壱の10 キテレツ大百科
母と昌子がいつ帰ってきたのか、おれは知らない。アメリカで制作されたテレビの連続ドラマ『チャーリーズエンジェル』を父と二人だけで見てから寝た。
明けた月曜の朝は、母は正常な精神状態に戻っていた。昌子は睡眠不足のせいなのか覇気がない。
学校では休み時間に武しゃんが、電話ボックスの漏電について熱弁を振るった。クラスの男の何人かが、放課後公園に行って確かめる計画を立てだした。おれも耕ちゃんも誘われたけど、きのう見たし触ったからもういいと、二人とも断った。
おれと耕ちゃんはいつものように一緒に下校し、いつものようにおれは耕ちゃんの家に寄った。仕事に出ている耕ちゃんの両親も保育所に預けられているという年の離れた弟も家にはおらず、耕ちゃんが玄関のかぎを開ける。
二階の耕ちゃんの部屋で、オセロゲームを始めた。カーペット敷きの床にボードを置いて、おれと耕ちゃんは向かい合った。
耕ちゃんはこの日もオーバーオールを着けていた。前の日、プラスチックのバットで「五年生の当たり」を見せつけた時と同じように、つりひもの片方だけボタンから金具を外している。胸当てが外向きに折れ曲がって垂れさがり、裏地が三角形になって見える。
「電話だな」
耕ちゃんが先に気づいた。下の階のベルの音はおれの耳にも届いた。耕ちゃんは電話に出るため立ち上がり部屋を出ていった。階段を早足で下りる音が聴こえる。
目の前のグリーンのボードに、おれは見入った。耕ちゃんが白のこまを角に置けば、黒のおれは負けが確実な状態にある。
耕ちゃんが部屋に戻ってきた。
「信ちんちのおばさんだった」
おれは立ち上がろうとした。耕ちゃんの家で道草を食うのはいつものことだから、早く帰ってこいという母からの指令の電話なのだと思った。
「いや、電話は切れたよ」
耕ちゃんはおれを制する。
「あれ、そうなの。なんか言ってた?」
「うん。岡村先生は学校に来てたかって。来てたって答えた」
「おれのことは」
「いつもお邪魔して申し訳ありませんって。ぼくが引き留めて遊び相手になってもらってるんですって言っといた」
「そうか、ありがとう」
「うん」
耕ちゃんはボードの向こうに再び腰を下ろした。
片膝を立てている。金属仕掛けのボードにぴったり吸いつきずれないよう内部に磁石が埋め込まれたオセロのこま十枚ほどを重ねて、片手でかちかちと器用にくっつけたり離したりしながら、ボードを見つめている。長時間、見つめていた。見つめているようだった。
角を取ってボードの黒いこまの大部分を白く反転させられる耕ちゃんはしかし、まったくこまを読んでいなかった。
「信ちん」
「うん」
「きょうはもう帰った方がいいような気がする」
「なんで」
「なんとなく」
「どういうこと」
耕ちゃんが言うことの意味がおれには分からない。家の事情で一緒に遊べない時には耕ちゃんは、必ず正直に話す。なんとなく帰った方がいいと言われたことなどない。
「信ちんちのおばさん、普通じゃなかった。さっきの電話で」
「……そうか」
来るべきものが来たのだと、おれは観念した。荷物をまとめた。耕ちゃんは玄関まで見送ってくれた。
「信ちん。オセロ、あのままにしておくから、続きはあしたの放課後、やろう」
おれはもう耕ちゃんには会えなくなるのではないか、少なくともこれまでのように親しく付き合うことはできないのではないかと予感した。
耕ちゃんがおれの家に遊びにきてくれたことは何度もある。人気漫画家、藤子不二雄の作品『キテレツ大百科』が、農協が組合員農家と職員のために配布する子ども向け月刊誌に連載されていた。書店には売っていない雑誌だから、少年誌の新刊を毎号買いそろえている耕ちゃんにも入手できず、うちに通ってきて読んでいた。その月刊誌は昌子との共有財産なので、おれは家から持ち出すことができない。
ところが『キテレツ大百科』はその年の七月号で最終回を迎え、それ以来、耕ちゃんはうちに寄りつかなくなった。
原因は『キテレツ大百科』の最終回だけではないとおれは思っている。母の精神病に感付いたからだ。耕ちゃんは、危険を察知したのだ。
そして、そのことをおれに悟られないように気を使っている。友達の母親が精神病だと知ってしまったら、友達との付き合いに問題が生じる。その問題を生じさせないよう、耕ちゃんは、なるべくおれの母親と接する機会を排除することにした。知らないふり、見ないふり、聴かないふりをして、おれとの付き合いを維持しようとした。
◇ ◇ ◇
(「弐の1 シャボンの泡のにおいでしょ」に続く)