雨宿り
雲が泣き始めたのは、焚き火がすっかり消えた頃だった。
ぽつり、ぽつりと冷たい粒が落ちてくる。やがて雨脚は強まり、焚き火の残り香も、土の匂いも、すべて洗い流していった。
男は腰を上げると、傍らの存在に声をかけた。
「大きな木の下に移動しよう。あっちなら、少しは凌げる」
言葉は要らなかったのか、存在は静かに頷くと、濡れた地面を踏みしめて男の後に続いた。雨を避けるため、幹の太い樹の下に身体を寄せ合うようにして並ぶ。頭上で葉がざわめき、雨粒がリズムを刻んでいた。
寒さが忍び寄ってくる。雨が体温を奪い、男の肩がわずかに震える。
そんな彼の肩に、そっと一枚の上着がかけられる。
「これは……なに?」
存在が目を細めて訊ねた。
男は少し照れたように笑いながら答える。
「妻が風邪ひいたら、カッコつかないだろ?」
存在は上着の布地に手を添える。温かみのある布の感触が、肌にじんわりと染みてくる。
「私は寒さを、あまり感じないの。人間はどうか知らないけど……君が震えてるのは、わかる」
男は無理に笑顔を作ろうとしたが、どうにも表情が引きつっていた。冷えが骨まで染みているのだろう。唇がわずかに青く、息は白く長く伸びる。
「私はいい。君のものなんだから、君が着るといいわ」
そう言って、存在は上着を返そうとする。だが男は首を横に振り、静かに言葉を返した。
「それは、困る」
「なぜ?」
「君が僕の妻だからさ」
その言葉に、存在は目を瞬かせる。
「……例え、君にとっては意味のないことだとしても、僕がそうしてあげたいと思ったから、そうする。君を大切にしてあげたいっていう、馬鹿な男心からさ」
手を止めたまま、存在は男の顔を見つめた。どこか不可解なものを見るような目をしていたが、その奥には、理解しきれない感情の輪郭が生まれかけているようにも見えた。
「……無意味ね。君が体調を崩したら、私が面倒になるだけよ。……それでも?」
男は笑った。笑って、頷いた。
「それでも」
淡い笑顔だったが、その眼差しは揺るがなかった。
「まったく……勝手ね」
「そのときは、僕のことはほっといていいよ。君は君の好きなようにして」
その瞬間、存在の眉が僅かに動いた。
「君が毒を受けたときのことを忘れたのかしら。私がどれだけ薬草を探し回ったと思ってるの?」
男は目を丸くした。
「え? そんなに頑張ってくれたの? 君が? ……そうだったのか」
驚きと、どこか照れくさそうな笑みが同時に浮かぶ。
「失礼ね……でも、また君が煩わしい状態になるのは、私も嫌だわ」
そう言って、存在は一歩下がり、掌を前にかざす。空気が一瞬だけ震えたように思えた。次の瞬間、ふわりと温かな気が生まれた。小さな炎のような魔力の束が、ふたりを包み込むように漂う。光は淡く、柔らかく、だがしっかりと温もりを宿していた。
「……あたたかい」
男が小さくつぶやく。
存在は焚き火の残り香のように、静かに応じた。
「人間のことはまだよくわからないけど……暑いとか、寒いとか、そう感じたら……頼りなさい」
それは照れでもなく、優しさとも少し違う。彼女なりの「支え方」の表現だった。
男は肩をすくめ、笑みを浮かべる。
「まったく、立派な妻だことで」
存在は何も言わずに、ふっと目を伏せた。だが、彼女はそのまま上着を肩から外そうとはしなかった。
ふたりは静かに雨音を聞いていた。
冷たい雨の夜。だがその中心には、魔力と上着と、互いの心で作られた、温かな円があった。




