第38話 告白の返事をする
電車に揺られながら、返事の言葉を考え続けた。何の悔いも残さぬように。思い残すことなく、この世を去れるように。朱里の思いを断ち切り、飛び立つことが出来るように。
思い返せば、長いようで短い一か月だった。朱里と洋一がくっついたと勘違いして、それから告白されて。野球の練習をしたり、デートに行ったりなんてこともあったな。何もなければ、ただの青春の一ページだっただろう。
しかし、朱里に待ち構えていた死の運命がそれを変えてしまった。俺はそれを肩代わりして、自分が死ぬ覚悟を決めた。――だけど本音では、朱里と生き続けていたかった。たとえ叶わぬ夢だとしても、だ。
「間もなく、終点の京都です。お出口は……」
アナウンスが流れ、電車が終着駅に近づいていることが知らされた。もともと学年全体の集合場所が京都駅だったし、ちょうどよかったな。
「降りよう、朱里」
「うん」
そっと席を立ち、手を差し伸べる。朱里が小さな手でそれを掴み、ゆっくりと立ち上がった。この優しい感触も今日で最後。五感で受けるもの全てが思い出と化していく。
電車のドアが開き、俺たちは一緒に降りた。他の乗客とともに、こ線橋に向かって歩いていく。洋一たちが来るのにはまだ時間がある。そして、俺が何を言うのかはもう決まっているのだ。
「……」
「……」
何も言葉を交わさず、二人で並んで歩いていく。朱里はやや緊張しているようにも見えるし、いつも通りの表情を浮かべているようにも見える。今、いったい何を思っているのだろうか。
「あそこ、座ろうか」
「……うん」
俺が指さした先は、京都駅の30番線ホームにあるベンチ。多くの人が行き交っているが、誰も座っている人間のことを気に留めないだろう。告白の返事をするにはうってつけの場所だ。
「よっこいしょ」
「しまちゃん、おじさんみたい」
二人並んで、ベンチに腰掛けた。俺が右で、朱里が左だ。思わず、はあと息をつく。やっと二人で落ち着いて話が出来る。誰にも邪魔はさせない。朱里と過ごした人生、その終着点となる場所にたどり着くことが出来たのだ。
「……」
「……」
再び沈黙が訪れる。落ち着こう。思いのたけをぶつけるんだ。共に歩んできた日々と、幼馴染に対する無限大の愛。そのすべてに決着をつける時が、今まさに訪れようとしている。そして、俺は――静かに、話し始めた。
「朱里」
「ひゃいっ!?」
「初めて会ったときのこと、覚えてるか?」
「……えっ?」
朱里は少し戸惑った後、天井を見上げて考えを巡らせているようだった。しかし間もなくして、苦笑いで口を開く。
「ごめん、覚えてないよ」
「あはは、俺もだ。……俺たち、それくらい昔から一緒だったんだよ」
「しまちゃん……」
幼稚園の頃からずっと一緒だった。二人で過ごすことが当たり前で、別々に過ごすことなど信じられなかった。長い長い人生で、ずっと苦楽を共にするのだと信じて疑わなかった。
「昔の朱里は体が弱かったよな。いつも家にいてさ」
「えへへ、そうだったね……」
「一緒に絵本読んだり、風呂に入ったりさ。覚えてる?」
「お、覚えてるけど! お風呂のことはいいじゃん!」
朱里は恥ずかしそうに顔をぶんぶんと振った。可愛い。本当に可愛い。世界一可愛い。……だけど、可愛いと思っていいのも今日までだ。振った相手に可愛いと言うなど、あまりに勝手な話だからな。
「小学校に上がってからはさ、朱里もそこそこ元気になったよな」
「うん」
「裏山とか、よく遊びに行ったなあ」
「懐かしいね。楽しかったよ」
目を細めて、昔を思い出す朱里。こうして、出会った頃からの記憶を一から紡いでいく。――その全てを清算するために。
「俺もすごく楽しかった。朱里と一緒だと、何をしても楽しかったよ」
「ほ、ほんと?」
「ああ。嘘じゃない」
「……ありがとう。嬉しい」
朱里は微笑みを浮かべる。その目からは、綺麗な液体がほんのりと零れ落ちそうになっていた。思わず立ち止まってしまいそうになるが、進むしかない。
「中学に上がって、朱里の背がどんどん伸びてさ」
「背?」
「うん。綺麗だなあって思ってたんだ」
「そ、そうだったんだ……」
再び顔を赤くして、朱里は静かに下を向いた。こんなこと、普段なら恥ずかしくてとても言えやしない。だけど修学旅行の高揚感と、何より死の運命が俺の心を駆り立てているのだ。
「高校に入ったあとも、朱里は真面目に陸上やってたからさ。カッコいいなって思ってたよ」
「そうかな……」
「ああ。そんで――朱里が『好きだ』って言ってくれたんだよ」
「!」
朱里は目を見開いた。幼稚園の頃から、ようやく高校時代にまで到達した。ここからが本題。俺と朱里は今日をもって分かたれる。後戻りは出来ない。
「あの時はすっごく驚いたよ。何も考えられなかった」
「……それで、学校をお休みしてたの?」
「ま、まあな。いろいろ考えてたんだ」
「そっか」
自らに訪れるXデーと、好意を明かしてくれた朱里への想い。その二つを天秤にかけ、今日まで必死になって考えてきた。ああ、今でも朱里のことは好きだ。大好きだ。心から愛している。大好きなのに――口に出すことが出来ない。
朱里、お前はもう俺のことなど気にするな。今日をもって嫌いになってくれてもいい。それでも、ほんの一ミリだけ。心の片隅にだけでも、俺との思い出を置いていてくれたら。わがままで自分勝手な願いだけど、どうか。
もう俺たちは一緒に歩けない。これからは二人で違った道を進んでいく。だが、俺の行く先は行き止まりだ。朱里にはずっと続いていく道が用意されているんだ。迷わず突き進んでくれ。それが――幼馴染を置いて旅立つ、俺の心の救いとなるのだから。
「朱里」
「……うん」
「出会ってから今まで、本当にありがとう。朱里がいたから、俺の人生は本当に豊かだった」
「しまちゃん……」
「精一杯の心を込めて、返事をするよ。だから、どうか……よく聞いていてくれ」
「分かった。お願い」
朱里は目を瞑った。これが俺たちにとって最後の言葉。朱里にとって、俺から言い渡された「遺言」とも言える。本当に好きだった。これ以上好きになれないと思うくらい、大好きだった。だけど、ここで終わり。朱里、俺はお前の死を抱いて――先に行くよ。
ごめん、付き合えません。
――言葉になっていたのか、分からない。口をぱくぱくと動かしていただけかもしれない。それでもたしかに伝えた。俺は逃げる。朱里の感情から逃げたくて、つい俯いてしまう。終わった。全てが終わった。
「……」
「……」
三度の沈黙。もう顔を上げることなど出来ない。ずっと向こうのホームから、電車がやってきた音がする。きっと洋一たちが乗っているのだろう。修学旅行も、俺と朱里が過ごした日々も。ここで終わりなんだ。
「……っ、ぐっ……」
左から聞こえてくる、嗚咽する声。こうなることは分かっていた。だけどもう戻れない。俺の選択は、朱里を振ることだったのだから。その選択に間違いは――
「しまちゃん……」
「……なに?」
「私ね、私っ……!」
「うん」
「実はね、気づいてたの……!」
「えっ……?」
「返事を延ばされたときにね、もしかしたら振られちゃうのかなあって……!」
「朱里……」
ああ、そうだったのか。朱里だって分かっていたんだ。
「デートだって、二人で行けなかったし……! しまちゃん、私のことを……避けてたし……!」
「あ、朱里……!」
自分の中途半端な行動が、朱里を深く傷つけていた。どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。……いや、気づいていたのに、目を逸らしていただけなのかもしれない。
「でも、でも……! しまちゃん、ずっと優しかったから……!」
「……」
「私ね、信じてた……! でも、ダメだったら諦めようかなあとも思ってたんだ……」
「そうか……」
今更何を言えたことだろう。俺はもう、朱里のことを振った人間。慰めることも励ますことも出来ない。
「だけどさあ……!」
「えっ……?」
朱里の声色が変わった。俺は思わず顔を上げてしまう。目の前の幼馴染は、目を真っ赤に腫らし、文字通りの大粒の涙を流していた。こんな泣き顔を見たのは初めてかもしれない。その原因が自分だと、信じたくはなかった。
「ねえ、しまちゃん……!」
「……」
何も言わない。いや、言えない。どんな罵詈雑言でも受け入れる覚悟だ。それくらいのことをした自覚はある。だけど――朱里の言葉は予想外のものだった。
「諦めらんないじゃん……!」
「へっ……?」
「だって、だってさあ……!」
朱里は手で頬を流れる涙を拭いながら、必死に言葉を紡いでいた。俺はその時、ようやく自分の過ちに気が付いた。そう、俺は――
「しまちゃんがそんなに泣いてるなんて、おかしいじゃん……!」
自分の感情を抑えることが、出来ていなかった。振る側の人間なのに、制服を濡らすくらいの涙を流していたのだ。ああ、やっと分かった。
大好きな幼馴染からの愛を拒むことなんて、出来るはずがなかったんだ。
「梅宮ー!」
「周平ー!」
その時、遠くの方から近江と洋一の声がした。朱里はハッと目を覚ましたように立ち上がり、駆け出していく。
「あ、朱里!」
俺も反射的に立ち上がったが、追いかけることは出来なかった。朱里は洋一たちの横をすり抜けるようにして、遠く遠くへ駆けていく。それと入れ替わるようにして、近江と洋一が俺のもとに走ってきた。
「嶋田!」
「お、近江……」
「アンタ、よくも梅宮を――」
近江は右手を振りかぶった。ここは甘んじて受け入れるしかない。近江たちにも悪いことをしたのだ。一発殴られるくらいは――
「やめろ由美!」
だが、洋一がその右手を掴んだ。そのまま羽交い締めをするようにして、近江のことを宥めている。だが近江の方も必死の抵抗だ。
「洋一、悔しくないの!?」
「いいから! 周平が決めたことだろ!」
「そうだけど! アンタは――」
「俺らが口を出すところじゃない! 落ち着け由美!」
必死に言い合う二人を見ながら、呆然と立ち尽くした。ああ、俺は失敗したんだ。幼馴染と別れて、何の後悔もなくあの世にいく。そんな芸当、俺には無理だったんだ。
ふと、胸ポケットからガラス玉を取り出してみる。いろいろと無茶をしたせいか、いつの間にかヒビが入っていた。まるで俺と朱里の関係を象徴しているみたいだ。……なんて、な。
自嘲するように、下を向く。俺の命日まで――あと、五日。




