこに含まれた一語が、はっきりしている。
――本物。
ユリウスの口元が、
ほんのわずかに歪んだ。
(なるほど)
腑に落ちる。
ニールスが、
理由も言わずにトキアスへ向かったこと。
妙に落ち着かない様子だったこと。
(……そういうことか)
音楽に合わせて、
一歩、距離を詰める。
「いい男だっただろう?」
軽い調子。
世間話のように。
アリアは、
一瞬だけ視線を逸らした。
「……使用人のことなど、
どうでもいいでしょう」
即答だった。
感情は伏せている。
だが、
距離を取る意志だけは明確だった。
ユリウスは、
その反応を楽しむように笑う。
「そうか」
肩をすくめる。
「彼が興味を持った女性だから、
どんな方かと思ったんだが」
一拍。
「どうやら、
見込み違いだったようだな」
音楽は続いている。
足運びも、乱れていない。
それでも――
「……どういう意味ですか?」
アリアの声が、
わずかに低くなる。
感情が、
完全には隠しきれていない。
ユリウスは、
それを正面から受け止めず、
視線を流した。
「いや」
軽く、はぐらかす。
「こっちの話だ」
それ以上は踏み込まない。
一曲分の距離。
それ以上でも、
それ以下でもない。
二人は、
何事もなかったように踊り続けた。
その少し離れた場所。
壁際に設えられた
小卓で、
クロエはグラスを置いた。
「……ふう」
小さく息を吐く。
緊張が抜けたというより、
気疲れだった。
その背後から、
落ち着いた声がかかる。
「お疲れのようですね」
振り向くと、
ニールスが立っていた。
いつもの、
控えめな距離。
「……あ」
クロエは、
少し驚いたように目を見開く。
「ニールスさん」
「名前を覚えていただいて、
光栄です」
穏やかな言い方。
作った感じはない。
クロエは、
少し笑った。
「よくこちらの大学にも
いらっしゃいますし」
言葉を選びながら続ける。
「イレーネ先生の部屋にも、
よく出入りされていますよね」
「ええ」
ニールスは頷いた。
「特に、
イレーネ先生とノクス先生には
お世話になっています」
それだけ言って、
それ以上は付け加えない。
クロエは、
グラスを指先で回しながら、
一瞬、迷う。
それから、
思い切ったように口を開いた。
「あの……」
視線を上げる。
「アリアさんと、
何かあったんですか?」
言葉は柔らかい。
探るような調子。
「……なんとなく、
そんな気がして」
ニールスは、
答えなかった。
すぐには。
視線が、
自然と動く。
フロアの中央。
アリアと、
ユリウス。
完璧な距離。
完璧な所作。
「……」
それから、
低く、言った。
「彼女に、
嘘をついてしまって」
それ以上は、
語らない。
クロエも、
それ以上は聞かなかった。
ただ、
二人の間に流れる沈黙だけが、
音楽の裏で、
静かに続いていた。
音楽が、
ゆるやかに終わりへ向かう。
一曲分の時間が、
自然に区切られた。
ユリウスは、
動きを止めると、
軽く一礼した。
「美しい所作だ。
舞踏も、お上手だ」
褒め言葉は、
過不足なく整っている。
「ありがとうございます」
アリアは、
感情を乗せずに返す。
それ以上は、
踏み込まない。
ユリウスは、
わずかに口元を緩めた。
「素敵な時間を、
ありがとうございました」
そう言って、
彼は一歩、距離を取る。
ためらいはない。
次の相手へと視線を移し、
すでに別の女性へと手を差し出していた。
去っていく背中。
その姿を見て、
アリアは、はっきりと理解した。
(……この人は)
自分に、
靡かない。
試すことも、
期待することも、
最初からしていない。
一瞬の判断。
けれど、
迷いはなかった。
アリアは、
自然に視線を巡らせる。
人の輪。
談笑の声。
グラスのきらめき。
その中で――
ニールスとクロエが、
言葉を交わしているのが見えた。
距離は近すぎない。
けれど、
柔らかい空気。
アリアは、
それを黙って見ていた。
感情は、
表に出ない。
ただ、
何かが、
静かに胸の奥で動いた。
音楽は、
次の曲へ移ろうとしている。
夜は、
まだ続く。
けれど――
それぞれの位置が、
少しずつ、
はっきりし始めていた。




