元男子の美少女も歩けば騎士に命を救われる
レフィール高原――見渡す限り緑一色の大草原地帯。一際目立つ高い丘の頂には女神を祀る教会があり、その周辺は女神の加護により魔物を寄せ付けないが、教会を訪れる信徒の数が年々減少しており、その加護の力も薄くなっているという。
「以前は熱心な信徒の方々が王国から足を運んでくださっていたのですが、世界に魔物が現れるようになってからはめっきり……所業は無常ですね。」
悟ったような口ぶりのリースだが、今は小動物の姿とはいえその横顔は心なしか哀しそうに見える。世界を見守る女神として、人々が魔物の脅威に怯えながら日々を過ごさざるを得ないことに胸を痛めているのだろう。だからこそ赤々としたはっぴを羽織る姿が場違いなことこの上ないのだが、それについては黙っておくことにした。
「魔物か……。俺はできれば殺生はしたくないんだけどな。」
見れば広大な草原には確かに、なんらかの生物が点在する姿が確認できる。羊や鳥――魔物というには動物色が強すぎる気もするが、リースによれば魔王の影響力により狂暴化した動物も『魔物』の範疇に入るらしい。であれば尚更、その命を奪うことに躊躇をしてしまう。
「狂暴化した動物を元に戻す方法はないのか?」
「それに成功した事例は今まで聞いたことがありません……。さらに悪いことに、魔物となった動物の子どももまた、例外なく魔物になることが確認されているのです。」
魔物となった動物が子を産み、育まれた子もまた魔物となる……その負の連鎖は人々を脅かし、平和な暮らしを妨げるものとなる。なんとも胸が痛くなる話だ……。
リースの説明によれば、『狂暴化』とは動物の人間に対する敵対心が過剰に増幅された状態を指すらしい。であるならば、彼らが動物であることに変わりはない。だが実際に人々に危害を加えるようになった以上、それらを魔物として駆逐し、人々を守ろうする者が現れることは自然なことであることも理解できる。理解はできるが、心が追いつかない。
「異世界転生、甘く見すぎていたな……。」
誰ともなく呟く。なるべく魔物……動物たちとのエンカウントを避けるように歩いていた俺は、いつのまにか草原地帯を抜けて樹木生い茂る森林へと足を踏み入れていた。そろそろ夕刻――空を仰げば、木々の葉の切れ間から覗く茜色に切なさがこみ上げる。この森林の中央に神聖ノースタッド王国が位置していることは、高原の丘から見えた景色で確認済みだ。このペースなら夜が更ける頃までには到着できるだろう。
人里が近いとはいえ、この森林にも魔物の姿はちらほらと確認することができた。それは高原にもいた羊だったり、あるいは野兎だったり……やはり見た目は動物となんら変わりのない彼らを避けるようにここまで進んできた俺だったが、不意にその瞬間は訪れた。薄暗い森林の樹の影に隠れるようにして佇んでいたそれ――一匹の野兎がこちらの姿を確認するなり高く跳躍し、空中でくるりと一回転すると強烈な後ろ脚での蹴りを放ってきた。
「野兎です!その強靭な後ろ脚での蹴りは大木をもなぎ倒します!」
リースの叫び声に咄嗟に身をひるがえして兎の蹴りをかわす――AGLが高いことが幸いした、間一髪の回避――後方で何かがバキバキと音を立てて倒れる。大木とはいわずとも、樹木一本を軽々と倒してみせたソイツを見て背筋が凍る。俺の知っている兎とは違う、明らかに異質な存在……これが魔王の影響力なのか?
俺はなんとかしてこの場から逃げ切る算段を考える。後ろを向いて走る?いや、あの跳躍力なら一瞬でこちらに追いつくだろう、その後どうなるかは想像もしたくない。どうする……?殺すしかないのか?殺せるのか、俺に?
初期装備の短剣を握りしめ、狂える兎と対峙する……兎が跳躍し、回転し、強烈な蹴りを放とうとした刹那――「ギュイッ!」と鳴き声を上げて兎が絶命した。
先ほどまで相対していた兎の肉体には深々と剣が突き刺さっている。最悪なのは、その剣の持ち主がどこからどう見ても人間ではないということだ。醜い猿の顔をした……獣人。ソイツは剣で串刺しにした兎に生のまま齧り付くと、ニタリと厭らしい笑みを浮かべながら咀嚼し始める。あまりに醜悪なその光景と、辺りに立ち込める血の臭いに俺は胃酸がこみ上げるのを感じる。
次の瞬間、俺は持てる力のすべてを振り絞って駆け出した。殺される――今頃になって死の恐怖が本格的に襲い来る。死んだらどうなる?死にたくない、死にたくない!
ご馳走を食べ終えたのだろう、後ろから先ほどの猿人が追ってくる気配を感じる。足がもつれて転びそうになる。逃げ切れない――。
「大丈夫か!?」
凛とした青年の声が聞こえたかと思うと、刃物同士が打ち合うような金属音が背後から響く。振り返ると、そこにいたのは鎧を身にまとい長剣を携えた青年の姿……その光景を最後に俺の視界は暗転し、俺は木々の葉の降り積もる地面に倒れこんだ。
野兎:たかが兎と侮るなかれ。その後ろ脚による強烈な蹴りは人間の骨など容易く粉砕する。あまりにワイルドすぎるその強さに並みの人間では太刀打ちできないが、討伐することができればその肉は良質な食糧となり、皮は装飾品の材料となる。魔王の影響により狂暴化する以前は人間を襲うこともなく、臆病なただの兎であった。