指輪
「なんなの、この五月蠅い人間たちの群れは……」
二人はついに、ひと際大きな都市へと辿り着いた。これまでに通り過ぎてきたどの集落とも、その規模は明らかに違っていた。遥か上空へとそびえ立つ頑丈な外壁、その壁を跨ぐように架けられた巨大な橋、そして街の入口を塞ぐ圧倒的な大門。
圧倒されたのは、単に都市の物理的な大きさそのものに対してではない。その大門を越えた一歩先から広がる、今のこの目眩がするような状況に対してだった。
無数の人間たちが行き交い、荷車を引いた馬車が絶え間なく往来し、目まぐるしく活気が渦巻いている。幾重にも建物が立ち並び、路地の端から端まで隙間なく露店がひしめき合っている様子は、まるでびっしりと生い茂る森の木のようだった。
「……ようやくたどり着いたね。ねぇ、覚えているかい? 前に都市へ入ったら、君に素敵な贈り物を渡すって言ったこと。さぁ、はぐれないように僕のあとについてきてよ」
うきうきと弾んだ足取りで、男は早足に人混みの中へ歩き出す。ここで遅れをとったらこの人間の群れに飲み込まれて見失ってしまうと思い、存在は戸惑いを覚えながらもその背中を急いで追いかけた。
立ち並ぶ露店の数々。鮮やかな宝石を用いた看板がそれぞれの店を誇らしげに主張しており、どうやらこの一帯は装飾品の区域のようだった。
都市の勝手が分かっているのか、男は人の波を縫うようにしてスイスイと移動していく。
そして、外側からでもガラス越しにきらびやかな宝石類がずらりと置かれた、一軒の瀟洒な店の前でピタリと足を止めた。
「……いったい、何を探しているというのよ」
「いや、ちょっとした品物を探していてね。たぶん、この店が一番いいものを見つけられそうなんだ。たまには自分の直感を信じてみようかなってさ。さぁ、中に入ろうか」
店内に足を踏み入れると、煌びやかな髪飾り、首飾り、そして腕輪の数々が並んでいた。
全身に身を纏い、着飾るための美しい装飾品が隙間なく取り揃えられている。
男はその中を迷うことなく進み、指輪がずらりと並ぶガラスの棚の前で足を止めると、一つひとつをじっくりと念入りに確かめ始めた。
「これが、私にくれるっていう贈り物なの?」
「うん、そうだよ。指輪っていうのは小さくて軽いだろ? 君はすぐに物を放り出したり捨てたりしそうだから、できるだけ邪魔にならない気楽なやつを用意しておきたかったんだ」
「……私の性格を、よく分かっているじゃないの」
「でしょう?」
楽しげに品定めを続けながら、男の視線がふと、とある一角でひときわ強い興味を惹かれたように止まった。
可憐な花や繊細な模様があしらわれた指輪だった。それは、これまでの図鑑のページでも、あるいは長い仕事の経験の中でも見たことがない珍しい花を題材にしていた。
脳裏の遠い記憶を掘り起こすと、なぜか昔、どこかでこの花を目にした微かな記憶がよみがえる。
「これだ! この指輪が、今の君には一番ぴったりだと思う」
「それを一体、何に使うというのよ」
「僕たちの『結婚証明書』の代わりさ」
「……は?」
思わずといった様子で目を細める存在に対し、男はどこまでも晴れやかに、にっこりと笑ってみせた。
「うちの家族さ、口には出さないけれど、そういう『形式』や『形』にやけにうるさいんだよ。これをつけていれば、旅の記念の品だって言い訳もできるし、それに何より……なんだかこの見た目、すごく君に似合っている気がしてさ」
存在は差し出された指輪を受け取り、どこか興味なさげな冷ややかな視線でそれを眺めた。
「こんなちっぽけな輪っかで、人間たちは本当に納得するものなの?」
「うん、たぶんね。もし何もなかったら、家族から『一生の伴侶を迎えたというのに、何も買ってやっていないのか』とか、『夫のくせに甲斐性なしめ』って、後々すごく小言を言われるのは僕だからね」
「……それは、なんとも哀れなことね」
「ねぇ、君が一番言っちゃいけない言葉だと思うけどなぁ」
そのやり取りに、ふっと、存在の硬かった口元がわずかに緩んだ。
男はその微かな変化にあえて気づかないふりをして、サラリと言い切った。
「もし万が一、まったく気に入らなかったら、すぐに捨ててしまっても構わないよ。……でも、ほんの気まぐれでもいいから、少しだけでも指にはめてくれたら、僕としてはすごく救われるんだけどな」
「……救いが、たった一つの指輪ごときで済むなんて、人間って本当に気楽な生き物ね」
そう皮肉を呟きながらも、存在は差し出された指輪を無言のまま自分の細い指へと嵌めた。
その動作はどこかぎこちなく――けれど、決して拒絶のそれではなかった。
「すごく似合っているよ、僕の可愛らしく綺麗な妻」
「……あまり調子に乗って茶化したりしたら、その場で呪い殺すわよ」
「はは、なんだか本当に、本物の夫婦らしくなってきたなぁ」
そう楽しそうに軽口を叩きながら、男は代金を支払うために会計へと歩いていく。
一人取り残されたように立ったまま、存在はふと、自身の指先にはめられた小さな指輪を見下ろした。
それはただの装飾品であり、人間たちが一時的な飾りとして互いを縛るために彩る、ちっぽけな物質にすぎない。
――それでも、目の前で光るそれは、きっとこの宝石特有の物理的な光沢なのだろう。なぜかほんの少しだけ眩しく輝いて、妙に綺麗に、彼女の視界に映り込んでいた。
「これが、指輪……。ふうん……」
存在は、左手の薬指にはめられた小さな輪を、まるで未知の解析対象でも見るかのようにまじまじと見つめていた。
はじめのうちは皮膚に触れる金属の冷たさにわずかな違和感を覚えたものの、それも体温を吸い取って、すぐに馴染んでいった。
あしらわれているのは、控えめな花の意匠だった。装飾品としては決して派手ではなく、むしろ簡素な部類に入るだろう。だが、そこにはどこか人の目を強く惹きつけるような、静かで確かな気配が宿っていた。
「その花の名前は、『ウツシハナ』っていうらしいよ。歴史の記録や図鑑には一切残らず、なぜか人の記憶のなかにだけひっそりと咲く幻の花だってさ。どこかで見たような気もするし、見ていないような気もする……まるで夢の中でだけ現れるような、実在しないとされる花だって、店主が教えてくれたんだ」
「……花なのに咲かないの?」
「咲くには咲くらしいんだけど、誰もその瞬間には気づけないんだって。実際に咲いたのかどうか、本当に存在したのかどうかも、いつも曖昧のままでね。でも、ふとした瞬間に、『ああ、あのとき確かにそこにあったな』って、後になってから思い出す人がいる。そういう、ちょっと変わった花なんだってさ」
その説明を聞きながら、存在はわずかに視線を逸らした。指輪の金属は、もうすっかり彼女自身の冷たい体温を忘れさせるほどに、ほんのりと心地よい温もりを帯びていた。
「……だから、これを私に? 皮肉な贈り物ね。私のように誰の記憶にも深く残らず、世界のどこにも記録されない存在を、わざわざ『見たような気がする』だけの曖昧な花でなぞるなんて、悪趣味にもほどがあるわ」
「ううん、違うよ」
男は、ふざけた様子を一切見せず、どこまでも真面目でまっすぐな声音で言った。
「君はもう、僕の記憶のなかにくっきりと、しっかりと刻まれているからね。容姿も、口を開けば毒を吐くその言葉も、冷ややかな性格も、全部覚えている。夢の中の幻なんかじゃない。君は本当にここにいて、僕と一緒に歩いて、温かいご飯を食べて、呆れて怒って、そして小さく笑って……ずっと僕のそばにいた」
「……」
「それをね、ちゃんとこの指輪という形にして、僕の家族に伝えたかったんだ」
存在は、その言葉に小さく美しい眉をぐっと持ち上げた。
「……家族、に?」
「そう。もうすぐ、僕の生まれ育った故郷につく。 そこには両親がいて、妹や弟もいて、みんなでわいわい暮らしてきたんだ。僕もずっとその場所で生きてきた……あの森で、君に出会うまではね。だからこそ、ちゃんと君を故郷へ連れて帰りたかったんだよ。『僕の妻』としてね」
「私が? 君の妻として、人間たちの家族の前に現れるというの? この指輪をわざわざつけて?」
「そう。これをつけて、僕の隣に一緒にいてくれたら、それだけでいいんだ」
男は静かに、けれど強い意志を込めて言葉を続ける。
「うちの家族はみんな人を疑わない良い人たちだけど、さすがに、君の本当の『正体』までは知らない。……世の中の常識のなかでは、男女が夫婦であるという証明は、いつだって『目に見える形あるもの』なんだよ。ただ口約束しただけじゃ、誰も信用してくれない。でも、この指輪があれば、『あぁ、この二人にはちゃんと何かしらの縁があったんだな』って、自然に受け止めてくれる。たとえ実態がどうであれ、『そういうふうに一緒に生きているんだな』って、理解してくれるはずだから」
「そんなふうに人間たちに理解されなくても、私は別に、これっぽっちも困らないけれど」
「僕が困るんだよ」
男は困ったように、けれどどこか愛おしそうに苦笑した。
「君のことを、『見たような気がするな』なんて、幻のように片づけられたくないんだ。君にはちゃんと、『あのとき確かにそこにいた』と、みんなにハッキリと認識されてほしい。世界に形がないなら、僕が形を持たせたい。せめて、僕の隣に立つ君が、誰かの視界の隅っこじゃなくて、真っ直ぐにちゃんと見えてほしいんだ……。僕は、そうであってほしいと願っているんだよ」
「……」
存在は、それ以上何も言葉を返さなかった。
ただ、自分の手のひらの上で静かに光る指輪を見つめたまま、動かない。
「……君は、『咲かない花』なんかじゃないよ。きっといつか、誰かの記憶のなかにも、綺麗にちゃんと咲くはずだ。……まあ、僕の記憶の中では、もうとっくに満開に咲き誇っているけれどさ」
その歯の浮くような台詞に、存在は小さく美しい目を細めた。
「君って人は本当に、お喋りで、次から次へと言葉を重ねるのが好きね。私の観察記録に、一章まるまる用意しなくちゃいけなくなりそう」
「じゃあさ、その章の最後の締めくくりに、『可愛いと感じた』って書き加えてくれたら、それで十分だよ」
「絶対に書かないわよ、そんなもの」
「知ってる」
――ふわりと、冷たい風が二人の間を通り過ぎ、静かに遠ざかっていく。
咲いたかどうかすら曖昧な、幻の花。その不確かな象徴を指に受け取ったその瞬間に、その花は世界にとって、確かに「誰かに見られた、紛れもない実在の花」へと姿を変えていた。




