第1章-13 アーロカの祈り
慧が、マガダ国の首都ラージャガハを目指してここスワート谷を去った翌日、アーロカは谷を下った村で馬車に乗り、ガンダーラ第2の首都Pushkalavatiへ向かった。
街の中央にあるギルド会館に入ると、事務室のドアを叩いた。
“āma, kiṃ tumhākaṃ attho?”
“ahaṃ Suvātu-nadīrajjhe jātiko Āloko; Takhasilāya mamassa ayyakassa Pukkusa-therassa lābhena khippaṃ sāsanaṃ dātuṃ āgato.”
事務官は少し不思議そうな顔をしながら、
“Suvātu-vāpiya Āloko ti vadasi, so yeva Gandhāra-nīlaṃ pacati?”
“āma.”
“etha, idha nisīdatha.”
事務官はアーロカを会議室へ招き入れた。
“idha thokaṃ kālaṃ apekkhatha.”
少しして、長い髭のラッタディンナ長老が入ってきた。
“āho vata, Āloka; cirassaṃ tayā diṭṭho.”
“ciradittho’smi tumhākaṃ, Rattadinna-thera.”
“khippaṃ bhāsāhi; kiṃ nu kho taṃ sāsanaṃ?”
“āma, atthi me añño mittako nīlavaṭṭhīni paridhāya carati, Ajīvaka-paribbājako.”
“nāmato So ‘Kei’; so Magadha-rājadhāniṃ Rājagahaṃ nissāya carikaṃ gato.”
“tassa carikaṃ paṭipajjantassa upakāro mayhaṃ icchito.”
“iminā Dārika-suvaṇṇena taṃ kāraṇaṃ karotha, bhante.”
アーロカはテーブルの上にダリク金貨を3枚置いた。
ダリク(Daric)は、アケメネス朝ペルシア(紀元前6~4世紀)で鋳造された高純度95~98%金貨で、古代オリエント世界で最も信頼性の高い貨幣の一つ。
中東からインド、西欧、そして中国まで通用可能な国際通貨だった。当時の貨幣価値では、ダリク1枚で子羊が数十頭、米なら2トン近く買えた。
“hmm, jānitvā. Idaṃ Dārikaṃ idheva gaṇhissāmi; pacchā yaṃ laddhabbaṃ, tato pariccajituṃ vicāressāma.”
ラッタディンナ長老が壁際の呼び鈴を振ると、先ほどの事務官がペンと紙、それに印章箱を持って入ってきた。
長老はさらさらと文を綴るとアーロカに見せた。
“evaṃ hotu?”
“āma.”
長老は印章箱を開け、中からギルド長老の印章を出すとその手紙の最後のところに、辰砂(硫化水銀を含む鉱石)から採れる鮮やかな朱色の印を押した。
“imasmiṃ utuni pacchimā satthā anūnakāḷaṃ navaṃ-māsaṃ nikkhamissati; kālo appako. Tasmā Takhasilāya javanasindhavaṃ pahinissāma.”
“anumodāmi, Rattadinna-thera.”
ギルド会館を出たアーロカは、東の空を見ながら手を合わせた。そして頭を垂れ、慧の無事を心の底から祈った。
[BGM]
“REO Speedwagon - That Ain't Love”
ラッタディンナ長老の書いた手紙は事務官の手で書簡筒に収まり、すぐに通信官に手渡された。
通信官は、通信騎手を呼ぶとタクシラのギルド会館へ届けるように指示する。
通信騎手は常に待機しており、馬に鞍を掛けると直ぐに騎乗。
ギルド会館の裏手門を出ると、鞭を一振、気合いを入れた。
“hiya! dhāvatu sindhavo!”
タクシラのギルド会館に到着した通信騎手は事務官に書簡筒を手渡した。
そして、事務官はプックサ長老の席に行くと書簡筒を長老に手渡した。
長老は書簡筒の中から手紙を取り出して、さっと目を通し、そして事務官に指示した。
“Jatilā-senāpatiṃ ānethā.”
◯Pushkalavati/プシュカラヴァティ
現在のパキスタン、北西部にある遺跡群のある場所で、首都イスラマバードから約150km、スワート渓谷から30km弱の距離に位置し、スワート川とカブール川の合流点に近接している。
いわゆる”塚・Dheri” が散在し、紀元前1400年頃から紀元後の3世紀まで繁栄したことを示す物が数々発見されている。中でもPālātu Dheri からの収集品には、漆喰製のブッダの肖像が数点あり、上衣Uttarāsanga を左肩に掛けて右肩を開けている、いわゆる袈裟懸けの姿でいることから、おそらく最古のブッダの肖像で、顔の表情と体格を忠実に模していると見られる。
毛髪を携えているのは、後世の彫刻師や高僧の創作した脚色かと作者は今まで思っていた。しかしながら、この漆喰の肖像画像を見る限りにおいては、ブッダの毛髪は直毛ではなく天然パーマ状の縮れ毛であったと見られる。また、その髪を頭上にかき上げて、現代のシニヨンネットのような網目の袋に入れてまとめられており、それが後世になって、「螺髪」という表現に置き換えられて美化されているものと推測する。
後世の彫刻や、仏師(仏像彫刻師:高村光雲など)の作品では、仏像は双肩に衣を纏っていて、特別誂えのドレスを着ているような雰囲気を醸し出している。しかし、この双肩に衣を掛けた姿というのは、実際のCīvara(上座部仏教の法衣)でこのように着衣した場合、仏像のような優美な姿にはならず、テルテル坊主のようなみすぼらしい姿にしかならない。またVineya(律蔵)においては、Cīvaranの規定が厳格に定められていたことからも、ブッダ自身が戒律を無視した(弟子たちと異なる)特別な衣を纏っていたと考えるにはあまりにも飛躍が大きい。
これらの理由から、Cīvaraを双肩に纏った仏像は創作。
故に、左肩に衣を掛けたブッダの肖像は、実物に近いものと判断できる。
また、ブッダがガンダーラ国を訪れた記録は経典にもジャータカにも見られない。従って、ガンダーラ国の東、小国のマドラ国(現在のインド・パンジャーブ州付近)北西端を挟んで、クル国のカンマーサダンマなどで説法をした際の姿を模写したものである可能性は捨てきれない。あるいは、マガダ国やコーサラ国には在留時期が長かったことから、それらの国で模写され、キャラバンによってガンダーラ国へと渡ってきた可能性も十分にある。
尚、蛇足になるが、、、
幕末に生まれ16歳で大政奉還を迎えた高村光雲は、東京台東区にある佐竹之原(現在の佐竹商店街)に、高橋鳳雲の息子定次郎、蒔絵師の田中増次郎、食品見本師の野見長次らと協力し幻の佐竹大仏を建てた。
また、皇居造営の際には、御化粧の間の鏡縁(210×120cm)に「葡萄に栗鼠」を彫刻したが、リスの挙動を観察するために、自宅にリスを飼った。更に、御欄間には「七宝に山鵲の飛翔」、別の御欄間に「鉄線蓮唐草の図」、御学問所の欄間には彫工会と共同で「白蝠」を彫った。
1925年 勲二等瑞宝章
1926年 従三位
東京美術学校、現在の東京芸術大学美術学部・大学院美術研究科の前身の名誉教授。
また、高村光太郎の実父でもあった。
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