第30話 鹿にも挨拶する
京都駅から貸し切りバスに乗り、奈良に到着した。班ごとの自由行動ということで、俺たちは奈良公園を訪れている。紅葉の季節ということもあって園内には観光客が多くいるが、その数を上回りそうなほどの鹿も闊歩している。朱里は呑気に草を食んだりしている鹿を見て、興奮を隠せないでいた。
「しまちゃん、鹿さんだよー!」
「鹿だなあ」
鹿である。恋の神から遣わされたのはいらっしゃらないようだ。まことに残念。
「お二人さーん」
声のした方を向くと、そこにいたのは鹿せんべいを手に持った洋一と近江。どうやらまとめて買ってきてくれたらしい。気遣いの塊だなあ。
「梅宮さん、あげてきなよ」
「すいません、ありがとうございます!」
「ほら、周平も」
「おうよ、サンキュー」
朝からクヨクヨしていたけど、今更どうにかなるものじゃない。最後の旅行だ、思いっきりエンジョイしないとな!
「朱里、行くぞ!」
「わっ、急にどうしたの?」
「鹿に挨拶だよ!」
俺は朱里の手を掴み、鹿の群れに近づいていった。周りには他の観光客も多くいて、給餌を楽しんでいるようだ。
「鹿さんがいっぱーい……」
「朱里ー、こっち見ろって!」
「んー? あっ、可愛い!」
せんべいを差し出そうとしたら、鹿が俺たちに向かってお辞儀してくれたのだ。いつだったかチンアナゴにしたのと同じように、俺と朱里はペコリと頭を下げる。
「ほーれ、せんべいだ」
「わっ、食べた……!」
そして俺の手から奪い取るようにして、鹿がせんべいを食べてしまった。パリパリと音を立てて咀嚼している。ふと周りを見渡してみると、洋一たちが俺たちの方を見てけらけらと笑っていた。なんだ、意外と大丈夫そうだな。
あの二人はかつて付き合っていたという。恐らくは近江から一方通行の愛だったのだろう。だが洋一だって、全く何も思っていないというわけではない気がする。自分の班に引き入れるだけの心配はしているわけだし。まあ、それが「好き」のレベルに到底届かないというだけなのかもしれないが。
「ちょっ、しまちゃーん!?」
「ん、どうした?」
「囲まれてるよ!?」
「えっ?」
気が付けば――俺は鹿の大群に囲まれていた。いつの間にか朱里は遠くに行っており、心配そうにこちらを見ている。鹿たちは次のせんべいを寄越せとばかりに俺の身体を小突く。……あれ、もしかしてヤバい?
「周平ー、大丈夫かー!?」
洋一も遥か彼方から声を掛けてくれている。が、いくらサッカー部のフォワードでもこの状況は打開できないらしい。当たり前である。相手チームの選手に角が生えてたりしないもんな、サッカーは。……なんて、呑気なことを考えている場合じゃない!
「残りは全部やるからさ、逃がしてくれないか……?」
手持ちのせんべいを次々に配りながら、なんとか鹿と交渉を試みる。が、こつこつと角を当ててくるだけで聞く耳を持たないらしい。鹿の耳に念仏。フンに釘。ここで取るべき選択肢は一つ!
「うおおおお!!」
「し、しまちゃんどこ行くの!?」
「周平!?」
群れに出来た僅かな隙間を見つけ、猛然とダッシュする。ここは逃げるが勝ち! 先手必勝だ!
「うわあああ!?」
だが鹿の足も速い! 普段は人に馴れ馴れしいくせに、こういう時に限って野生動物の顔を見せてきやがる! 恐るべし奈良公園!
「しまちゃーん……!」
「周平ー……!」
二人の声が遠くなっていく。後ろから追いかけてくるのは茶色の毛をまとった獣たち。ああ、愉快。人生とはなんて愉快なんだろう。鹿に追いかけられるなんて滅多にあることじゃないもんな……。
***
「もー、ボーっとしてるからでしょー!」
「すまんすまん、気をつけるよ」
やっとの思いで皆のところに戻ると、珍しく朱里に怒られることになった。洋一はくすくすと笑っており、近江は気だるげに鹿にせんべいをあげている。俺はというと、制服についた泥や草を払っていた。結局追いかけられた挙句に転んでしまったのだが、鹿のフンがないところだったので命拾いした。やれやれ。
「そうだっ、四人で写真撮らない?」
「いいですねー!」
洋一は携帯を手にして周囲を見回し、近くを歩いていた観光客に声をかけていた。撮影係を頼んでいるらしい。何気ないけど、見知らぬ人に臆することなく頼み事を出来るってすごいことだよな。俺、同じ立場だったらちょっとビビるもん。
「ほら、周平も由美も並んで!」
「ちょっ、押さないでよ洋一」
「近江さん、もっと寄ってくださいよー!」
洋一に促されるままに隊列を組む。左から俺、朱里、近江、洋一という並び。ああ、青春ど真ん中って感じだ。すると、シャッター係を買って出てくれた方が口を開いた。
「すいませーん、草まみれの方がもっと真ん中に来ていただけると……」
「あっ、はーい」
「周平、それでアルバムに残る気か~?」
「仕方ねえだろ!」
「あはは、しまちゃんったらおかし~」
「あっ、撮りますよ!」
笑い声が響きわたったところで、ちょうど良く鹿が俺たちの前を通った。その瞬間、撮影の方が気を利かせてシャッターを切ってくれたようだ。
「あの~、こんなもんでいかがでしょう~?」
「ありがとうございます~!」
洋一は携帯を受け取り、撮った写真を確認していた。その画面をのぞき込んでみると、四人とも笑った顔で写っている。珍しく近江まで微笑みを浮かべているな。そんなに「草まみれの方」が面白かったのかな……。
「大丈夫です!」
「よかったです~! 修学旅行、楽しんでくださいね~!」
そんな言葉を残し、撮影してくれた方は去っていった。旅先でのコミュニケーション、これほど快いものはないかもしれない。やっぱり人生は愉快だ。……っと、忘れるところだった。
「洋一、俺の携帯でも撮ってくれないか?」
「何を?」
「なんていうか、俺一人の写真」
「いいけど……珍しいな、お前がこんなことするなんて」
「ん、まあな」
俺は携帯を洋一に渡し、笑顔を作ろうと努めた。きっと三人にはわざとらしい笑みに見えているだろう。
「しまちゃーん、表情が固いよー?」
「うるせえよ!」
「じゃあ、撮るぞー!」
朱里にからかわれながら、レンズに向かって目線を送ると、洋一がシャッターを切ってくれた。写真を確認してみたが、画角、表情ともに文句ない。さすがだな。
「これでいいか、周平?」
「ああ。ありがとな」
やや不思議そうな顔を浮かべつつ、俺に携帯を返す洋一。悪いな、こんなこと手伝わせてしまって。心の中で詫びをいれながら、すうと息を吸い込んだ。
「よし、そろそろ行くか!」
「うん!」
朱里とともに、奈良公園を歩いていく。木々は紅く染まり、秋の風が心地よく吹き抜けている。隣を歩くは世界一の幼馴染。なんて良い人生なんだろう。このまま――続いていけばよかったのにな。




