豊穣祭1
あの深い森を離れてから、すでに数日が経過していた。
町が近づくにつれて道は整備され、ふたりの歩幅も自然と揃うようになっていく。
道すがら、男は横目を向けてはチラチラと何か言いたげな視線を送っていた。
「……視線がうるさいわね。何か言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ。気味が悪いわ」
「いやぁ、これまでは何というか、君が勝手についていっているって感じだったけどさ。今はこうして、ちゃんと二人で並んで歩いているなって実感できて、なんだか嬉しくてね」
そう言いながら、男は彼女の足元へと視線を落とした。
存在が何を思い立ったのか、旅路の足並みにはおよそ似つかわしくない、たっぷりとフリルのあしらわれた奇抜な衣装。風変わりな貴族の令嬢のようなその装いは、不思議と彼女の冷ややかな美しさに驚くほどよく似合っていた。
「それにしてもさ、最初はこの服の裾が泥んこに汚れたりしていたのに、いつの間にかすっかり綺麗になっているよね。まさか、僕の目を盗んで隠れて洗濯でもしていたの? 意外と君は綺麗好きなところがあるんだね」
「そんな面倒なこと、するわけないでしょう。ただ、裾が汚れているのは視覚的に不快だったから、微細な魔力を操って汚れだけを弾き飛ばしたのよ。それに、今はごく薄い魔力の層を服全体に纏わせているから、もう汚れる隙間なんてないわ」
「えっ、そんなことまでできちゃうんだ……! すごいなぁ。だったらさ、僕の服にもその魔法をかけてくれないかな? 次に入る町には、せめてもう少し綺麗な状態で入りたいんだよ」
「君が自分の足で歩くことを選んだんでしょう。旅の苦労や泥臭さは、自分で責任を持つものよ。それに、泥にまみれた無様な振る舞いこそ、今の君にはお似合いだわ。……でも、その顔があまりにも不格好で見ていられないから、哀れな夫への慈悲としてほんの少しだけ直してあげる」
存在はスッと手を伸ばし、男の顔の脇へとその掌をかざした。
すると、ふわりと心地よい柔らかな風が彼の頬を撫でる。その瞬間に、先ほど雨上がりの水たまりを踏んだ際に跳ね上がってこびりついていた泥のシミが、まるで蜃気楼のようにスッと消え去った。
「……ほら、これでいいでしょう。感謝しなさい」
彼女はそれだけ言うと、ふいと前を歩き出した。
その背後で、風を受けてひらひらと揺れるフリルの裾が、どこか喜んでいるかのように軽やかに舞い踊っていた。
ようやくたどり着いた町は、すでにすっかり夜の帳に包まれていた。
男は少しばかり足早に歩を進めていた。今夜、この町で開かれている催しに、どうしても存在と一緒に連れ立って行きたいという企みがあったからだ。
夜の町並みは静寂とは無縁で、旅人や商売人たちの活気あるガヤガヤとした喧騒に満ちていた。
「やっぱり、こういう人の多い町に入るのは少し抵抗がある?」
「……もっと静寂に満ちた場所だと思っていたのに、煩わしいことこの上ないわね」
「うん、実は今夜はこの町で年に一度の大きなお祭りの夜でさ。どうしても君と一緒に、この喧騒の中を歩いてみたかったんだ。だから――」
男は突然、躊躇うことなく存在の手首をキュッと掴んだ。
そして、驚く彼女を引っ張るようにして、賑わう町の入口へと誘い込んでいく。
初めて出会ったあの日のような、手を包み込むような優しさとは違う。どこか強引で、力強いその引力に一瞬動揺を覚えた。
けれど、なぜか不思議と拒絶する気にはなれず、私はされるがままに彼の大きな背中に身を委ねていた。
「さぁ、行こう! 僕がずっとそばにいて、絶対に離れないからさ」
恐れていた「人間の群れ」の境界線へと、足を踏み入れる。
あれほどまでに忌み嫌い、躊躇っていたはずの群衆の気配は、彼の温もりと共に波のように溶け出し、嘘のように綺麗に消え去っていった。
雑踏の光に照らされた彼の背中は、なぜだか眩しいほどに輝いて見えた。
「今夜はこの町で開かれる『豊穣祭』なんだ。一年の作物の実りを女神に感謝するためにね、住民同士だけじゃなく、この町を訪れた旅人たちにも惜しみなく美味しい食べ物が振る舞われるんだよ」
「……感謝の対象が女神なのに、食べるのは人間なの?」
「あはは、たしかに言われてみれば変だよね。古い言い伝えによれば、女神はただ人間が幸せに生きる姿を望んでいるらしいんだ。もっとも、その姿を実際に見た者は一人もいないんだけどさ。女神っていうのは、そういう慈愛の『概念』みたいなものとして崇められている。つまりは、僕たち人間がこうして心から楽しんで生きることが、そのまま女神への最大の感謝になるっていう理屈さ」
「……どこまでも人間の都合のいい解釈ね。私には、人間が勝手に女神の名前を利用して、ただ貪り食いたいだけの口実にしか思えないわ」
呆れ混じりに言い捨てる彼女に、男は特に言い返すこともせず、ただ楽しそうにニコリと笑みを浮かべる。そして、繋いだ手首を引いたまま、まずは今夜の宿へと向かった。
宿の部屋に旅装を解き、窓の外をそっと見下ろす。
周囲はすっかり夜の闇に包まれていたが、町の中心部だけは幾千もの灯りがひときわ明るく、まるで別の世界のように賑わっていた。そこがまさに、豊穣祭の会場だった。
「なんだか、騒がしいわね……。それから、やけに美味しそうな匂いまで漂ってくるけれど」
「朝からずっと少食にしておいた甲斐があったよ。今夜は胃袋の限界までとことん食べて、この祭りをしゃぶり尽くそうか! それでね……」
男はわざとらしく自分の姿を振り返り、旅の道中で汚れた襟元や裾を彼女に見せつけた。
「祭ってのはさ、やっぱり普段より少し小綺麗な服装で楽しむものだろ? 生憎と着替えの持ち合わせもないし……ねぇ、君に一つだけ頼みがあるんだけどさ」
彼の言いたいことなど、少し見れば一目瞭然だった。
呆れながらも、存在はすっと男の目の前へと歩み寄る。その細い指先から、陽の光を浴びた綿毛のように淡く光る魔力が迸り、まるで意思を持つ胞子のようにふわりふわりと柔らかく舞い踊った。
「……なるほど、昼間のやりとりはただ機嫌がいいだけと思ったけれど、このためだったのね。これから美味しい料理を口にするというのに、君のその小汚い格好が視界に入ると味気なくなりそうだから……これは私からの、ほんの気まぐれな施しみたいなものよ」
彼女の指先から放たれた胞子が、男の衣服の隅々までふわりと纏わりついていく。
まるで泡の膜のように優しく馴染んだその瞬間、細やかな光の粒子が生地の繊維の奥へと浸透し、染み付いていた泥や旅の汚れをまるで嘘のように浮き上がらせて、霧散させるように消し去ってしまった。
「……うわ、すごい! こんなに温かくて優しい魔法、生まれて初めて見たよ!」
男のあまりにも予想外の感想に、存在は思わず怪訝そうに首を傾げた。
「……優しい? ただの構造が単純な『浄化』の魔法にすぎないわ。そんな大げさなものじゃないでしょう」
「それでもさ、こんな綺麗な魔力に全身が包まれるような感覚なんて、僕にとっては大発見みたいで純粋に嬉しいんだよ。なんだか、君がこの祭りの『女神様』みたいに思えてきたな」
「……私は、人間なんて、これっぽっちも何とも思っていないわよ」
「なら、僕がその女神様に感謝を捧げた最初の一人ってことになるかな。今夜のこの祭りは、女神が人間の世界にひっそりと降臨した、記念すべき夜になるってわけだ」
――くだらない。
心の中でそう吐き捨てたはずなのに、彼の瞳があまりにもまっすぐで、自分をその「都合のいい女神の概念」と重ね合わせて楽しむには、あまりにも純粋すぎて愚かしかった。
そのどうしようもない子供じみた愚かしさに、気づけば私の唇の端がわずかに緩んでいた。
そう、これは決して彼の言葉に心が弾んだわけじゃない。彼のあまりの調子の良さに、思わず呆れて息が漏れてしまっただけなのだ。
彼女は小さく鼻を鳴らすと、ふいと背中を向け、賑わう祭りの会場へと歩き出した。




