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不老不死にはわからない  作者: ある
訪問者
57/62

報酬

 夜。

 家の奥の部屋には、昼とは質の違う静けさが満ちていた。外では虫の声が一定の間隔で鳴き、ランプの灯りが壁に柔らかな影を落としている。その影は揺れながら、まるで二人の間にある時間そのものを映しているようだった。


 男は椅子に腰かけ、存在はベッドの端に座っていた。昼間に感じていた眠気はすでに消え、代わりに胸の奥に残った微かなざわめきが、彼女を静かに覚醒させている。


「……今日ね」


 存在はぽつりと切り出した。

 言葉にする前、ほんの一瞬だけ間があった。それを男は急かさず、ただ待った。


「学園から、誘いがあったの」


 男の手が止まる。だが、驚いた様子は見せなかった。ただ静かに、彼女のほうへ視線を向ける。


「弟から聞いた。学園長が来てたって」


「ええ。魔法を教えてやってほしい、ですって」


 しばし沈黙。

 男は考えるように視線を落とし、それから穏やかに口元を緩めた。


「話してくれて、ありがとう」


「……?」


「君は、何も言わずにふらりと学園に行くものだと思っていたから」


 存在は小さく首を傾げる。


「そうすると思った?」


「うん。君は、興味を持ったものに対して、ためらわない。良くも悪くも」


「……人が多い場所は、煩わしいわ」


 率直な言葉だった。

 男は苦笑しながらも、否定はしない。


「でも、興味はあるの。知らない者が集まっている場所でしょう。学園は」


 男は静かに頷く。


「それに」


 存在は少し間を置いて続けた。


「報酬が出ると言われたわ」


 男の口元が、わずかに緩む。


「なるほど」


「家を建てるのに、必要だと思ったの。石も木も、人材も……何かを得るには、対価が要るのでしょう?」


 存在は自分の手のひらを見つめる。


「これが、“仕事”というもの?」


 男は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「君らしい疑問だ」


 存在は視線を上げ、男をまっすぐ見た。


「ねえ。君の仕事は、何?」


 一瞬、男は言葉に詰まったような顔をしたあと、どこか照れくさそうに頬をかいた。


「やっと、僕の仕事に興味を持ってくれたのか」


「今まで、聞く必要があると思わなかっただけ」


「正直だな……」


 男は椅子にもたれ、天井を仰ぐ。


「僕の正式な職は、“緑相学士”だ」


「緑……相?」


「簡単に言えば、植物と土地の関係を調べる学者だよ。森や草原、湿地や荒野。そこに生きるものが、無理をしていないかを見る」


 存在は、ただ黙って聞いている。


「でも、名乗るときは“森域調律師”って言ってる」


「どうして?」


「……かっこつけと、誇りかな」


 男はそう言って、少し照れたように笑った。


「調律師、という言葉が好きなんだ。壊すんじゃなくて、整える。足りないものを補って、過剰なものを和らげる。自然は放っておけばいい、って思われがちだけど……人が関わった以上、見守る役目も必要になる」


 存在は、昼間に感じた森の匂いを思い出す。


「植物を、守っているのね」


「正確には、“生態系を見守っている”。守る、というと偉そうだから」


 男の表情が、少し真面目になる。


「君と出会ったのも、その仕事の途中だった」


「……そうなの?」


「その土地の森を調査していた。魔力の流れが、妙に澄んでいてね。普通じゃなかった」


 男は存在を見る。


「君は、そこに“いた”」


 存在は目を伏せる。


「私が、森を歪めていた?」


「いいや。逆だ」


 男は首を振った。


「森が、君を受け入れていた。まるで、最初からそうあるべきだったみたいに」


 静寂が二人の間に落ちる。

 ランプの火が揺れ、影が重なった。


「……なるほどね」


 存在は小さく息を吐いた。


「君が妙に植物や動物を大切にしていた理由が、わかったわ。私たちが出会うきっかけは、仕事により繋がったのね」


「うん。仕事によって世界は広がる。あの時は、討伐依頼も受けて、調査と一緒に森へ入ったんだ。まさか、君のような存在が住んでいるとは思いもしなかった……」


「私を討伐? 君が? ……自分を過大に見過ぎね」


 存在は悪戯に笑う。


「うっ……」


 男は苦笑しながら肩をすくめた。


「対峙した瞬間に戦意は消失したかな。絶対に敵わないと思った。だから、無謀な策に転じた」


 思い出すように笑う男。


「咄嗟に思い付いた、幼稚な告白。あれは……今にして思えば、願いだったんだろうね。この澄んだ森を象徴するように現れた、概念みたいな存在。僕は、惚れ込んでしまった」


 言葉は、飾らず、真っ直ぐだった。


「この、ふわっとすり抜けてしまいそうな君を、取り逃したくなかったんだ」


「……」


 存在は黙る。

 男は言葉として、ちゃんと差し出してくれた。

 では、自分はどうなのか。


 言葉にしようとした思いは、喉で詰まった。男と違い、自分の世界はあまりにも狭かったから。


「……仕事を放棄したってことね」


「でも、報酬は受け取ったよ」


「え?」


 男は、ふわりと優しい笑みを向ける。


「“僕の妻”。僕には勿体ない、過ぎた報酬をね」


 存在は、きょとんと目を瞬かせた。


「報酬は、形だけじゃない。いや……形だって、変わるものさ」


 男は静かに続ける。


「君は言った。自分が何者かを知りたいって。まずは、妻として世界を眺めてみたいと」


 存在の胸が、微かに熱を帯びる。


「だったら、魔法使いとしてはどうだろう。学園の話は、確実に世界を広げる」


「君の、今の“したい”は何?」


 存在はゆっくりと昼間の出来事を思い返す。

 学園長の言葉。

 弟の期待。

 そして、“学ぶ”という概念。


「……教えることも、学びになる。可能性に出会うとは何なのか……その意味を、知りたい」


 男は、静かに頷いた。


「答えは出たな。報酬のことは気にしないで、その興味に従おう」


「……わかったわ」


「あ、それと」


 男は少しだけ照れたように言った。


「僕も一緒についていくから。心配だからさ」


 存在は一瞬、目を伏せてから、静かに答えた。


「……助かるわ」


 夜は深く、静かだった。

 だが二人の世界は、確かに一歩、外へと踏み出していた。

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