挨拶
朝の空気は、まだ少しひんやりとしていた。
夜露の名残を含んだ風が、家の周囲の草木をかすかに揺らしている。
玄関先で、弟は腰を落とし、靴紐を結び直していた。動きはそわそわとして落ち着きがなく、期待が抑えきれない様子がその背中から伝わってくる。
「じゃあ、行ってくるよ」
立ち上がり、振り返ってそう言う弟は、すでに外套を羽織り、杖を肩に担いでいた。学園へ向かう日の、いつもの格好だ。
「せんせぇは……まだ寝てるんだろ?」
「うん。今日は午後に、僕と一緒に学園へ行くって言ってた」
男がそう答えると、弟は一瞬だけ目を丸くし、それから口元を緩めた。
「へぇ。てっきり朝一で飛び出してくるかと思ったけどな」
「それは天地がひっくり返ってもないよ。人が多い場所は煩わしいって、何度も言ってただろ。ああ見えて、案外気分屋なんだ」
「言われてみれば……」
弟は納得したように笑い、扉の外へと一歩踏み出す。
「まぁ、せんせぇが来るなら学園も賑やかになるな。俺、先に行ってるから!」
軽く手を振り、弟は朝の道を駆けていった。
その後ろ姿を見送りながら、男は小さく息を吐き、静かに扉を閉める。
家の中は、朝の光に満ちていた。窓から差し込む柔らかな日差しが床に広がり、穏やかな静けさが漂っている。だが、奥の部屋からは、まだ深い眠りの気配が濃く残っていた。
(……無理に起こすこともないか)
存在は、眠るときはとことん深い。
時間という概念そのものを忘れたかのように、世界から切り離されてしまう。その眠りは休息であると同時に、彼女自身を整えるための時間なのだろう。
男は簡単な朝の支度を済ませ、昼までの仕事を片付ける。植物の記録を整理し、干していた資料を取り込み、書きかけの調査メモに目を通す。いつも通りの作業だが、どこか心が落ち着かない。
(午後には……学園、か)
考えないようにしていた言葉が、自然と浮かぶ。
自分が入ることのなかった場所。かつて、憧れと同時に距離を置いた場所。
そして午後。
日が少し傾き始めた頃、家の奥から気配が動いた。
「……行きましょう」
玄関に現れた存在は、ゆっくりと伸びをしながらそう言った。
まだ少し眠たげだが、瞳は澄んでいて、寝起き特有の曖昧さはない。
「大丈夫? 無理はしなくていい」
「平気よ。ただ……」
存在は家の外に出ると、空気を一度大きく吸い込み、わずかに眉をひそめた。
「遠くからでも、感じていた。たくさんの魔力が、絡まり合っている。……落ち着かない」
その言葉に、男は少しだけ笑った。
「それが学園だよ。人も種族も、魔法の性質も、全部ばらばらだからね」
「……面倒そう」
そう言いながらも、存在の足取りは軽かった。
警戒と興味が、同時に胸の内で揺れているのが分かる。
二人は並んで、学園へと続く道を歩き出す。
木々の間を抜ける風、土の匂い、遠くからかすかに感じる魔力の残響。
その中で、男はふと、昔のことを思い出した。
「僕はね、学園には入れなかったんだ」
何気ない口調だった。
だが、その言葉に、存在はぴたりと足を止め、男を見る。
「どうして?」
「魔力が、足りなかった。筆記も実技も中途半端でさ」
男は肩をすくめる。
「……本当は、魔力さえあれば誰でも入れる。でも、自信がなかった。才能ある皆に打ちのめされて、立ち上がれなくなる気がして……逃げたんだ」
情けない、と言うように笑う。
「だから、趣味だった植物や動物の生態に目を向けた。土地と森を調べる仕事なら、自分にもできると思ったんだ」
存在はしばらく黙り込んだあと、ぽつりと言った。
「風が、あったのにね」
「目覚めるのが遅かったかな」
男はそう言って笑う。
「……でも、今ここに来ている」
「うん。だから、不思議だよ」
男は前を見据えたまま続けた。
「入学できなかった学園に、今度は別の形で関わることになるなんて」
やがて、木々の向こうに学園の尖塔が姿を現す。
存在はその光景を見つめ、無意識のうちに一歩、男の近くへ寄った。
「ここで、何かが変わる気がするわ」
それは不安ではなく、確信に近い響きだった。
「近づくほど、深く感じ取れる。知らない魔法がある。それに……私たちは見られているわ」
「見られ……? 僕には、何も感じないけど」
存在は微笑んだ。
確かに、覗かれている。敵意でも警戒でもない。ただ、観察するような魔力の質。
面白い、と感じた存在は、ほんのわずかに魔力を解き放ち、その視線へと応える。
「挨拶は済んだわ。……楽しみになってきたわね」
男は、その横顔を見て静かに思う。
自分もまた、この場所で何かを見つけるのかもしれない、と。
こうして二人は、学園へと足を踏み入れていった。




