最終話 幼馴染と恋をしている
「わ~、綺麗な富士山ですね! ねっ、周平さん!」
「よく晴れてるなあ」
俺と朱里は二人して窓を覗き込み、遠くにそびえる日本最高峰を眺めていた。東京駅を発車した列車は快調に東海道を進み、静岡県に入っていた。最後かもしれないと思って眺めた富士山を、もう一度眺めることが出来たんだ。それも――朱里とともに。
あの一か月からおよそ七年が経過した。かつて俺たちがともに過ごした十四年という時間からすれば、半分に過ぎない。それでも、七年。七年に渡る思い出を紡いだ。二人では抱えきれないほどの記憶を、俺たちは共有することが出来ている。
あの時、俺は記憶を失った朱里とともに歩んでいくことを決意した。けど、高校生の俺が想像していたより、それは何十倍も辛いことだったのだ。
朱里は足と頭を怪我していたので、最初は歩くためのリハビリから始まった。かつて陸上部で走り回っていた朱里が、一歩を踏み出すのにも苦労していたのだ。その光景を見るのはあまりに悲しいことだった。
もっと大変だったのは記憶の方だ。全てを失ったわけではなかったが、それでも社会生活に必要な記憶まで断片的に失ってしまっていた。俺は常日頃から朱里に付き添い、いろいろなことを教えてあげた。何度言っても理解してもらえなかったり、嫌になった朱里にひどいことを言われたり。何度くじけそうになったことか。
しかし、日々の救いになったのもまた朱里の存在だった。ふとした瞬間、昔と同じ面影を見出すことがあり、その度に前向きになることが出来た。もちろん、本人にとっては昔の朱里と今の朱里は別人かもしれない。だけど俺にとっては、どちらとも愛すべき幼馴染なのだ。
それから、洋一や近江にもたくさん助けてもらった。朱里は二人のことも忘れてしまっていたが、洋一たちは根気よく接してくれていた。二人がいなければ、きっと俺と朱里は離れていってしまっただろう。
「あー! こらー、周平さん?」
「えっ?」
考え事をしていたら、窓際に座っていた朱里から怒られてしまった。今日の朱里は奇しくも「あの」デートの時と同じ格好。ピンクのロングスカートに白いニットを着用している。本当にモデルみたいだな。
「また『昔の』私のことを考えてましたね?」
「いや、そんなことは……」
「もー、浮気はダメなんですからね!」
「わ、分かってるよ……」
「そうだ、私お手洗い行ってきます!」
「うん、気をつけて」
朱里は俺の両足を乗り越え、トイレに向かっていった。幸いにも、日常生活に支障がないほどには足の怪我は治っている。だが頭の方は難しいだろうな。
「ふう……」
空いた隣席をちらりと見る。あの一か月があってから、三年が経ったころ。俺と朱里は――再び恋に落ちた。一から始めた割には短いような気もするし、長いような気もする。洋一たちには「もっと早く付き合えたんじゃないか」などと笑われてしまった。二人からすれば俺たちはずっと夫婦喧嘩をしているように見えていたらしい。他人からの評価というものは分からないものである。
怪我をしてから、朱里の恥ずかしがり屋気質はすっかり影を潜めた。それなりに社交的になり、俺に対してもいろいろと言うようになった。まあ、この方が頼りがいがあっていいかもしれない。
朱里は俺のことを「周平さん」と呼ぶようになった。ひょっとして「前の自分」に遠慮しているのかもしれないし、単に大人になったからなのかもしれない。だが慣れ親しんだあだ名で呼ばれないというのは、少し寂しいものがある。
「戻りました~!」
「おかえり、朱里」
朱里は再びぴょんと俺の両足を乗り越え、自分の席に戻った。それからカバンを探り、ウキウキでガイドブックを取り出していた。
そう、俺たちは旅行の真っ最中なのだ。海外旅行に行くための金は貯めていたのだが、朱里は京都に行きたいと言った。一緒に京都を再訪することを望んでいた俺にとっては、これ以上ない提案だった。もっとも、朱里には「昔の自分」と同じ場所を巡りたいという思いがあるのかもしれない。
俺たちにとって京都は思い出深い。朱里と俺の運命が分かれ、そして――全てが動き出した土地なのだ。たとえ今でなくとも、いずれは訪れることになっただろう。
それにしても、あの一か月は今でも信じがたい日々だ。なんと言っても神様(とは呼びたくないクソジジイ)のお告げを貰ったんだもんなあ。それがなければとっくに二人であの世行きだ。旅行先は天国より京都に限る。
「……どうした?」
「あ、いえ……」
ふと隣を見ると、朱里が神妙な面持ちで手元を眺めていた。そこにはガイドブックに挟まれた一枚の写真。修学旅行で訪れた清水寺にて洋一に撮ってもらったもので、俺と朱里が二人で写っている。
「ここに写っている私、すっごく楽しそうです。周平さんは間抜けな顔をしてますけど」
「おい」
「私、考えました。もし記憶を失っていなければ――今、どんな気持ちかなって」
「朱里……」
「きっと飛び上がるほど嬉しいんだろうなって。この頃の私は、本当に心から周平さんを愛していたんでしょうね……」
朱里は愛おしそうに、写真に写った自分の顔を撫でていた。一度、朱里が悲しそうに言っていたことがある。昔の私から周平さんを奪ってしまったみたいですね、と。少なからず引け目に感じているのだろう。だけど、俺は――朱里が隣にいてくれるだけで十分なんだ。
「なあ、朱里」
「なんですか?」
「大丈夫だよ。朱里が愛してくれていること、ちゃんと伝わってるからさ」
「周平さん……」
「せっかくの旅行なんだし、前向きに考えようよ」
「そうですね。ありがとうございます!」
朱里はニッコリと笑った。この笑顔は昔から変わらない。それこそ、出会った頃からずっと同じだ。これからもずっと――このままでいてくれよな。
***
「着きましたー!」
「おう、着いたなー」
そして、俺たちは京都駅の新幹線ホームに降り立った。修学旅行以来の京都か。相変わらず観光客が多いけど、それでも街の空気には不思議と惹かれるものがある。やっぱりいいところだな。
「最初はバスに乗るんでしたっけ?」
「うん、そうだよ。でもちょっと待って」
「えっ?」
「連れて行きたい場所があるんだ」
不思議な顔を浮かべる朱里の手を引き、階段を降りていく。俺があの一か月で後悔していること。それは――自分の気持ちに嘘をついて、朱里の勇気を裏切ってしまったことだ。今度こそはうまくいきますようにと、願いをこめる。そして、俺たちは目的地へと到着した。
「よかった、まだあった!」
「ここは……」
「そう。修学旅行の最後に、俺が告白の返事をした場所だよ」
俺たちが着いたのは、30番線ホームにあるベンチだった。当時から色あせてはいるが、たしかに同じベンチだ。あの時は涙を流して朱里の告白を断ることしか出来なかった。けど、今は違う。いろいろと準備もしてきたんだ。
「昔の私は、ここで……」
「うん。覚えていないかもしれないけど、お互いに泣きじゃくってさ。辛かったよ」
「そうだったんですね……」
朱里はじっとベンチを見ていた。いったい何を思っているのだろう。これもまた、俺の単なる自己満足に過ぎないのかもしれない。しかし、それでも。それでもこの場所しかないと思っていた。出会ってからここに至るまで、随分と待たせてしまったな。……こんな男でよければ、どうか。すっと片膝をついて、朱里の顔を見上げる。
「あれ? しゅ、周平さん?」
「俺は、あなたを……世界で一番愛しています」
「えっ? 嘘……」
開いた箱を掲げると、朱里は両手で口元を押さえた。ああ、本当に愛おしい。世界で一番の幼馴染だ。心から愛している。どんな運命が待ち受けていようとも、二人で乗り越えられると確信している。二十一年越しにようやく迎えた、俺たちのハッピーエンドだ。
「梅宮朱里さん、結婚してください」
――もう俺は泣かない。だって、その必要がないのだから。これからは明るい希望を持って、朱里とともに人生という長い道のりを歩んでいく。そのつもりで今日という日を待っていたのだ。
「……朱里?」
何も返事がないので、改めて顔を見上げる。朱里は目を見開き、感動しているというより驚いている感じだ。……なんかしくじったのか? 俺は思わず立ち上がってしまう。とほほ、せっかく京都まで来て――
「うわっ!?」
しかし次の瞬間、朱里が何も言わずに抱き着いてきた。ふわっと良い匂いが漂ってきて、柔らかな感触が俺の体を包み込む。思わず指輪を落としてしまうところだったが、なんとか堪えた。
「ど、どうしたんだよ?」
「……また」
「えっ?」
朱里は俺のことを強く抱きしめていたが、ゆっくりと顔を上げた。その満面の笑みを、俺はいつまでも忘れることはないだろう。そして――朱里の方も、忘れてはいなかったようだ。
「また来られたね、しまちゃん!」
これにて完結です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
良ければ評価や感想をいただけると嬉しいです。
詳しいあとがきは活動報告に書かせていただきます。
応援してくださった読者の方々には感謝しかありません。
本当にありがとうございました!




