報酬
夜。
家の奥の部屋には、昼とは質の違う静けさが満ちていた。外では虫の声が一定の間隔で鳴き、ランプの灯りが壁に柔らかな影を落としている。その影は揺れながら、まるで二人の間にある時間そのものを映しているようだった。
男は椅子に腰かけ、存在はベッドの端に座っていた。昼間に感じていた眠気はすでに消え、代わりに胸の奥に残った微かなざわめきが、彼女を静かに覚醒させている。
「……今日ね」
存在はぽつりと切り出した。
言葉にする前、ほんの一瞬だけ間があった。それを男は急かさず、ただ待った。
「学園から、誘いがあったの」
男の手が止まる。だが、驚いた様子は見せなかった。ただ静かに、彼女のほうへ視線を向ける。
「弟から聞いた。学園長が来てたって」
「ええ。魔法を教えてやってほしい、ですって」
しばし沈黙。
男は考えるように視線を落とし、それから穏やかに口元を緩めた。
「話してくれて、ありがとう」
「……?」
「君は、何も言わずにふらりと学園に行くものだと思っていたから」
存在は小さく首を傾げる。
「そうすると思った?」
「うん。君は、興味を持ったものに対して、ためらわない。良くも悪くも」
「……人が多い場所は、煩わしいわ」
率直な言葉だった。
男は苦笑しながらも、否定はしない。
「でも、興味はあるの。知らない者が集まっている場所でしょう。学園は」
男は静かに頷く。
「それに」
存在は少し間を置いて続けた。
「報酬が出ると言われたわ」
男の口元が、わずかに緩む。
「なるほど」
「家を建てるのに、必要だと思ったの。石も木も、人材も……何かを得るには、対価が要るのでしょう?」
存在は自分の手のひらを見つめる。
「これが、“仕事”というもの?」
男は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「君らしい疑問だ」
存在は視線を上げ、男をまっすぐ見た。
「ねえ。君の仕事は、何?」
一瞬、男は言葉に詰まったような顔をしたあと、どこか照れくさそうに頬をかいた。
「やっと、僕の仕事に興味を持ってくれたのか」
「今まで、聞く必要があると思わなかっただけ」
「正直だな……」
男は椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
「僕の正式な職は、“緑相学士”だ」
「緑……相?」
「簡単に言えば、植物と土地の関係を調べる学者だよ。森や草原、湿地や荒野。そこに生きるものが、無理をしていないかを見る」
存在は、ただ黙って聞いている。
「でも、名乗るときは“森域調律師”って言ってる」
「どうして?」
「……かっこつけと、誇りかな」
男はそう言って、少し照れたように笑った。
「調律師、という言葉が好きなんだ。壊すんじゃなくて、整える。足りないものを補って、過剰なものを和らげる。自然は放っておけばいい、って思われがちだけど……人が関わった以上、見守る役目も必要になる」
存在は、昼間に感じた森の匂いを思い出す。
「植物を、守っているのね」
「正確には、“生態系を見守っている”。守る、というと偉そうだから」
男の表情が、少し真面目になる。
「君と出会ったのも、その仕事の途中だった」
「……そうなの?」
「その土地の森を調査していた。魔力の流れが、妙に澄んでいてね。普通じゃなかった」
男は存在を見る。
「君は、そこに“いた”」
存在は目を伏せる。
「私が、森を歪めていた?」
「いいや。逆だ」
男は首を振った。
「森が、君を受け入れていた。まるで、最初からそうあるべきだったみたいに」
静寂が二人の間に落ちる。
ランプの火が揺れ、影が重なった。
「……なるほどね」
存在は小さく息を吐いた。
「君が妙に植物や動物を大切にしていた理由が、わかったわ。私たちが出会うきっかけは、仕事により繋がったのね」
「うん。仕事によって世界は広がる。あの時は、討伐依頼も受けて、調査と一緒に森へ入ったんだ。まさか、君のような存在が住んでいるとは思いもしなかった……」
「私を討伐? 君が? ……自分を過大に見過ぎね」
存在は悪戯に笑う。
「うっ……」
男は苦笑しながら肩をすくめた。
「対峙した瞬間に戦意は消失したかな。絶対に敵わないと思った。だから、無謀な策に転じた」
思い出すように笑う男。
「咄嗟に思い付いた、幼稚な告白。あれは……今にして思えば、願いだったんだろうね。この澄んだ森を象徴するように現れた、概念みたいな存在。僕は、惚れ込んでしまった」
言葉は、飾らず、真っ直ぐだった。
「この、ふわっとすり抜けてしまいそうな君を、取り逃したくなかったんだ」
「……」
存在は黙る。
男は言葉として、ちゃんと差し出してくれた。
では、自分はどうなのか。
言葉にしようとした思いは、喉で詰まった。男と違い、自分の世界はあまりにも狭かったから。
「……仕事を放棄したってことね」
「でも、報酬は受け取ったよ」
「え?」
男は、ふわりと優しい笑みを向ける。
「“僕の妻”。僕には勿体ない、過ぎた報酬をね」
存在は、きょとんと目を瞬かせた。
「報酬は、形だけじゃない。いや……形だって、変わるものさ」
男は静かに続ける。
「君は言った。自分が何者かを知りたいって。まずは、妻として世界を眺めてみたいと」
存在の胸が、微かに熱を帯びる。
「だったら、魔法使いとしてはどうだろう。学園の話は、確実に世界を広げる」
「君の、今の“したい”は何?」
存在はゆっくりと昼間の出来事を思い返す。
学園長の言葉。
弟の期待。
そして、“学ぶ”という概念。
「……教えることも、学びになる。可能性に出会うとは何なのか……その意味を、知りたい」
男は、静かに頷いた。
「答えは出たな。報酬のことは気にしないで、その興味に従おう」
「……わかったわ」
「あ、それと」
男は少しだけ照れたように言った。
「僕も一緒についていくから。心配だからさ」
存在は一瞬、目を伏せてから、静かに答えた。
「……助かるわ」
夜は深く、静かだった。
だが二人の世界は、確かに一歩、外へと踏み出していた。




