老齢の魔法使い
存在は、柔らかな陽の光にまぶたを押されて、ゆっくりと目を開けた。
外はすでに昼近く。静寂と陽だまりの温かさに包まれ、思わず身体を伸ばす。
「……久しぶりに、こんなに寝た気がするわ」
心地よい倦怠と微かな罪悪感。それでもどこか嬉しそうに笑った。
この家での暮らしは、確かに自分を少しずつ変えている。
「彼と過ごしてから……少し、染まってきたのかしらね」
以前の自分なら、陽が昇ろうが沈もうが関係なかった。けれど今は、彼が朝になれば起こしに来て、時間の流れに合わせて動くことが増えた。
人間という存在は、どうしてこうも時間に縛られて生きるのか──そう疑問に思いながらも、そのリズムに不思議と身を委ねていた。
「人間は……どうして、時間を贅沢に使えないのかしら」
そう呟きながらベッドを降りる。
日課になりつつある鏡の前に立ち、髪を不器用に梳かす。
整ったかどうかは分からないけれど、それでも「身なりを整える」という行為に意味を見出すようになったのは、彼と暮らすようになってからだ。
──妻、という立場。寄り添うと決めた日から、少しでも彼の隣にふさわしく在れるように。
本に書かれていたことを見よう見まねで、女としての所作を少しずつ学んでいる。
(……変わったわね、私も)
廃屋で独り、虚無の中で眠っていたあの頃には考えられない変化。
それでも、悪くない。そう思えるようになっていた。
──と、不意に居間からざわめきが聞こえた。
ひときわ元気な声。弟のものだ。
「……弟さん、帰ってきたのね。……もう一人、いる?」
もう一つ。小さく、くぐもった声が混ざる。男の家族とは違う……。
初対面の相手の気配に、少しだけ足を止めた。
(知らない……でも、今日は機嫌がいいし……)
眠りの質がよかったせいか、心は穏やかだった。
興味半分、気まぐれ半分で、居間へと足を運ぶ。
「あっ、やっぱりいたいた! せんせぇ! こっちに来てくれ!」
勢いよく手を振る弟。その隣には──
長い白髭と、癖のある白髪。くたびれた深い藍色のローブ。まるで書物に描かれる古典的な魔法使いのような、しゃがれ声の老人がいた。
「学園長、この人だよ。俺が言ってた、すごい人って!」
「……ほぉ……」
ゆっくりと、老人が存在に視線を向ける。
その目と合った瞬間、静かに空気が変わった。
互いの内側を探るように、沈黙が一瞬だけ流れる。
(このお爺さん……ただ者じゃない)
存在はそう感じた。
その身体に宿る魔力は深く、古い。だが、それ以上に──魔力の「質」が異質だった。
まるで、人の形をした“別の世界”のような存在感。
警戒ではない。威圧でもない。
だが、その目に映る自分が、何かの“研究対象”になったような気がして──存在は、ふっと微笑んだ。
それは楽しいとか面白いとか、そんな感情とは違う。
不確かな予感。けれど、嫌いではない。
自分がまた何か、知らない扉の前に立たされている……そんな直感があった。




