壱の8 すき焼きの肉
出掛ける時にはなかった父親の車が、自宅の庭にある。おれは自転車を物置小屋に収め、いつものように無言で無施錠の玄関から家に入っていった。玄関のたたきに、白い粒が散っている。母親が父親に向かってまいたお清めの塩だ。
居間のこたつでは、すき焼きの支度が整っている。
「葬式だったん」
こたつでビールを飲んでいた父に聴いてみた。
「おう。七十五歳のじいさんだったぞ」
ビールのせいであろう、父の顔は赤く染まっている。
父が勤める農協は、組合員農家を顧客に葬儀屋の業務を請け負っている。おれは葬式というセレモニーに出席したことがないから、そこでどんなことが執り行われるのか見当が付かない。父は、葬式のある家に農協のワゴン車で棺おけを運ぶのだと言っていた。
葬式にはいろいろな職業の人が介在して、それを取り仕切り交通整理するのが農協の役目だそうだ。棺おけを作る業者があって、亡くなった人を棺おけに入れて火葬場に運ぶ霊きゅう車の業者がある。その一部を、父のような農協職員が行う。
だから、亡くなった人には対面するけど、その体に触れたりはしないという。だけど葬式を出す家は、決まって業者に「心づけ」を渡すのだそうだ。
心づけは、葬式に出席した人たちによる香典から捻出される。香典は、亡くなった人の家族を通じて、父の勤める農協のような業者に正規の料金やら心づけやらの形で巡ってくる。
縁起の良いお金ではないから父たち農協職員は、もらった心づけを家に持ち帰ることなく消費する。父は同僚職員の受け売りで、葬式で心づけを受け取ったらすき焼き用の肉を買って帰っていた。
「身内が死んだら、しばらく肉も魚も食べちゃいけないって言われてるんだよ。だからこそ肉を食べて、うちは死んだ人とは関係ありませんよって世間にアピールしてる」
そんなふうに父が言っていたこともある。
おれは手を洗ってからこたつに着いた。四角いこたつ板を、両親とおれと、三つ下の妹、昌子が囲んだ。こたつ布団をめくってひざを押し込んだが、中はひんやりしている。電源が入っていない。
「信之、飲むか」
「うん」
父は最初からそのつもりで用意していたに違いない、こたつ板の上の伏せたグラスを返し、おれに持たせビールを少しだけ注いだ。
「泡だけだぞ」
「うん」
父は言うしおれは応じるのだが、ビール瓶から泡だけグラスに注ぐことは難しく、グラスから泡だけ口に含むことはさらに難しい。小学生の息子にビールを飲ませるという父の戯れに、母はなにも言わない。
おれは学校でクラスの何人かに、親からビールを飲まされることがあるか尋ねてみたことがある。全員があると答えた。耕ちゃんも、あると言っていた。しかし、あると答えた同級生のほとんどは本当はそんなことはなくて、大人ぶりたい一心で飲酒体験を創作しているのではないかと、おれはにらんでいる。
ただ、少なくとも耕ちゃんは飲んでいる。部屋にウイスキーのミニチュアボトルが何本も飾られていて、時々、内容量が減っていたりボトルの種類が変わったりする。だけど、おれの前で耕ちゃんは飲まなかったし、おれに勧めることもない。たばこも吸っているようだけど、酒と同じように、おれの前では吸わないし、おれに吸うよう求めることもない。
ビールは苦く、ちっともおいしいとは思えない。でも、おれは知っている。父がおれにビールを注ぐのは、自分の飲酒に対する母の批判をかわすためだ。おれを共犯者に仕立て上げようとしているのだ。
肉がぐつぐつ煮えだした。おれは、晩飯がすき焼きだと知った時から気がめいっていた。腹が裂け内臓をはみ出させた死んだ猫の姿がちらちらと頭に浮かんだ。
「はしが進まんね。なんか食べてきたん」
昌子のために煮えた具材を取り分けながら、母が言った。猫のことよりも、耕ちゃんに肉まんをおごってもらったことの方がよけいに、おれを無口にさせた。
白状すれば耕ちゃんを追い込むことになる。母は校則違反の買い食いを追及し、そのお金の出どころである耕ちゃんを糾弾するのは明白だ。耕ちゃんに受けた恩義を両親に打ち明けられないのが、おれはつらい。
だけど、耕ちゃんはそのことを理解してくれているはずだ。おれの母が精神を病んでいることを、耕ちゃんは知っている。おれが話したわけではない。そうなんだろうと耕ちゃんから指摘されたわけでもない。ただ、きっと察している。そして、知らないふりをしている。
(「壱の9 役員の娘から依頼」に続く)