目の前、千里
馬車が止まり、扉が開いた。
先に降りた侍女に続き、
アリアが地面に足を下ろす。
その瞬間、
迎えに出ていた男が、
一歩前に出た。
ニールスだった。
「ようこそ、オサリアへ」
声は落ち着いている。
表情も、崩れていない。
ただ――
ほんの一瞬だけ、
視線が交わった。
確かに、合った。
そう感じただけで、
言葉はなかった。
「こちらへどうぞ」
それ以上の間を与えず、
ニールスは踵を返す。
案内役としての歩幅。
業務としての距離。
アリアは、
何も言わずにその後に続いた。
廊下を進む間、
会話はない。
石床に響く足音だけが、
一定のリズムで続く。
ニールスは、
前を向いたまま歩きながら、
胸の奥にわずかな引っかかりを覚えていた。
――気まずさ。
理由は分かっている。
だからこそ、
振り返らない。
仕事だ。
今日は、それだけだ。
扉の前で足を止め、
振り向く。
「こちらが、控え室です」
淡々と告げて、
扉を開く。
アリアは、
一礼だけして中へ入った。
言葉は、交わされなかった。
そのまま、控え室に通された。
テーブルの上に、
資料が広げられた。
アリアは、
迷いなくそれを確認していく。
ニールスは、
説明を続けながら、
視線を落とす。
――ペン先。
削られ、
丸くなったままのそれ。
交換もできただろう。
新しいものも、用意できたはずだ。
それでも、
使い切るまで使う。
彼は、
何も言わなかった。
案内を続ける。
だが、
その小さな事実だけは、
はっきりと記憶に残った。
時間を告げる合図が入り、
人の流れが、ゆっくりと動き始めた。
「こちらへ」
ニールスが、先に立つ。
控え室を出て、長い廊下を進む。
足音が重なり、やがて大講堂の扉が見えてくる。
天井の高い空間。
石造りの壁。
すでに多くの人が集まり、低いざわめきが満ちていた。
ニールスは、振り返らずに言う。
「席はこちらです」
簡潔な案内。
アリア、イレーネ、クロエは、
それぞれ指示された位置へ向かう。
役割に応じた距離。
自然に決まっている配置。
全員が持ち場に着くと、
ざわめきが、次第に収束していった。
やがて――
前方の演台に、人影が立つ。
トキアス王立大学の学長だった。
形式的な挨拶。
学術交流の意義。
両国の長年の関係。
言葉は淡々としている。
続いて、
オサリア側の代表が紹介される。
「本日は、
王家を代表して、
第二皇子殿下にもご臨席いただいております」
軽いどよめき。
ユリウスは立ち上がらず、
席に座ったまま、軽く会釈した。
アリアは、
その位置を確かめるように、
一瞬だけ視線を走らせた。
(……本物だわ)
それ以上、考えない。
ニールスは、
すでに講堂の端へ下がっていた。
進行の確認。
資料の受け渡し。
合図。
裏方として、
静かに動いている。
アリアは、
一瞬だけ、その姿を視界の端で捉えた。
すぐに、
視線を前へ戻す。
講義は、
淡々と進んだ。
イレーネは、
落ち着いた口調で理論を示す。
無駄がない。
説明は簡潔で、
聴衆の理解を確実に拾っていく。
続いて、アリア。
姿勢を崩さず、
淡々と資料を示しながら話す。
感情は見せない。
けれど、
言葉の選び方に、迷いがない。
聴衆の反応を、
正確に捉えている。
クロエは、
少し緊張した様子だった。
資料を手渡す指先に、
わずかな硬さがある。
それでも、
視線は逸らさず、
最後まで役目を果たした。
一つ、深く息を吐く。
それだけで、
十分だった。
やがて、
最後の講義が終わる。
拍手は控えめだが、
確かなものだった。
学術交流会は、
無事に幕を閉じた。
再び、
控え室へ戻る。
ニールスが、
先に立って扉を開けた。
「お疲れ様でした」
業務的な声。
イレーネは、
立ち止まり、
一言だけかける。
「いい進行だったわ」
ニールスは、
小さく頷く。
「ありがとうございます」
クロエは、
軽く会釈した。
言葉はない。
けれど、
目には安堵があった。
アリアは――
一度も、
ニールスを見なかった。
視線を落としたまま、
控え室の中へ入っていく。
背筋は伸びている。
歩き方も、いつも通り。
ただ、
そこにある距離だけが、
はっきりしていた。
ニールスは、
その背中を追わなかった。
扉を閉め、
静かに一歩、下がる。
役目は、
終わっている。
大講堂のざわめきは、
すでに遠い。
残ったのは、
言葉にならなかったものだけだった。




