第1章-19 托鉢 ・乞食の行 -ガンダーラ国プシュカラヴァティ-
ガンダーラ国プシュカラヴァティ。
夜明け前に森を出て、日の高さが目線よりも少し上に見上げるくらいの頃、ようやく最初の目的地であるプシュカラヴァティに到着した。
(家の前に立つ。沈黙。呼吸を五十回数えよ)
(・・・・)
(食を得るか、断食か)
(はいぃ~)
街道沿いには公共用のghaṭaに水を汲みに来ている女性が10ダヌスもの長い列を作り、農作業をする男たちは牛を引き連れて歩いてゆく。
この辺りの畑には麦、稗、豆類といった穀類などが多く、米を作っている農家はもう少し南下したスワート川寄りに住んでいる。
倉庫が3つ続いている前では、露店が十ばかり集まって朝市を開いている。
新鮮なヤム(タロイモ)、れんこん、大根、人参(原種)などの根菜専門の店、
生姜とウコンだけを扱う店、
ナス、オクラ、きゅうり、冬瓜やマクワウリ(原種)、
青菜、ニガウリのほか、バナナの花と茎を並べたものなどなど、、
様々な農産物を広げた露天商の主が、ごった返すガンダーラ人の主婦たちの前に座ってニコニコしながら淡々とやり取りをしているが、眼は鋭くクルクルと動いていて隙がまったくない。
その横を見ると、ヤギの乳を温めて飲ませる店がある。
その店の道を挟んだ向かいでは、粟・小麦の生地でロティを焼いている店から、三つ並べた石製の丸い焼き板の上で焦げたギー、、、
なんとも美味そうな香りが漂う。
どちらの店先にも人だかりがあり活気に満ちている。
そのロティ焼きのすぐ横では、湯気の上がるヤギミルクにロティを浸しながら食べる白いヒゲの老人が3人。
その3人の頭にはターバンが巻かれ、左の指には各々が大きなルビーやエメラルド等、古くなって身体の一部のような指輪をはめている。
車座になって乾いた地面に座って他国の話に興じているらしい。
そして、家並みの合間にある空き地では、中央アジアのバクトリアからアラビア半島に至る交易ルートから来るキャラバンのラクダが、街道側に設けられた柵の中で口をモゴモゴと動かしていた。
“Āma bho, mudga-dvaṃ pattaṃ, eka māṣakā.”
当時、庶民のあいだで主に使われた通貨は、いわゆる刻印銀貨(パンチャマルカ銀貨)の kahāpaṇa ではなく、銅やその合金・樹脂、あるいは硬木製の補助単位の少額通貨で、価値は1/16 カハーパナに相当する māṣaka だった。
シュードラ(下層民)階級の日雇い作業(荷運び人・河川港湾労働)の労働者の賃金は1日に2マーシャカ。
豆と野菜を買って食べるのが精一杯で、肉はもちろんのこと、米を普通に炊いて食べることもできない。
華やかで活気溢れる街の景色は、つい先日まで厄介になっていたスワート谷のジャーピタの炭焼小屋とは、まるでテンションが異なる異世界のように、慧には見えた。
(この家から)
(は~ぁぁぁ~ぃ)
乞食の行、托鉢の始まり。
慧が立ち止まり呼吸を数え終えても、家の扉は固く閉ざされたまま開くことはなかった。
足もとに目を落とした。
すると、今までは街の賑やかさに隠れていたかのような地面に気がついた。
(なんで、土がこんなに赤いんだろう、、、)
見たことのない赤い土。
それが、足もとからこの路が霞むほどの遠いところまでずっと続いていた。
慧は赤い路を左一歩、ふたたび踏み出した。
BGM:
"Robinson Crusoe the art of Noise"
(後編に続く)
【脚注】
◯10ダヌス
1ダヌス(danus)は約1.8m
故に、約18メートルほどの行列を作っている。
古代インドの井戸は、ジュートや籐などで編んだ目の細かい籠に縄をくくりつけ、井戸水を掬っていたとみられ、この方法は現代にも残る。
◯生姜とウコンを扱う店
インドネシアのジャワ島、バリ島などには、生姜とウコンの専門店があり、それぞれ量り売り。
また、生姜は日本の生姜とは異なる、原種に近い細くて辛味の強い生姜。主にスープや煮込みのスパイスと出汁に使う。
◯緑豆(mugga )は現在のグリーンピース。
◯バナナの花と茎
花は灰汁抜きしてからサラダなど、茎は煮込みスープの具にする。
バナナは木になると思われているようだが、実際は草であり、茎は葉の根元が集まった状態で食べることができる。
ヤンゴンの街で食べることができる名物モヒンガーは、このバナナの茎が必ず入っていて、濃厚な汁によく煮込んで柔らかくなったバナナの茎は非常に美味。しかし、中部のマンダレイ周辺や東側のシャン州に入ると、モヒンガーはサラッとした汁麺になって味も形態も別物になる。
◯ロティ(パラータ)
現在、東南アジアのマレーシアやインドネシア、ミャンマーなどで売られるものは後代のスタイル。
バナナを薄切りして、生地に巻き込んで焼いたり、焼いた後にチョコレートソースやチーズを乗せたり、様々なバリエーションで提供される。
◯市場価格の参考
米・大麦(1日分)2~4 māṣaka
乾燥豆・レンズ豆(1日分)1~2 māṣaka
ギー(少量)4~6 māṣaka
魚(小)2~3 māṣaka
肉(ヤギ・羊 少量)6~10 māṣaka
◯賃金
職人2~3マーシャカ
熟練工の場合には一般職人の2~3倍
軍人の場合には歩兵1カハーパナ/月
戦象兵3カハーパナ/月
◯托鉢
現在のミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなどの東南アジアの上座部仏教僧院、いわゆるテーラワーダ仏教の寺院では、毎日午前中に大きな鉢を持って托鉢をする。
托鉢をする際には服装の戒律があり、その独特のコスチュームを自分で作れないかぎり、その比丘は托鉢に出られないが、実際には、幼少の頃に沙弥で出家しているので、そのような比丘は居ない。
ヤンゴンの大きなパーリ教学寺院では、朝4時にトン(太い丸太のドラム)を打ち鳴らして街に合図を出してから院内全員で托鉢に出る。
その数、およそ150名。
先頭にはコーウィン(Samanera)がチージーと呼ばれる大きな平たい真鍮製の鐘を打ち鳴らしてゆき、托鉢の列が近いことを知らせる。
鉢一杯に集められた大量の白飯は100L程入る竹籠に移す。2時間で竹籠10~20杯、その半分は僧院内で消費して、残りはパジェロの屋根に積んで貧困地区へ運び、無償配布する。
つまり、
都市部で集められた布施米は、僧院内で消費される分を除き、一部が郊外の貧困地域へ移送される。
布施は善業として理解され、僧院は托鉢を目的とする。
結果として、僧院は物資の移動の媒介となる。
そしてまた、寺院は大量の飯を世俗に寄付しているわけではない。
托鉢食の消費作法については、戒律上、残渣の処分方法が定められている。
しかし都市部の寺院では物理的な制約が存在する。
そのため、慣行として貧困地域への移送が行われている。
一方、
アージーヴィカ教の出家行者の場合、托鉢に鉢を使わずに直接手で受け取ったとされる。
これは「無所有」を重視する教義理解と関連づけて説明され、調理直後の熱い食物は避けられ、施主の残食や冷めた飯が布施食となる事が一般的であったと見られている。
布施食は、その場で摂取、適量を得た後は托鉢を終え、露地や林・森・洞窟などに移動して静止行や沈黙行を行う。
このような修行生活であった様子は"アショーカの碑石"からも窺い知ることが出来る。
鉢、衣といった外見上の差異を除けば、修行内容そのものは初期仏教やジャイナ教の修行形態との共通点を持つ。
仏教およびジャイナ教については、倫理規範や教理体系が整理され、口伝による継承と明文化、政治的保護、布施主層からの支援が存在したこと等が、後世まで伝承が継続に寄与する一因であった事は史実として残る。




