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壱の9 役員の娘から依頼

「どこに遊びに行っとったんか」

 思い出したかのように父が言った。父のビールはどんどん減っていくが、すき焼きの鉄鍋にはあまり手を出さない。

「城山」

 校則で出入りが禁止されているゲームセンターのことは言えない。

「城山か。岡村先生はおったか」

「いなかった。それよりさ、石段があるじゃん、百段の。あそこを上るバイクがあるんだって」

「見たか」

「見てない。看板が立ってた。バイクで上り下りするなって書いてあった」

「そういう種類の単車が昔からある」

「おれも早くバイク乗りたいよ。なん歳になったら免許取れるの」

「十六歳だろう」

「あと五年もあるのか。長いなあ」

 五年なんてあっという間だと父が話している途中に、なにかが激しくぶつかる音がした。昌子が泣き出した。父は口をつぐんだ。なにが起こったのかおれは一瞬で理解した。母が発狂したのだ。

「なんでそんな暴走族のようなことをしたいね。なにがバイクか。なにが免許か」

 カセットコンロとその上のすき焼きの鉄鍋が視界をさえぎりよく見えないが、おれの正面に座る母は自分の目の前の器をひっくり返したようだ。すき焼きの黒いだし汁が、昌子のピンク色のセーターにかかっている。だし汁は、昌子が下半身を突っ込むこたつ布団にも垂れている。


 母は、最初に弱い者を攻撃する。被害に遭うのはいつも昌子だ。それを、父に効果的に見せつける。おれに当てつける。


「死んだ(もん)の家からお金を恵んでもらって、それがうれしいんか。汚らわしい。すき焼きなんか食べんでいい」

 畳の上に置いていた薄切り肉の包みを母はつかんで、昌子の顔に向かってたたきつけた。肉は昌子の眼鏡に当たり、こたつ布団の上に落ちた。

「この家はだれが頭金を出したね。言うてみんさい」

 視線をそらして舌打ちをするだけで、父はなにも言えない。頭金は母の実家の祖父が出したと、おれは母から何度も聴かされている。

「耕ちゃんは、算数も国語も通知表は五ばっかりやってね。テストもいつも、九十点、百点。あんたはどうね。恥ずかしいと思わんね」

 耕ちゃんの通知表なんて知らない。見たこともない。おれの通知表を耕ちゃんに見せたこともない。テストの点数も知らない。

 母は立ち上がり、どこからかハンドバッグを持ってきて、逆さにして中身をぶちまけた。中身はこたつ板の上に収まらず、周囲に飛び散る。バッグから出てきた薬袋を母は乱暴に開け、錠剤やら粉薬やらを取り出した。

「これは精神安定剤。これは睡眠薬。全部飲んで死ぬ」

 昌子の泣き声が大きくなる。母は錠剤をシートから順番にすべて押し出し、大げさに口に放り込み、がりがりと音を立ててかじる。くちびるに薬の粉末がこびりついている。大きな目玉をずっと父に向けている。父は視線をそらしたままだ。

「昌子、汽車に飛び込むよ。一緒に死ぬんだよ。さあ来なさい」

 セーターの胸のあたりを汚されたままの昌子は、狂った母に腕をつかまれ、こたつから引きずり出される。しゃくりあげながら、なすすべもなく狂った母に従う。

 大きな足音と昌子の小さな足音を残し、二人は玄関を出ていった。おれは、グラスに残っていた黄色い液体を飲み干した。苦い。グラスには泡だけが残った。

「きちがいだから。こらえてくれ」

 おれのグラスに半分ほどビールを注ぎながら父が言った。母の自殺が狂言なのはいつものことだから、父は慌てない。

「父さんはなんで、あんなきちがいと結婚したんだ」

 これまでにも何度か尋ねてみたことがある。毎回、答えは違っていた。

「農協の偉い人に頼まれたんだ。白木しらきさんっておばさん、知らんか」

 知っている。母の遠縁だと聴かされた。白木さんの息子は学業成績が優秀で有名な大学に通っていると、母は必ず当てつけがましく言う。白木という具体的な名前が出てきたということは、父親の話に信ぴょう性があるのではないかとおれは思った。

「白木さんって、農協と関係あるのか」

「うん。あのおばさんのおとっつあんが農協の役員をしとった。役員の娘の頼みだから断れんかった」

「父さんは断りたかったのか」

「うん」

「なんで。きちがいだからか」

「ああいう病気とは聴かされてなかった。病弱だってごまかされた。だけど、役員の娘がわざわざ平の職員に頼みごとをしてくるってことは、なにか事情はあるんだろうとは思うたよ」

「きちがいだって分かってどうして断らなかった。なんで離婚しなかった」

「役員とその娘の顔をつぶすことになるからな」

「おれと昌子が生まれなかったら、父さんは自由になれたんじゃないか。農協なんて辞めちまえばよかったのに」

「信之と昌子はおとうの宝だ。産んでくれたおかあには感謝しとる」

「おれもきちがいになるのかな。もうなってるのかな。生まれついてのきちがいなのかな」

「大丈夫だ。信之はお父似だ。昌子もだ。なんも心配せんでいい」

 父は腕を伸ばしてきて、おれの頭を手のひらで乱暴になでた。


 母の実家から経済的援助を受け、父はがんじがらめになっている。そして精神病の母は、父が携わる葬儀屋のまね事を忌み嫌う。農協を介して夫婦になったはずなのに、母は、父の仕事をさげすむ。

 役員の娘直々の依頼であることや金銭の援助を受けている負い目によるのももちろんだが、父は性格的なものが原因なのであろう、現実から目をそらす。おれと昌子を守る術を知らない。おれと昌子がどんな目に遭わされているのかを直視しようとしない。


(「壱の10 キテレツ大百科」に続く)

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