壱の7 流れに飛び込む
遠くでサイレンが鳴った。
「五時か」
耕ちゃんがつぶやく。日がずいぶん傾いている。
「風が冷たくなったね。おれ、そろそろ帰ろうかな」
両手で自分の腕を抱き震えるような仕草を武しゃんはした。
「帰ろう。晩飯の時間だ」
耕ちゃんが同意したから、おれたちは解散することにした。
帰宅方向が異なる武しゃんは別れ際、自転車を降りて深々と頭を下げ、耕ちゃんに肉まんの礼を言った。
武しゃんの何倍も、何十倍も深く頭を下げなければならないほどの恩義がおれは耕ちゃんにある。でもこれまで、武しゃんのようなきちんとした礼を耕ちゃんにしたことがない。無礼な自分が情けない。
「信ちん。マシンを取り換えっこしないか」
予期せず、耕ちゃんが言ってきた。耕ちゃんがこの愛車を手に入れた時、少しの距離だけ、おれは運転させてもらったことがある。足がまったく地面に届かなかった。
「いいのかよ」
おれは、いぶかった。
「自分のマシンが走ってるシーンを離れた場所から見てみたいんだ」
耕ちゃんはそう言うが、前回より少しは身長が伸びたはずのおれに、大切な愛車を厚意で貸してくれるつもりなのは明白だ。
おれは、耕ちゃんの自転車にまたがった。相変わらず足は地面に届かない。それでも両脚でペダルをスムーズに回転させることに問題はなさそうだ。
十段変速のシフトノブが、すねの内側のフレームから左右二本平行に伸びる。でも、走りだして何度シフト操作をしてもギアがどこに入っているのか分からない。
おれの自転車に乗った耕ちゃんは、前になり、後ろになり、おっかなびっくりおれが操る耕ちゃん自身の愛車を眺める。おれの二二インチを駆る長身の耕ちゃんは、いつかテレビで見たサーカスのサルが小さな自転車に乗っているようで、その不釣り合いさがこっけいだ。ジャンパーの銅の部分の色が、赤いちゃんちゃんこを着せられたサルのイメージをよけいに増幅させる。
道路に沿って流れる用水路に、二年生くらいの子どもたちが石のようなものを投げ込んでいるのが見える。
前を走る耕ちゃんがブレーキを操作した。おれもブレーキレバーを握って停車し、地面に届かない足をガードレールに預けた。
「なにしとるん」
耕ちゃんが子どもたちに声を掛けた。
「猫」
石を投げていた子どもの一人は答える。
足をガードレールに掛けたままのおれは、ガードレールの向こうの用水路をのぞき込んだ。白い物体が流されている。動かないそれは、確かに猫だ。
薄汚れた白い毛色をしている。背泳ぎのようにあおむけで、眼と口を大きく開いている。四肢はいずれも空に向き、それぞれ不自然に「く」の字に曲がっている。
「げぼげぼっ。おまえらが殺したんか」
耕ちゃんは子どもたちを責める。
「違うよ。最初から死んでた。死んだまま流れてきた」
子どもの一人が弁解した。よく見ると、猫の腹は裂けそこからチューブのような細長い内臓がはみ出している。内臓も薄汚れた白色だ。
「けんかしてやられたんかな。相手は犬とかのでっかい動物かもしれんね」
子どもたちに教えるように、耕ちゃんが言う。子どもたちは流される猫を追い、用水路を伝っていった。耕ちゃんの帰路とおれの帰路の分岐点は、もう間もなくだ。
「耕ちゃん、ありがとう」
おれは、耕ちゃんの自転車を降りた。
「うん。武しゃんがここにいなくてよかったよ」
「なんで」
耕ちゃんの安堵の理由が、おれには分からない。
「流されてる猫を見たら、武しゃん、喜んで飛び込むぞ。死んだ猫を拾って持って帰ろうとするかもしれん。マシンのかごに乗せてさ」
確かに武しゃんならやりかねないと、おれは思った。電話ボックスの漏電を気持ちいいと言ったり、高架下で汽車が振りまく乗客の小便を浴びようとしたり、寺の鐘に潜り込んで突かせていた武しゃんの異常ぶりに、おれも耕ちゃんも驚かされていたから、耕ちゃんの言うことはもっともな話だ。
耕ちゃんと自転車を交替した。自分の自転車がひどく小さく、ペダルが重く感じられる。
おれたちはその少し先で、自転車に乗ったまま、「またあした」とあいさつを交わして別れた。肉まんの礼を言うのをおれは忘れてしまっていた。
(「壱の8 すき焼きの肉」に続く)