killtime
事故を見ると人は興奮するものだ。めったに見れない光景、ただならぬ雰囲気に人は酔い、魅了される。
それが他人事ならば。
工藤はその日、大学の帰りに人だかりの前を通りがかった。
人々が口々に何かを叫び、あるいは囁いている。雑然とた空気に何事だろうと駆けつけてみると、電柱にバイクがぶつかり大破し、その横には血まみれの男性が横たわっていた。
工藤とどこか背格好が似ている。もしかしたら同じ大学生、少なくとも同年代だろう。
男性は全身に擦り傷がみられ、顔を覆うフルヘルメットからは血が滴っている。思わず生唾を飲み込んだ。
男性の横にはヘルメットをつけた女性が膝をつき、わぁわぁと泣き叫んでいる。目を外すと道路の脇にバイクがもう一台、ツーリングでもしていたのだろうか。
ムクムクと工藤の心臓を熱いものが沸き、さか撫でる。見たこともない光景に全身が棒になる。工藤が感じているのは恐怖でも憐れみでもなく、鼓動を確かに早める好奇だった。
カシャリ。
と、耳元で硬質な音が瞬いた。次に感嘆がこぼれる。
「すげー……」
周囲を見渡すと、何人かが携帯電話を手にし、カメラ機能で写真を撮っている。それを互いに見せあっては、きゃあきゃあと騒ぐ女子供までいる。
それを目にした瞬間、工藤は急いで携帯電話を握りしめ、取り乱す男女に傾けた。
カシャリ。
ぶれてしまった、もう一度。
カシャリ。
カシャリカシャリカシャリ。
「とっ、取らないでよ! 誰か、誰でもいいから救急車を呼んでよぉ!」
悲痛な叫び。画面の中で、男性の痛々しい姿を隠すように女性が庇う。
しかし興味の対象となってしまった今、それは無駄な抵抗であった。不謹慎という言葉は、人々の好奇心と群衆心理を前にして脆くも消え去っていた。まるでそんな言葉は最初からこの世になかったのだというように、彼らは見世物と化していた。
四方八方、シャッター音が男性の姿を克明に捕らえ納めてゆく。野次馬が視線を注ぐ先は、無機質な機械と画面上の男女。彼らにとってけして同等の位置に立つ存在ではない。
悲しみと怒りに狼狽する女性と、絶え間なく血を流し続ける男性ではなく、ただの刺激的な絵なのだ。
人が増えてきた。写真が取りづらくなり、致し方なく工藤は携帯電話をポケットにしまった。その場を立ち去る。女性の怒声が虚しく響くなか、工藤は友人に画像を添付したメールを回し始めた。
「昨日のメールすごかっただろ」
翌日。大学での講義の最中にも、工藤が出す話題は事故の話であった。
「グロすぎだし。ってかあんなん送ってくんなよ」
友人が笑う。工藤もまた笑う。
「マジすごかったし」
状況を思い出しながら大袈裟に表情を変える。世の中の多くの人がそうであるように、工藤の話し方はどのような内容でもよく似ていた。しかし今日は更に大胆に、身ぶり手振りを加える。
「そんでさ、ツーリングしてた女がさぁ……」
異変は唐突にやってきた。
工藤が更に詳細を舌で繰ろうとしたとき、背中を妙な感覚が舐めていった。脊柱を下から上に、おたまじゃくしが泳いでいくような、気色の悪さがあった。
思わず、振り向く。
「どした?」
工藤はこの感覚をどこかで知っていた。なんだろうと脳内をまさぐり、すぐに思い至る。
「見られ……」
「え?」
背中を掻きながら、
「や、なんか見られてる感じがして……」
「こわっ。お前、写メなんか取ったから、祟られたんじゃねーのっ」
おちゃらけて友人が指をさす。
「変なこというなよっ」
友人の動作にふっと気持ちが和らいだ。工藤は友人と同じように顔をニヤニヤと歪めると、携帯電話に机においた目を落とした。
が、また妙な感覚が走った。再び振り向くも、やはり工藤を見る者はいない。
「……ぁんだょ」 気のせいなのか。声を出してしまえば非現実な感覚は簡単にまどろみ、消え失せた。しかし講義が終わるまで、工藤は後ろをけして見なかった。
講義を終えてから一人、トイレに駆け込む。急いだためだろう、ひとけはなかった。
工藤はひとつだけ深い呼吸をすると、携帯電話をポケットから取り出した。二つ折りをパカッと開き、昨日の画像を確認する。
彼がとった写真は三枚。一枚目は男性の血まみれの姿が、二枚目は女性の泣きすがる姿が、三枚目は男女の姿をまとめて撮っている。しかし三枚目はぼやけて、あまり様子が解らない。
興奮しながら撮った写真だが、時間をおいて見ると友人がいうようにあまりにもグロテスクだった。冷静になってみると、何故こんなものを保存しているのか、自分のことなのによく分からなくなり、気味が悪くなる。熱に浮かされたとしかいいようがない。
消そう。
そう思い立ち、工藤は削除するべくボタンを押した、……が。
「なんだよ、コレ」
いくらボタンを押しても、不思議なことに画像は消えなかった。動作をやり直し、再びボタンを押す。しかし。
「なんだよ、コレェ!」
削除を実行しているはずなのに、さも当然のように画面を占領する画像。
苛立ち、工藤が叩くようにボタンを押すと、ようやく変化は起きた。
削除……ではない。
「え?」
あまりのことに工藤は震えた。全身から汗が吹き出て、氷のように固まった。あり得ない、何故ならば。
見る見るうちに、画面が赤く染まってゆく――。
カシャリ。
工藤はまたあの異様な感覚に振り向いた。硬質な音がどこからともなく響く。
カシャリ。
ふいにトイレの電灯が力を弱め、瞬いた。薄暗い中、目にしたのは更に信じられない光景だった。
血まみれのフルヘルメットが、出入り口の真ん中に浮かんでいる。
強烈な悪寒がせりあがる。断続的なシャッター音は次第に感覚を狭め、大きくなっていた。
確実に、ゆっくりと、近づく。
耳元で鋏を閉じられるような、生理的な嫌悪を生む音。次第に膨らみ、容赦なく鼓膜をつんざく。
血が滴っていた。気づけば水溜まりとなっていた。フルヘルメットの黒いシールドの中に何かがあった。強烈な、鋭すぎる光が。
見ている。
「うあああああああああッ!!」
絶叫し、工藤はトイレの窓を開けて携帯電話を放り出した。
五階。カシャン、と地面で粉々に砕ける音が響く。
そして工藤は踞った。無意識に祈っていた。色々なものにすがっていた。絶叫しながら。激しく喘ぎながら。
やがて、肩を叩かれた。
「うわぁ! 脅かすなよ!」
飛び上がって見やると、友人が体を反らし目を丸めていた。「なにわめいてんの? いやホントいっちゃったわけ?」
じとっとした訝しい瞳に、工藤は
「虫」と腰をあげる。
「マジでかい虫いた」
「ゴキ?」
「そうゴキ、イニシャルG」
「峠攻める系?」
友人が僅かに口許を緩めたところで、工藤はその肩を叩いた。……何もない。誰もいない。
これはヤベェ、お祓いってやつなのか?
工藤は自身の大きすぎる心音を危機ながら、友人の背中を押した。 奇妙な出来事は続くかと思われた。しかし喜ばしいことに、工藤の不安は杞憂となった。携帯電話が破損して以来、異様なフルヘルメットが現れることはなくなった。
フルヘルメットを納めた画像が携帯電話とともに壊れたためだろうか。理由は定かではないが、少なくとも工藤は携帯電話の破損を理由に納得し、悩むことも悩まされることはなかった。
そればかりか彼にとってこの出来事は、自分の良い話の種となった。
携帯電話で事故現場を撮ったらとり憑かれたという話は、語れば語るほど彼の優越感を刺激し、体験の恐怖を薄れさせてくれる。
他人の関心の的となることとは、彼にとって最大の関心であり幸福なのだ。
「でさ、携帯新しくしたワケよ」
学生食堂でカレーライスを掻き込みながら、話を終える。さりげなく卓上に置いた新品の携帯電話を指差した。
「てか超すごい、いいなぁ。あたしもそういうのしてみたいかも」
「えー。私はヤだぁ。でもフォーンシリーズ買えちゃうなら考えるー」
一緒に食事をしていた二人の女生徒のうち一人が、黄色い声をあげながら携帯電話に手を伸ばした。
「触ってもいいですかぁ」
「いいよいいよ」 気前よく工藤が了承すると早速、女生徒は携帯電話を開く。
「これカメラの機能、デジカメ並みなんですよね。試していいですかぁ」
「いいよ」
早速、女生徒は工藤に携帯電話を向けた。
「はい、とりまーす」
カシャリ。
シャッターがおりる。もう過ぎ去ったこととはいえ、少し寒気を覚えた。まだ心のどこかで恐怖心は燻っているのだ。
「いいの撮れたかなぁ」と、女生徒が画像を確認する。とたんにその表情が……曇った。
「あの」
携帯電話を工藤に差し出し、青ざめながら唇をわななかせる。
「せっ、先輩の横に、血まみれのヘルメットが……!」
――カシャリ。
「きゃははははははッ!」
女性特有の、甲高い声が弾けた。何事かと工藤は目をしばたく。
「ベストショットじゃん。先輩かわいい〜、本当に怖がってる!」
女生徒二人はご満悦に視線をあわせると、再び腹を抱えた。手には携帯電話。工藤を窺うわけでもなく、中に納めたのであろう怯える男を確認する。
しばらく唖然としていた工藤であったが、数秒の後ようやく何が起こったのか理解した。
「ふざけんなよ……」
「え?」
自分でも驚くほど声は低く小さく、こもった。きょとんと反応を返され、我に戻る。
「やっ、ふざけすぎっしょ〜」
「ごめんなさ〜い」
可愛く手を合わせられたものの、内心は苛々していた。早々に誤魔化して立ち去りたい気分となって、まだ半分近く残るカレーライスの脇にスプーンを置く。
「じゃ、俺はこれで……」
立ち上がろうとしたとき、携帯電話が歌い始めた。最近落としたばかりの曲だ。
「先輩、電話」
渡されて携帯電話に目を落とすと、電話番号が表示されていた。名前でも団体名でもない、つまり携帯電話に未登録の者からの電話である。
「誰だろ」
携帯電話を投げ捨てたとき、登録していたすべてのデータを失ってしまった。友達の協力でデータを登録し直したものの、中学時代の同級生のデータなどは殆ど入っていない。
「はい、工藤でーす」
工藤はなんの躊躇もなく、携帯電話を耳に当てた。
「…………」
ブチリ、と無言のまま切れた。
「なんだ?」
とるのが遅かったろうかと思っていると、再び電話が歌った。
「工藤ですけど」
今度もまた無言電話だ。微かに人の吐息のような音が聞こえ、すぐに切れる。二度、続いた。
「なんなんだよ……」
あまりの無言電話の数に苛立っていると、また。
「はい! 工藤ですけど!」
声が荒くなった。気にせず話を進める。
「どちらさんすか!」
「工藤……」
ボソリとくぐもった男性の声。ようやく、電話の向こうの相手を掴む。
「いやだから、何の用だよ」
「あなたは人間のクズですね」
「は?」
たった一言を告げて電話は一方的にまた切れた。何が起こったのか理解できずしばらく頭が働かなかったが、
「ふざけんなよ……ッ」
カッと頭に血がのぼり、工藤は着信履歴を開いた。こちらから電話をかけてやる、そう考えて開いた。
が、工藤は言葉を失った。
着信履歴はすべて、別の電話番号が並んでいた。
「え……」
つまりこれは複数。別の人物がそれぞれ電話をかけてきたのか、電話を大量に所持しながら工藤に電話をかけてきたのかは分からない。しかしさすがに異常だと、工藤はようやく気づいた。
また電話が工藤を呼ぶ。
「先輩どうしたんですかぁ」
「やぁ、ちょっとね……」
薄気味悪さを感じて、工藤は電話を切るとすぐさまサイレンとモードに設定した。
電話は絶えず。無音のまま光輝き、着信を知らせる。それは午後の講義でも止むことはなかった。もう電話に出るつもりはなかったが、自分に何が起こっているか解らないうすら寒さが背筋を撫ですさる。
講義を終え、急いで帰路についた。なるべく人の多い道を選び、商店街を通る。
黄昏時特有の、橙色の光を浴びながら、
工藤の頭にはあのことが膨らんでいた。
――画像。
この異常を呼んでいるのは画像しかない。それしか工藤には考えられなかった。
『お前は人間のクズだ』
重低音のくぐもった男の声が耳に貼りついて離れない。それはトイレで見た血まみれのフルヘルメットと重なり、何度も何度も蘇り、責める。
「俺がなにをしたっていうんだよ……」
ただ写真を撮っただけだ。そもそも写真を撮ったのは自分だけではないはずだ。なぜ自分なのか。
「もう画像もってねぇのに、なんでだよ……」
工藤は怯えきっていた。早く家に、家にと足が進む。
――瞬間。
「ひぃっ」
十字路の真ん中に足を踏み入れたとき、あの感覚がまた走った。すばやく背後を向く、が。無論そこにあるのはただの商店街。
「うぅっ!?」
まただ。今度は脇から。しかしやはりそこにも、買い物客しかいない。だが妙な視線の感覚は、尚も工藤を突き刺していた。背後からだけではなく、四方八方から――。
たまらなくなり、工藤は脱兎の如く走り出した。帰宅しても独り暮らし、誰もいない。一人にはなりたくない、一人になったら何をされるか。
工藤は絶え間なくランプを点灯させる携帯電話を取り出すと、電話がかかってくる間を見計らい、友人に片っ端から電話をかけ始めた。
出ろ、出ろ、出ろ。
しかし祈りは通じず、電話には出てくれない。
頼む、頼む、頼む――。
「もしもしッ、比留川か!?」
やっと電話が通じ、工藤は懇願するように声をあげた。
「助けてくれ! 誰かに見られてるみたいで、気持ちが悪」
「あの……」
すがった果てに返ってきたのは、まったく聞き覚えのない声だった。
工藤は自身の過ちに気づいた。かけたのではない。間違って、出てしまったのだ。
全身が震える。脂汗が滲む。工藤は携帯電話を耳につけたまま体を固めた。
そして……。
カチャリ。
パチン。
ドサ。
工藤は一人、自身の部屋にいた。玄関の電気だけをつけると、よろよろと歩き出す。
まず最初にしたのは、パソコンの電源を入れることだった。
軽やかな音を奏でながらパソコンが立ち上がる。デスクトップの光が青ざめた工藤の顔を照らす。
電話から聞こえてきたのは、実に柔和な男声だった。予想外なほど優しい声に驚いていると、『あなた大変なことになっていますが、知っていらっしゃいますか』と男声は切り出した。
キーボードを叩き、工藤はネット上のあるページを開いた。そこにはいくつかの動画と、画像がおいてある。
動画のひとつを工藤は開く。
流れてゆくのは覚えのある光景。
『今すぐネットを観覧して下さい』
工藤はスクロールした。そこには目を疑うような文章が踊っている。
それを見、工藤は膝をついた。
3番:工藤光
電話番号:080―××××―××××
住所:……
こいつは被害者を助けることなく携帯で撮り続けていた
現場で笑いながら
『あなた、晒されてますよ』
その場に崩れる。予期していなかった事態に、工藤はうずくまり震えるしかない。彼にできることは少なく、彼は非力である。
敵はあまりにも多い。工藤の住む街にも潜むほどに。
そしてなにより強大だ。
「俺は……俺は……」
工藤は喘ぐ。ネット上にぶちまけられた自身の姿はあまりにも滑稽だ。デスクトップの向こうにいる人物たちにとっての、格好の餌食。
あの事故現場で自分がそうであったように、彼らは狂喜し、画面の中に工藤という映像を納め、その群衆心理を高め続けるだろう。
人は簡単に人を侮蔑し、傍観者にも断罪者にもなれる。逃げられはしないのだ、彼らが忘れるまで。彼らに些細な用事ができるまで。
全ては、真に愉快な他人事である。
2009年執筆