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ワン・アイデア・ストーリーズ  作者: 八雲 辰毘古
半径5メートルの非日常
7/26

強い思想と弱い思想

「よし、明日こそ早起きするぞ」


 そう強く念じて、ベッドに入った翌朝は見事な目覚めだった。目覚ましが鳴る前に目を開き、スマートフォンに触れることなく布団を剥がす。

 カーテンを開けると、全世界が自分の早起きを祝福したかのような素晴らしい日差しが青年の部屋を照らし出している。


「うーん、やっぱり早起きは良いなー」


 早起きなんてしたのはいつぶりだろう? きっと中学・高校で体育会系の部活にいたとき以来じゃないのか。その時は母親に起こされて、しぶしぶ起きて、ときどき朝ご飯を抜いてまで朝練習に参加したものだった。

 しかし、二十歳を超えたいま、自分は珍しく自分の意志で目覚めた。その成功体験は、青年の見えていた世界を塗り替えたのだ。


 この変化のきっかけはその時ハマったビジネス・インフルエンサーの動画だった。


〝朝は脳の黄金時間なんですよ。それを二度寝して過ごしているなんてあり得ない〟


 それまでその日暮らしのように給料を使って、休日にアニメを観ていれば満足していたはずの青年は、たまたまSNSで友人がシェアしていた動画を見つける。

 そのタイトルは、「仕事で絶対失敗する人の特徴3選」──ふだんなら絶対見ないようなコンテンツであった。友人の紹介文句も胡散臭い。「すごい。おれ全部当てはまってるじゃん。直さなきゃ」案件かよ。青年は、最初その友人が何か悪いサイトのリンクを踏んでしまったのではないかと怪しんだ。


 しかし、青年はうかつにもその動画を開いて、観てしまったのである。


 ちょうど職場における上司との関係に悩んでいた時だった。彼自身、まじめに働いているつもりだったのにもかかわらず、やれエクセルの表の罫線が抜けてて見栄えが悪いだとか、話し言葉の定義が曖昧で困るだとか、やたらめったら指摘ばかりを受けていた。

 結果が出ていないのはわかる。しかしアドバイスが「わかっててもできない」のである。そのことを訴えてみたところですげなく跳ね返されてばかりだった。仕事は厳しい。いくら頑張りますとか努力のことを言ったところで、結果に結びつかないと詰められる。


 おまけにさんざん怒鳴られる。怒鳴ってなくても怒りを噛み殺しているのがよくわかる。おまけに息が臭い。ストレスが全身にみなぎってるのを面と向かって浴びると、精神的に消耗する。青年はそんな繰り返しの果てに、動画と巡り合った。


〝結果だけが全てとは言いませんが、結果を出せないと仕事にはなりません。だからこそきちんと成果が出るための工夫をしていかないといけません〟


 うんうん、その通りだ、と頷く。あとでよくよく振り返ると、仕事の仕方についてまとめているウェブ記事にも似たようなことが書いてあった。けれども読む気がしなかった。そんなものをなくても当たり前のことを当たり前にやればいいんでしょ、てどこかで思っていたのである。


 それに、文章で読むビジネスノウハウはどこかマニュアル的な──つまり、〝直に教わっている〟という実感がなかった。

 書き手の顔が見えないのである。あったとしても爽やかすぎるか、デザイナーが描いたような仕事ができそうな見かけのアイコンがサイトの左上にちょこんと乗っかっていて、自分とは違う世界にいる住人のようだった。


 ちょうどクラスの端っこに座って本を読んだり、ひとりでいることが好きだったりする生徒が、教室の中心で談笑している人を見るような目線が、そこにはある。青年にはそんな人物から教わるものは、自分のものにはならないという思い込みがあった。

 喩えるなら、接点もない人間から唐突に話しかけられ、とうとうと〝いかに自分は仕事ができるのか〟というプレゼンを聞かされているようなものだった。よほどその偏見を捨てて乗り越えたいと思うものがない限り、検索したウェブ記事で仕事を向上させようと思う人はいない。


 ところが、動画で説明されると違った印象がある。

 まず語り手の顔が見える。若手で、イケイケそうに見えつつも、どこか人付き合いが悪そうで、地味な親近感があった。その人の言葉の節々にはアニメ好きがよく使うスラングがあった。そこで彼は初めて、自分との接点を感じた。アニメ好きが仕事上手になっても良いのだという気づきを得た。


 いま思うとふしぎな偏見だった。しかしアニメや漫画にのめり込む人と、ビジネスで成功する人の間には、かなりの壁があるような気がしていた。実際にはそんなことはない。が、あまりにもその間にあるものを橋渡しできる人間がいなかったのだ。

 青年は初めてその橋を渡って良いことに気がついた。それがきっかけで初めて仕事を真剣にするための柔軟な思考が手に入ったのである。


 その後はひたすら、漫画やアニメを一気見するようなストイックさで、仕事に取り組んだ。

 実はやってみると案外大したことはないのである。毎朝早く起きて、十五分前に席について、PCを立ち上げる。メールを先に読む。メールフォルダは業務区分に基づいてサブフォルダを用意していて、フィルタ設定で常時仕分けられているから、緊急の案件が来ても大丈夫なようになっている。一通り見るものを見てから、タスクを書き出し、やる順番を決める。仮説を立てる。午前はふくざつでやりにくい仕事、午後は単純作業になるように割り振る……


 ぜんぶ動画で得た知識だ。しかし、実践をしていくにつれ、彼自身の知恵になった。


 それまで繰り返していた細かいミスを克服するにつれて、失っていた自信が蘇ってきた。上司は本当に嫌だったから後日転職することにした。インフルエンサーが「嫌な現場からは逃げろ」と言っていた。それに背中を押されて飛び出してしまえば、案外他所が居心地が良いことにも気付かされた。これもまたひとつの成功体験だった。

 そうこうしているうちに、彼は日頃の言動がインフルエンサーのそれに近づいていた。過激な発言をするということではなく、仕事ができるふうな喋りをするようになったということである。ふしぎなもので、以前はそういう喋りが恥ずかしいと感じていたものが、いまはそうでもない。はっきりと自分の体験談として身につくを感じていた。


「おまえさあ、さいきん付き合い悪くなったよな」


 そう言われることもあった。けれども仕事の愚痴しかしない同期や、高校時代の友人たちとの会話に飽きていたのも事実だった。決してインフルエンサーが〝愚痴しか言わないやつからは距離を置け〟という動画を見たからではない。それよりも早い段階で、違和感のようなかたちで、徐々に距離が開き始めていたのだった。

 それでもよかった。それで良いと言っている人の言葉が脳内をたくさん占めていたからでもある。青年は関連動画から、すでに沢山の言葉を受け取っていた。どれもこれも顔の見えるユニークな人々だった。そしてときに常識はずれでありつつも、とても参考になるアイディアと思考の持ち主だった。青年の向上心はそのすべてをとまではいかずとも、使えるものは積極的に使ってやろうと意気込むようになっていた。


 ところが、これが半年間続いてから、飽きてくるようになった。


「あー、この人また同じこと言ってるな。新しいのないかな……」


 青年は一日の業務を終え、定時で切り上げると、動画を開いた。しかしふだん教えを受けているインフルエンサーの動画の配信が、さいきんイマイチ刺さらないのである。正確には、青年はあまりにもたくさんの動画を追いかけすぎたせいで、最新の情報に追いついてしまったのだ。

 仕事において重要なことは、実はそれほど多くはない。それこそ青年が鼻で嗤ったように、〝当たり前のことを、当たり前にやる〟ということに尽きる。しかしその〝当たり前〟ができていないうちは苦しく、〝当たり前〟になってしまってからはまた道を外れていくようになる。


 青年はまさにそのツボにハマってしまった。それまでできていたことの質が落ちるわけではない。しかし、過去持っていた激しい向上心──やり込みの志しが失われてしまったのである。

 そして、あとに残るのは、退屈だった。


「なんかほかの動画でも見よ」


 そうして、エンタメ系の動画を見始める。見るとついつい面白くて、関連動画もビジネス系からエンタメ系へと切り替わり、今日は寝かさないぞと言わんばかりに無数の娯楽で散らかるようになってしまった。


「人生楽しくてナンボよな」


 そして、翌朝──


 目覚ましのアラームが鳴る。ベッドから手が伸びて、わざわざスヌーズを切る。日差しの差し込む枕もとで、掛け布団をしっかり頭まで被り直す青年がいた。今日も仕事ではあったが、それをまるで忘れてしまったかのように……


 人には強い思想と弱い思想がある。変わりたい時は強い思想を追いかけ、満足した時は弱い思想に腰掛けてしまうものであった。

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