弐の4 鼓膜が破れる
城山は、紅葉が映えている。百段あるという石段を、上る者も下りる者もいない。
「先生んちはどこ」
武しゃんはきょろきょろしている。
「あそこだと思うんだけどさ。武しゃん、こっち方面にはあんまり来ないでしょ」
耕ちゃんが指を差した先に、古い作りの民家がある。
「来ないねえ。先生んちに行く前に、ここ上ってみようよ。鐘があるんでしょ」
武しゃんの希望を聴き入れ、おれたちは石段を上ることにした。上り口に、縦長の看板が立てられている。
《オートバイでの上り下り禁止》
黒いペンキ文字は、授業で岡村が板書する筆跡と似ている。
「なにこれ。この石段を上ったり下りたりするバイクがあるってことなのかな」
おれは驚いた。
「あるから禁止してるんだろ。モトクロスなら簡単に上れる」
耕ちゃんが分析した。
石段を上り下りするバイクをおれは見てみたくなった。タイヤがごつごつして細い車体のモトクロスというタイプのバイクが路上を走行しているのを目にしたことはあるが、四十五度近い傾斜を持つ石段を駆け上がる性能があるとは知らなかった。
「自転車じゃ無理かな」
武しゃんが言いだした。
「無理」
耕ちゃんは即答する。
「耕ちゃんの十段変速でも?」
「絶対、無理」
「下りるだけでも無理かな」
「無理、無理」
武しゃんならやりかねないと、おれは思った。耕ちゃんもその危険性を察知し、自分の愛車を実験台に使われるのを未然に防ぐような言いぶりだ。
自転車は三台とも石段の一番下に置いて施錠した。おれと武しゃんは、自転車のタイヤをロックしてかぎを抜いた。耕ちゃんは、ダイヤル式チェーンで地面に刺さる看板の脚に自転車をつないだ。
「耕ちゃんの自転車にはかぎが付いてないのか」
「おれのマシンは高級品だし重さも軽いからさ、かぎを掛けててもそのまま盗まれちゃうんだ。こうやってつないでおかないと」
武しゃんが疑問に思うことを、おれはずっと前から知っていた。耕ちゃんはこの自転車を手に入れた時から常に盗まれないようどこでもチェーンを使ってなにかにつないでいる。
三人で石段を上っていく途中、岡村が住むという民家を見下ろした。すべての窓にカーテンが掛かっているようだった。
「見晴らしがいいねえ」
城山の頂に着いて、武しゃんは感激している。
「学校の校舎がちょびっと見えるだろ。向こうからでも、音楽室の窓からだとこっち側のてっぺんが見えるから」
耕ちゃんが解説する。
「そうだねえ。双眼鏡を持ってくれば良かった。ここに来るって分かってりゃ用意してきたのに」
電話ボックスの漏電に吸い寄せられた超能力者のような武しゃんなら城山に来ることを事前に予測して双眼鏡を準備することも可能かもしれないと、おれは、おかしな妄想にとらわれた。
鐘が設置されている四本柱と屋根だけの建物の周りには、幼い子どもを伴う家族連れが一組いる。石段を上る際、不規則に鐘の鳴る音が聴こえていたから、上に人がいることは分かっていた。音が不規則で、それが岡村ではないであろうともおれは推量していた。
武しゃんは、うずうずしているようだ。家族連れが去ってから、すぐに鐘に駆け寄った。わらをねじって作ったようなひもでV字につるされた突き棒から、さらに垂れ下がるひもを、武しゃんは全身で力を込めるように深く引く。突き棒を支えるV字のひもが、みしみしと音を立てる。引いた反動で、突き棒は鐘に強く打ち付けられる。大きな音が鳴った。
「いい音だあ」
感心した武しゃんだったが、鐘を突いたのはその一度だけだ。音に感心すると、武しゃんは鐘の下に潜り込んで上半身をすっぽり鐘の内側に隠した。
「突いてみて」
鐘の中の武しゃんの声はこもっている。冗談で言っているのだろうと、おれは看過した。
「耕ちゃん、突いて」
武しゃんは鐘から出てこない。
「信ちん、突いて」
おれは耕ちゃんと顔を見合わせた。
「武しゃん。そんなことしたら、鼓膜が破れるぞ」
至極まっとうなことを耕ちゃんは言う。
「大丈夫。耳を両手でふさいでるから」
武しゃんのこもった声が聴こえる。本当に耳をふさいでいるのか、鐘に隠れて腰から上が見えないから分からない。
「武しゃん。どうなっても知らんぞ」
突き棒のひもを少しだけ引いて耕ちゃんは軽く鐘に打ち付けた。武しゃんは満足しない。
「もっと強く。手加減しないで」
最初より少しだけ深く耕ちゃんはひもを引き鐘を鳴らした。もっと強くと求める武しゃんの要求を、耕ちゃんは受け入れなかった。おれも手を出さなかった。武しゃんはあきらめて鐘から出てきた。
「耳、大丈夫かよ」
心配そうに耕ちゃんが尋ねる。
「うん、気持ち良かったよ。健康にもいいと思う」
電話ボックスの漏電やら、高架下の霧やらに対するのと同じような感想を武しゃんは述べた。
(「壱の5 つる科植物ミニチュア模型」に続く)