序 / 壱の1 校則違反ロードマン
序
アイドルグループ「キャンディーズ」が解散すると言いだしたのは、人気を二分する「ピンクレディー」に負けたからに違いない。
プロ野球、読売巨人軍の王貞治選手がホームラン世界記録七百五十六本を達成したナイトゲームの時間帯はまだテレビ中継が始まっておらず、七時半の放送スタートでいきなりその瞬間の収録映像を見せつけられ、おれは面食らった。
他人のプレイ画面を眺めているだけのゲームセンターはつまらない。耕ちゃんはまだお金に余裕があるようだ。おれの財布は空だった。
「貸してやろうか」
オーバーオール右前のもものポケットをたたいて、耕ちゃんは言った。アメリカ発祥のジーンズメーカーのだぼっとしたオーバーオールは、耕ちゃんによく似合う。
「いや、いい。この前のもまだ返してないし」
おれは、耕ちゃんに五百円の借りがある。
「もう出よう。昭和書房に行こうぜ。漫画の立ち読みしに」
耕ちゃんの提案におれは同意した。
一七〇センチという小学五年生にしては極端に背の高い耕ちゃんが店外に続く出口に進むと、そろって見かけない顔で隣町の中学生らしい不良少年数人が道を開けた。
耕ちゃんに二〇センチ以上身長を離されているおれは、とぼとぼ付いていく。髪を金色に染めた不良少年たちは、おれをにらんでいた。
街灯の鉄柱につないである自転車のチェーンロックを、耕ちゃんはダイヤルを合わせスマートに外す。おれはジーパンのポケットからL字型の簡素なかぎを取り出し、自分の自転車をがちゃがちゃと乱暴に開錠した。
耕ちゃんの愛車は、二六インチの『ロードマン』で十段変速のギアが付いている。その上、学校で禁止されているドロップハンドルだ。
おれのは二二インチの五段変速。セミドロップハンドルだから、教師に見つかっても怒られない。おれは、さっそうと走る耕ちゃんを追ってペダルをこいだ。
体格や身のこなしからどこでも年かさに見られる耕ちゃんに、おれは、憧れのような嫉妬のような複雑な感情を抱いている。耕ちゃんと行動をともにしている限り、学校でも街でも怖い物なしだ。耕ちゃんと友達でいられることが、おれにとって誇りだし、耕ちゃんは、嫌なことに巻き込まれないための守り神のような存在でもある。
でも、おれは耕ちゃんにはなれないし、耕ちゃんなしでは常にびくびくして生きていかなければならない、弱い存在だ。
かりかりと軽やかに、耕ちゃんはギアをシフトアップしていく。おれは、真ん中の「三速」で巡行した。タイヤの径が違うから、同じギア比でも耕ちゃんの一こぎの方が距離を稼げる。
「あれ? 武しゃんのマシンだ」
商店街の裏手にある公園入口で、耕ちゃんが気づいて減速した。見覚えのある、変速機がない代わりに前かごが付いている武しゃんの自転車が止まっている。少年誌で連載されているバイク漫画の主人公が愛車を「マシン」と呼ぶのに影響されたようで、耕ちゃんは、だれの物でも自転車のことをそう呼ぶ。
武しゃんは、二基並ぶ電話ボックスの前で地面に膝をついてなにかをしている。電話に用があるふうではない。
「武しゃん、電話か」
愛車にまたがったままの耕ちゃんが声を掛けるまで、武しゃんはおれたちに気づかなかった。
「耕ちゃん。信ちんも。なんしとるん」
信之というおれの名前は、学校では信ちんで通っている。
「昭和書房に行くところ。武しゃんも一緒に来んか」
耕ちゃんが誘った。
「そんなことよりさ、大発見しちゃった。ここ触ってみな、すごいぞ」
武しゃんは膝を地面についた姿勢のまま、電話ボックスの土台のセメントに両手を当てている。
「なんなんだよ」
耕ちゃんは愛車を降り、サイドスタンドを立てた。
「片手をこっちに、もう片っぽをこっちに」
武しゃんが耕ちゃんに説明する様子を、おれは、自転車にまたがったまま見ていた。
「痛っ。なんだこれ」
片膝を立ててしゃがんでいた耕ちゃんは、両手を引っ込めた。なにが起こったのか、おれには分からない。でも、耕ちゃんの驚きぶりは普通ではない。おれも自転車を降り、サイドスタンドを立てた。
「信ちんも触ってみ」
武しゃんがやっと立ち上がって、おれに向かって言った。耕ちゃんは、右手で左手の指を、左手で右手の指を一本一本点検している。
「痛いのか」
おれは武しゃんと耕ちゃんの顔を見比べて聴いてみた。
「痛いよ」
耕ちゃんが答えた。
「痛くないよ。気持ちいいよ」
武しゃんは逆のことを言う。
おれは武しゃんに導かれ、二基の電話ボックス土台の片方に右手のひらを、もう片方に左の手のひらを、同時に当てた。びりびりと両手のひらがしびれた。
「なんじゃこりゃ」
おれも耕ちゃんと同じように、両手を引っ込めた。
「気持ちいいだろ」
武しゃんは笑っている。
(「壱の2 赤いスタジャン」に続く)