第1章-23 インダス川の主 -ガンダーラ国スワンナヴァンナ
プシュカラヴァティの街から五日、Suvaṇṇavaṇṇa (金色の街)。
目線ほどに上がった陽光にはまだ赤みが残り、冷気が心地よく感じた。
ベージュ色の土壁で揃った街並みが、朝靄の中からかすかに見えてきた。
ここから首都タクシラまで、およそ十ヨジャナ。
慧は、早朝に街の入口の辺りにある扉の開いた民家の前に立ち、いつものように呼吸を五十回数える。
その家からは、人が出てくる様子がなかった。
しばらく行くと、ザッ、ザッと竹箒が土を掃く音がした。
くすんだベージュ色の土壁の家の前を、竹の箒で掃いていた老女が、箒を壁に立てかけてから慧に向かって手を合わせた。
すると老女は家の中に戻り、まだあたたかい赤豆の塩ゆでを、小さな椀のような器にひと握りほど盛ってきて、慧の手のひらに移すように布施をした。
また、家の前に長椅子を出して座っていた家主は、家に入ると酸粥を器に入れて出て来た。
慧はその酸粥をさっと飲み、器を施主に戻してその場を去った。
白米の飯(サーリ米)を受けたのは五日前のプシュカラヴァティでの托鉢までだった。
その後は、街道沿いに点々としている集落の農家や鍛冶職人の家で、良くて豆と大根、たいていは酸粥と豆の塩煮ばかり。
慧にはぜんぜん物足りず、夕暮れ時になるとコンビニの青だの赤だのミドリの灯りが恋しくなり、スパム玉子おにぎり、博多焼き明太サワークリームのピザロール、そしてローストビーフ&テリヤキ玉子サンドのパッケージを開いた瞬間のパンとバターとビーフの香りを思い浮かべては、腹をぐぅぐぅいわせていた。
(汝よ、空腹か?)
(あたりまえでしょう。恵んでもらえるのは、酸粥とせいぜい豆か野菜がほんの一握りしかないんですから)
(santuṭṭhi)
(サントゥッティ?なんすかそれ?)
(知足)
(知足って満足のことですよね?)
(……愚人!)
(ハイーィッ!!)
(似て非也)
(どのような違いが…)
(知足、即ち眼前の物で事足る)
(えーと、つまりそれはどう言う……)
(布施を得られぬ家の前、その時の呼吸を回想す。)
(……)
ーぐぅ~ー
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シンドゥ川(インダス川)上流にあたるジェルマードという城壁にかこまれた街を抜けると、すぐに支流のウィタスタ川が見えてきた。
乾季だというのに、ヒマラヤ山脈から湧き出る水で流れに勢いがある川の早瀬を渡りながら、何度も何度も脚を滑らせて、危うく流されそうになった。
ーザー ザ〜ー
「ウップッ」
いや、最後は実際に流されていた。
その瀬尻の真ん中にあった大きな丸い岩の後ろでは、とぷんとぷんという不気味な音のする渦流に巻き込まれ、ぐるぐると独楽のように川に弄ばれた。
右側に大きく曲がったワンドまで流されてくると、川の音が止み、かすかだが生臭い匂いのする静寂の深い淵になっていた。
薄緑色の水の奥には黒い川底が透けて見えるが、潜ってもたどり着ける深さではなさそうだった。
慧は、その淵の岩根によじ登って、どうにか向こう岸に上がった。
ふと振り返って見下ろすと、淵の中には黒く大きな魚影が水面近くに浮いていた。
それはグルグル回りながら、何かを探すような気配を見せていた。
頭の大きなその魚影は、慧の身長の倍くらいあった。
(あれは何でしょうね)
(初めて見る。
……昔、マドラからガンダーラに来た猟師の話では、「シンドゥ川の深みに大鯰あり、山羊を餌食す」と言っておった)
(ってことは、もしかして....)
(さよう、我が身を餌食せんが故)
(ガーン!)
(これって、もはや遊行のレベル超えてると思うんすけど)
(生死とは表裏一体。大鯰の餌食。それもまた知足)
(ゲー!やってらんねっす)
(諧謔を弄するはこれまで)
(いやジョーダンっつうか、ガチのマジっすから)
(今夜、その先の山麓の森にて過ごす)
(聞いてねえし。へーい、了解しましたぁ)
川から半ヨジャナほど先には、小高い山々が南北に伸びていた。
その森の中に入ると、外から見たときよりも鬱蒼と草が生い茂っていた。
慧の腰のあたりまである草むらをかき分けて進み、ようやく大きな樫の下に来ると、そのあたりだけは何故かポッカリと露地が剥き出しになっていた。
(よし、ここで過ごす)
(はい)
慧は、夕方の日課の立行を始めた。
人間、慣れるというのは良いもので...
毎日、同じように修行生活していると、静止行の立行も沈黙行の瞑想もそれほど苦ではなくなってきた。
余計な情報が何ひとつ入ってこない異世界で、鳥や虫たち、或いは風や雨、雷といった自然の声を聞き、草や森の匂いを嗅ぎながら空っぽの時間を過ごすのは悪いものではない。
金銭的な対価を伴わぬ仕事?
世間の常識的な生き方って何だ?
慧は、そんなことを考えるようになっていた。
-カナ カナ カナ カナ カナ-
夕方に鳴く蝉の声が響き、太陽が西の山の端に差し掛かった。
何かが、東の方角にある山の斜面から降りてきて、こちらに近づいてくるような気配がした。
それが近づくにつれて、草むらをかき分けて進むときに出るサササッ、サササッという音だとわかった。
慧が、眼を開けてその音のする方向を確かめようと振り返ったとき、夕焼けの斜光を受けた草むらの上から、その音の主が顔を上げてこちらを睨んだ。
-フンフンフン-
―ゥグォッ!ガルルルル~!―
「ゲッ!続いて、トラ~!?」
(後半に続く)
【脚注】
◯yojana
古代インドの距離単位。
Ashokaの碑文(Major Rock Edict XIII)に用例あり。
換算値は諸説あり(約7–15km)。
本作では便宜上、1ヨジャナ=約8kmとして計算。
◯ワンド
河川や湖、海において本流や岸線から入り江状に深くえぐれ、池のようになっている地形を指す。
◯ベンガルトラ
当時は森林が広大で、ガンジス平原全域に分布していたトラは、人里にも頻繁に出没したとされる。仏典にも「虎に襲われる修行者」の話が認められ、現代より生息域ははるかに広かった様子が伺える。
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