第36話 舞台に上がる
「ひーっ、待ってくれい……」
「もー、しまちゃん遅いよー!」
「周平、日頃から少しは運動したら?」
息を切らしながら、清水寺の参道を必死に登っていく。周囲は観光客だらけで、もう十一月だというのに蒸し暑い気すらする。帰宅部には酷な状況だな……。
「清水寺がこんな坂の上だなんて知らなかったよ」
「あんな舞台を作るなら山の上に決まってるじゃないか」
「たしかに、さすが洋一」
「誰でも分かるよ」
それにしてもしんどいな。呼吸は苦しいし、心臓が何かで潰されそうな感じがする。洋一の言う通り、普段から体を動かしておけばよかった。……いや待て、この苦しさはどう考えても異常だ。
「ちょっとしまちゃん、顔青いよ? 本当に大丈夫?」
「悪い、ちょっと待たせてくれ……」
心配した朱里が立ち止まってくれて、ハンカチで額の汗を拭ってくれた。おかしいな、いつもはこんなに汗をかかないのだけど。それにいくら帰宅部とは言えども、ここまで体力が弱かった記憶はない。
「あ……」
「ど、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
思わず声を出したら怪しまれてしまったので、慌てて否定した。よく考えれば、
俺はあと五日でこの世を去る人間なんだ。ましてやその原因は心臓。既に何かの異常が起きていて、俺の身体を蝕んでいても不思議ではない。
確実に「死」が迫っていることを身に染みて感じる。朱里や洋一は心配そうに俺の方を見ているが、その顔色は良好。少なくともあと数日で死にそうな様子ではない。まさしく健康な若者の肉体そのものだ。
それに対し、俺はどうだ。坂を登ることすらおぼつかず、周囲に遅れを取っている。このまま置いていかれ、この世から――
「行こう、しまちゃん!」
不安で心が苛まれていたその時、朱里が手を差し伸べてくれた。俺はハッと目を覚まし、その手をつかみ取る。そうだ、まだ俺は生きている。困った時に助けてくれる幼馴染が、隣にいてくれているんだ。
「ありがとう、朱里」
呼吸を整えて、再び前に進み始める。少しずつ、しかし確実に前へ前へと。人ごみをかき分けながら、小さく愛おしい手を頼りに、清水寺を目指して歩いていった。
***
「着いたー!」
「おお~……」
苦しい思いをしながら、ようやくたどり着いた。目の前に広がるのは市街地を一望できる美しい眺め。京都は澄んだ秋の空に良く似合う。そう、ここはかの有名な清水の舞台だ。
「きれーい!」
「すげえ」
「意外と高いのね~」
周囲の観光客たちも様々な反応を見せている。周りから押し合いへし合いされていて大変だが、この景色は本物だな。死ぬ前に来ることが出来て本当に良かった。これを瞳に焼き付けてからあの世に行けるのだから、ある意味では幸せ者かもしれない。
「しまちゃん、あれ京都タワーじゃない?」
「あっ、本当だ」
「ここからでも見えるんだねー」
「けっこう大きいんだなあ」
隣にいる朱里と、京都の景色を眺めてあれやこれやと会話を交わした。ふと横を見ると、朱里の黒髪が風に揺れている。綺麗な景色によく似合うな。
「な、何見てるの?」
「えっ?」
「そんなに見られると、恥ずかしいんだけど……」
つい見惚れてしまっていると、朱里の顔が耳まで赤くなっていた。なんだかこちらまで恥ずかしくなってきて、目線を下げてしまう。あんまり可愛い幼馴染ってのも考えものだな――
「お二人さーん!」
「「えっ?」」
後ろから聞こえた声に二人して振り向くと、洋一が携帯を構えていた。こちらが反応する間もなく、洋一はシャッターを切ってしまう。
「よし、撮れた!」
「ちょっ、不意打ちすんなって!」
「ほら、見てこれ!」
洋一は携帯の画面を見せてきた。そこに写っていたのは、きょとんとしている俺と、ばっちりカメラ目線の朱里。くっそー、なんだか締まらない写真だな。
「あはは、ありがとうございます!」
「梅宮さんはちゃんと写ってるのになー、周平がなー」
「うるせえ!」
俺は再び絶景の方に顔を向けた。やっぱり修学旅行は楽しい。この四人でここに来られて良かったと、心からそう思う。
「しまちゃーん」
「ん?」
「隙ありっ!」
声のした方を向いた瞬間、パシャっという音が聞こえてきた。戸惑っていると、朱里は携帯の画面から顔を上げ、いたずらっぽく微笑む。どうやら撮られていたらしい。
「おいおい、朱里まで……」
「だって撮りたかったんだもん! いい写真でしょ?」
「ほんと?」
画面をのぞき込むと、たしかに自然な笑みを浮かべた俺の顔が写っていた。俺、朱里の前ではこんな顔をしてたんだな。……たった今、幼馴染に対する自分の思いを再認識させられた気がする。
「その写真、俺に送っておいてくれ」
「うん、いいよー!」
朱里は携帯を操作していた。奈良公園で用は済んだと思ったけど、こっちの写真でも良いかもしれない。まあ、それは旅行が終わってから考えようかな。俺にとって、青春と死は隣り合わせ。この思い出とともに飛び立つ準備も進めなければならないのだ。
舞台のある本堂を後にした俺たちは、音羽の滝に向かった。山から湧き出た水が三本の筧に分かれて流れていることで知られる名所だ。その滝から流れる水を飲むことで、ご利益にあずかることが出来るというわけだ。
「うわー、すごい人だね」
「並んでるなあ」
よく知られたパワースポットなので、今日も参拝客が長蛇の列を形成している。俺たち四人も最後尾に加わって、自分の番を待っていた。滝の流れ落ちる音が心地いいな。
「ねえ梅宮、あの滝ってなんのご利益があるの?」
「んーと、長寿とか恋愛成就とからしいですよ」
「……あっそ」
近江は滝の方をじっと眺めていた。この二人にとって「恋愛成就」という語は重要なのだろう。でもまあ、近江は縁結び神社の娘だしな。自分のとこの神様をもってしても洋一とは付き合えていないのだし、今更この滝のご利益なんて信じないのかもしれない。
だんだん列が進んでいき、俺たちの番が近づいてくる。何を願ったものかな。やっぱり長寿かな、あと五日で死ぬけど。せっかく京都まで来たのだから、せめてもの抵抗といくか。
「周平? 前進んでるぞ」
「あ、ああ」
洋一に押されるようにして歩を進めた。消毒の機械からひしゃくを取り出し、滝の方に出す。右端の滝に俺、真ん中に朱里、左端には洋一と近江。俺は滝の水を受け止めたひしゃくを持ってきて、手に注いでそっと飲んだ。
「ふう……」
口に入った液体が、あっという間に喉を通過していく。冷たく、そして美味しい水だ。身も心も清められたような気分になる。おっと、後ろがつかえているんだったな。
ひしゃくを片付けて、俺はその場を後にした。他の三人もすぐにやってくる。
「ねえしまちゃん、何をお願いしたの?」
「長寿かな」
「へえ……」
「朱里は?」
なんとなく問うたのだが、朱里は不意を突かれたように目を見開いた。そして何も答えないまま歩き出してしまう。
「ちょっ、朱里?」
「ばかあ。……分かってるでしょ」
その顔は見えなかったが、きっととても可愛らしい表情をしていたに違いない。ああ、惜しいなあ。
「周平ー、置いていくなよー!」
後ろから洋一たちが小走りでやってきた。おっと、すっかり朱里に夢中だったな。などと反省していたのだが、二人が追い付いた瞬間――近江がさりげなく、それでいていつもよりさらに低い声で俺に耳打ちした。
「アンタ、ひどいことするね」
――その言葉は、深く深く俺の心にのしかかった。浮かれていた気分が消え失せ、一瞬で現実へと引き戻される。そうだ、俺はこれから酷いことをしなければならないんだ。
朱里との時間は、あと僅かしか残されていなかった。




