参の1 担任教師を殺して埋める
家の前の車道の端に昌子が一人でしゃがんで、石のようなものでなにかを地面に描いていた。
ちょうつがいの緩んだ眼鏡を掛けている。空気が冷たいからだろう、両手のひらに交互に息を吹きかけている。おれの姿を認めると、昌子は立ち上がりそのまま家に駆け込んだ。
「お母さん、兄ちゃんが帰ってきた」
おれが帰ってきたら知らせろ、それまで外で見張っておけと命じられていたのであろう。母が玄関先に駆け出てきた。
「岡村先生はちゃんと学校に来とった? 無事やった?」
耕ちゃんが電話で聴き取ったのと同じようなことを、母は言った。発狂した時の目つきだ。表情だ。おれはなにも答えない。
玄関のたたきにはだしで下り、母はおれの両手首を自分の両手でつかんで強く揺すぶる。
「暴走族と一緒になって、岡村先生を殺したんじゃないん? 城山に穴を掘って埋めたんじゃないん?」
電話を受けた耕ちゃんが言っていたことの意味が分かった。担任の岡村を殺して埋めたのではないか。耕ちゃんもそれに加担しているのではないか。母は、耕ちゃんにもそう詰問したのだ。
朝はおかしくなかった。働きに出ているわけではないから昼寝をして、息子が凶悪犯罪を起こす夢でも見たのに違いない。
おれは母の手を振りほどき、二階の自分の部屋に上がっていった。
郵便ポストを模した赤い円柱型の素焼きの貯金箱を振った。じゃらじゃらと小銭が鳴る。底の黒いゴムのふたを外し、中身を机の上にばらまく。一円硬貨、五円硬貨、十円硬貨、五十円硬貨、百円硬貨が出てきた。合わせて八百円ほどになる。耕ちゃんに借りていた五百円を返すだけの財産はあったのだ。
硬貨を全額、財布に移し、履いていたジーパンの尻のポケットに突っ込んだ。
階段を上がってくる母の足音が聴こえる。手袋を探した。見つからない。母が部屋に入ってきてなにか言おうとしたのを振り切り、おれは階段を駆け下りた。
玄関で靴をつっかけかかとを踏んだまま物置小屋に走り込み自転車を引っ張り出す。振り返らなかった。自転車に飛び乗った。
耕ちゃんとの仲もこれでおしまいだと覚悟した。あれほどの母の精神の異常さに接した耕ちゃんが、これまでのように、知らないふりをしてくれるはずがない。見ていて見ないふりをしてくれることなんてありえない。だけど、借りているお金だけは返さなければならないとおれは思った。
変速機を一番ペダルが重くてその代わりに速度が出るギアに切り替えた。耕ちゃんの家に行くつもりだ。借りているお金を返すためだ。
途中、用水路のそばを通った。前の日の夕方見た猫のことを思い出した。死んでうらめしそうに空を見上げていた猫は、どこまで流されたか。
武しゃんがいなくてよかったと、耕ちゃんは言った。死んだ猫を武しゃんが見たら持ち帰ろうとするだろうとも言っていた。
でも、武しゃんのやりそうなことの方が正しのではないかと、おれは思い直した。
死んだ猫は子どもたちに石を投げられ、おれと耕ちゃんから見放された。武しゃんなら丁重に弔ったかもしれない。人が亡くなった時のような葬式を上げてやったかもしれない。
おれは針路を変えた。用水路の流れに沿って自転車を走らせた。
五時のサイレンが近くで鳴った。いつも聴こえるけど、どこで鳴っているのか知らなかった。
用水路は広い川につながっていた。前の日に肉まんの包み紙やホットコーヒーの空き缶を流して捨てた川の下流だ。おれは、川に沿って死んだ猫の行方を追った。
川はいくつもの支流と合わさり、どんどん広くなっていく。流れる水量が大きくなる。
対向車がヘッドライトをともしだした。赤いテールライトの車が、排気ガスを吐きながらおれの自転車を追い抜いていく。自転車のライトをともすと発電機の抵抗でペダルが重くなるし、車のヘッドライトよりずっと暗いから意味はなかろうと思い、無灯火のままペダルをこいだ。
とんでもない思い違いを、おれはしているのではないか。
ペダルをこぎながら考えを巡らせた。死んだ猫を見捨てた耕ちゃんは、実はおれのこともずっと前から見捨てているのではあるまいか。
毎日つるんで下校して、部屋に上げて一緒に遊んで、五百円を貸して、母親の精神病のことを秘密にしておく。そうすることで弱みを握り、おれを利用しているのかもしれない。暇つぶしの相手におれはちょうどいいのだ。
いいや、違う。
おれはかぶりを振った。視界で車の赤いテールライトが大きく左右に揺れる。
耕ちゃんは親友だ。おれの心のよりどころだ。耕ちゃんがいなければ学校は楽しくない。耕ちゃんが守ってくれなければ、母が精神病だと学校中であからさまにされてしまう。人が死んだ家から恵んでもらったお金で父が肉を買ってきてすき焼きをしているのだと後ろ指を差される。
(「参の2 セットアップ・ポジション」に続く)