趣味に溺れる
耳鳴りがすると思ったら、急にお腹が空いていることに気がついた。喉もカラカラだ。重たいまぶたをこする。いつのまに寝ていたんだろう。そう思って顔を上げ、点きっぱなしのPCの画面を見る。
午前二時四十二分──ああ、まただ。寝落ちはいつものことだけど、こんなに遅くなっちゃったら、寝直すにも徹夜するにも判断がつかなくなる。
青年はさながら浜辺に打ち上げられた記憶喪失者のように、ぼうっと部屋を振り返る。壁には無数の漫画や小説、テレビアニメシリーズや映画のディスクが入っており、かなりの蒐集家であることがうかがえる。趣味というにはやりすぎで、専門家というには安っぽすぎる。カネはあっても時間がないのが社会人。仕事の時間の合間を縫って、なんとか自分の時間を模索しさまよっている。
青年は恐らくどこにでもいるようなビジネスパーソンだった。感染拡大と同時期に就活をして、面接も研修もリモートではあったもののなんとか入社を果たした。それで安心というわけにはいかず、研修が終わったあとも部署が安定せず、オン・ジョブ・トレーニングとか言いながらあちこちを歩き回された。マスクをして、手洗いうがいをしっかりして──まだ感染の波が荒れ狂っていた頃だから、たびたびガラ空きの電車を見た。
ときどきリモートワークをした。在学中はアニメ・漫画研究会と銘打ったオタクサークルだったから、背景の単行本が気になって仕方なかった。作業の合間に読むとかなり時間が吹っ飛んだ。これじゃあレポートサボってる大学時代と何が違うのかわからなかった。
上司もリモートワークに慣れていない。だから都合が悪いとすぐに通信環境のせいにできた。意識の高い同僚にそのことを話したら眉をしかめられたが、別にこの時代に意識の高い低いも知るかと思ったものだ。日本の大企業がもうダメだと言われてからすでに久しい。だからといって、GAFAに就職できるような逸材を目指したところで所詮は会社員であることに変わりはない。
それに──仕事を頑張らなくても、給料が出る。ネットニュースやSNSではよく仕事がなくなることや生活が追い込まれる人の話を見聞きするものの、青年の生活は、独身であることを含めてもそれほど困窮していなかった。ただ朝起きて、会社支給のPCを点けて、メールとチャットをやりとりして、終わり。定時前のあいさつも飲み会もしなくていいので、思っていたよりも気が楽だった。
すると、暇になった。
もう少し多忙になると思っていたはずなのである。たぶん世の中は混乱の真っ只中で、貧困に喘いだり病気に苦しんだりする人がいるのはわかっていても、そういう過激さとは反対に、やたらとひとりの時間を持て余すようになってしまった。
これで、外出ができるんだったらまだ良かった。しかし世の中はまだ余裕がない。うかつに外食に出てウイルスをもらってしまうのも嫌だった。するとどうしても引きこもり生活になり、サブスクドラマや気に入ったアニメの円盤収集に励んでしまう。
そのうち、そういう消費すらも飽きてきた。ありとあらゆるエンタメが類型的な──つまりやってる人が違うだけでやってることは大して面白くないということがなんとなくわかってしまうと、もうダメだった。
しかし不思議だったのは、焦りの感情が強く出てきたことだ。そこで彼は気づいた。つまんなくなったのはエンタメのほうじゃなくて、自分自身のほうじゃないか、と。
外に出るわけじゃないから、話題があるわけでもない。仕事はルーティンで決まりきったことが多い上に、守秘義務がある。おかげでときどきリモート飲み会があっても、愚痴と下ネタと思い出話しかできない。そんな程度の話題では、三回やったらテーマが尽きる。あとはこのグダグダした空気のエンドレスループに埋もれる図々しさが、あるかどうかだった。
青年はそこまでふてぶてしくなかった。要するに動かずにいられるほど強くもなかったのである。そこで、何か新しいことを始めようと模索した。そういえば昔から好きだった漫画やアニメ、ライトノベルのシナリオのネタがあったことを思い出した。Web投稿サイトがある。そこに書き連ねて出してみよう。そう思い立って、つらつらやり始めた。
最初は思いがけず楽しかった。自分の知らない世界に漕ぎ出したときは誰しも気づきと発見があるものだ。自分で始めたことだから失敗も笑って過ごせる。
青年にとって意外だったのは、誰かよく知らない人間のテキストをエンタメとして楽しむ読者がいることだった。動画配信者や歌い手、絵描きなどと違って、小説を書くことはその人の人柄や作風が見えにくい。ことばの並び方や使い方で雰囲気が伝わることはあるが、まずは開いてもらわないといけない。その点に関して、視覚的な完成度の高い動画のサムネイルや歌ってみた動画、イラストには勝ちにくいわけである。
しかし、読者がついた──
意外であると同時に悦びにもなった。それもそのはずで、妄想とはいえ自分よりアイディアを心待ちにしてくれる誰かがいるということは、素晴らしいことなのだった。それは例えるなら無人島に流された人間が必死にヤシの葉に文字を刻んで送り出した救難信号を、初めて誰かに届いたと実感できた時の飢えから来る悦びなのである。
青年はそれがきっかけで創作活動に励むようになった。まさに退屈な社会人生活の新しい希望であったのだ。退屈紛れの妄想に、初めて活路を見いだしてやれたのだから。
彼が書いたのは、最初は小説というよりはセリフの掛け合いのような粗末な小話だった。それが読まれることで、具体的な感想が付くことで、洗練された。言葉はセリフとなり、セリフは誰かのことばになり、その誰かが具体的な固有名詞を持ったキャラクターになった。彼はそこに自分自身の人生で見聞きしたものの断片を混ぜた。すると理科の実験でまばゆい変化を見せた時のように、想像が生き生きとしてくるのを感じた。このキャラクターは実在する! その感動が初めて自分の中で生まれた。
読者も同様だった。ときどき心無い感想が来ることもあったが、それ以上に熱烈な読者のことばが悦びになった。面白いことに自分が感じたことと同じようなことを感じる人が多いようだった。彼らは青年の書き表したキャラクターを実在のアイドルのように捉え、その特徴や失敗や振る舞いにはっきりと好きと書き込んでいた。
ただ面白いことに、それで褒められているのは青年自身であるような気がしてならないのである。
実際、最初は単なる妄想も割り切って書いていたはずのキャラクターやストーリーが、青年の中で徐々にリアルなものになっていた。遠距離恋愛でもしているように、仕事中でも、ご飯を食べているときでも、自分の書いたキャラクターのその後が気になって仕方なかった。自分の想像と体験から生まれてきたはずのものなのに、どんな映画やドラマよりも予想がつかず、劇的な展開に満ちているように感じた。
ついには業務中でも長トイレのフリをして小説を書くようになっていた。さいわいやる気のない職場である。離席時間がよほどでなければ見向きもされない。業務中に思いついたアイデアをスマホのメモに書き込んで、ある程度まとまったら洋式便器のレバーを引く。そしてさもあらんという顔をして、席に戻って仕事を再開する。
こうして一日の大部分が、趣味の時間になっていった。
付き合いも悪くなった。たぶん自分の妄想と戯れていたほうが楽しかったのだ。変わり映えのしない友人、同じ話題を忘れた頃に繰り返す飲み会、劇的な達成感に欠ける仕事──全部がぜんぶ、退屈だった。もちろん面白くなくてもやらなきゃいけないことがある。それをするのが大人というものだ。けれども面白くてやってる人には敵わない。例えば自分自身が退屈で仕方ないと感じている仕事であれ、勉強であれ、楽しくて面白がっている人間がいるかもしれないのだ。青年にとってはそれがたまたま小説を書くことだったというだけだった。恋愛でも、仕事でも、園芸や料理ではなく──
結局、その日は二度寝した。
おかげで翌日は眠かった。ここのところあくびが止まらない。上司にも良い目で見られてなかったが、どうでも良くなっていた。明日の投稿分の展開をどうしようか、あのキャラクターの恋路はどうなるんだろうか。そういう妄想が、すっかり目の前の現実を覆って無意味なものにしてしまっていたのだ。
「おまえ、最近愛想ないよな」
隣席の同僚が、話しかけた。彼は同期だったはずだが、出世コースど真ん中で資格取得もしていまや係長補佐になっていた。いずれは相応のポストに着くだろう。給与も多いし仕事も出来るから、定時にさっさと帰る。
青年としては、定時に帰れることだけが羨ましかった。
「そうかな。仕事はちゃんとやってるつもりだけど」
「仕事は、な。でも髪型も服装もちょっと荒いぞ。客先なんだからしゃきっとしろよ」
「うーん」
「今度美容院紹介してやるよ。その寝癖ヘアもちゃんと見られるようになるんだからさ」
「まあ、考えとく」
「いやだめだ。来週土曜、絶対な」
お節介だ。彼の説く論理など、海の向こう側の国が振りかざす礼儀作法のように鬱陶しいものだった。
青年はあくびを噛み殺した。そのしぐさがまた癇に障るらしく、彼のイライラしたまなざしを受ける。
しかし同僚がピリピリしているのは他に理由があった。なにせいまは全社の全体朝礼の真っ只中だったのだ。この朝会では会社の数字や来期の目標についても語られる。仕事への意識が高い同僚にとって、この朝会ではいくら聞いても足りないくらいの情報の宝庫なのだった。
それでも青年にとっては、トロブリアント諸島の貝殻のようにしか見えなかったのだが。
「えー、さて、今日は重大な発表がある」
社長のあいさつが始まった。都内に複数事業所のあるこの会社では、全体朝礼はオンラインで接続する。社長は本社の重要会議室から画面越しに、今年の経営数字がまたしても赤字だったこと、感染の波が不定期で今後の経営に支障をきたしていること、リモートワークになってから利益率が下がっていることなどを、校長先生のお話のように気怠い物言いで説明したあとに、そういった。
普段と違う。何かやな予感が執務室の間を駆け抜けた。そしてそれは案の定当たった。
「弊社は経営困難となり、今後は○○商事と共同経営と言う形になった。人事については後日連絡するが希望退職者を募らざるを得ないため……」
「おいおい、うそだろ」
「まじかよ向こう十年は耐えられるって聞いてたのに」
「見通しミスってんならこの企業も先はないかもなー」
同僚たちの落ち着きのない態度を脇目に、青年は不安よりも面白みのほうが上回っていることに気がついた。飲み会に行かなかった分、貯金もあるから一年ぐらいはどうにかなるだろう。いっそのこと小説家を目指してみようか。そんなことを考えながら、眠気が覚めていくのを実感した。
すでに自分は脱出ボートを持っていたのだった。沈みゆく大船にしがみついたり、見放したりするような群像を見ながら、青年はただひとり、ネットの海の島々に思いを馳せる。いつか溺れてしまう、その日まで。