自分自身という症例
「あー、やっぱりジコジコしちゃってますねえ」
「ジコジコしてますか」
「ジガジガもひどいです」
「そうですか、ジガジガもしてますか」
脳波や心拍数のグラフを見せられたって、何が何だかわからない。患者は壁に貼り付けられた半透明の紙を眺めながら、医者の言うことにただ耳を傾けていた。
患者は昨晩救急搬送されたばかりだった。突然、仕事ができないほどの胸の苦痛に襲われて、救急車を呼んだのだ。そしてたくさんの検査を受けて医者の前に差し出された。まるで注文の多い料理店のように、やたらといろんな指示と検査を受けた、その結果やいかに──と思ったところでこのことばだった。
「で、わたしはどういう症状なんです?」
いまは胸の痛みはない。いたって健康で、むしろ放置した職場のほうが気になって頭が痛いぐらいだった。
「なんというか、説明がしにくいのですよ。いちおうちゃんとした病名はあります。〈突発性自我発生症候群〉っていうんですがね」
「とっぱつ……ジガ……?」
「でしょう。たぶん知らないと思いますから、これからなるべく平易に説明したいと思うのですが」
すでに〝分かりやすくする〟ことを〝平易に〟と喋っている時点で、ほんとうにわかりやすくなるのかは不安だった。
「まず、あなた──自分をどういう人間かということを説明したことってあります?」
「ええと、たぶん、ないです。転職活動の面接の時ぐらいでしょうかね」
「フム。しかしそこで話したのは経歴とか仕事での実績ぐらいはないですか?」
「それ以外話すことがありませんから」
「しかし、あなたと言う人間は職歴や仕事の体験談だけではできてませんでしょう?」
「はあ」
「ご家族は? 交友関係や恋人の有無は? SNSとかやってますか? あと、趣味は? ふだんの行きつけの店とか、考えの癖とか、わかります?」
「いえ、その」
「たぶんだいたいの人って説明できないと思うんですよ。わたしも長年いろんな人の痛いところ痒いところを説明してきたつもりなんですけどね、ちゃんと話そうと思えば思うほど、否定されるんです。〝そんなことはない! わたしはいたって健康だ!〟とか〝この診断は間違いじゃないんですか?〟とか。ひどいときは過去の誤診のニュースとかセカンドオピニオンって言いましたっけ……よその医者から持ってきたよくわからない診断書を出して、だからお前の言うことはインチキなんだって突き返す人もいます。でもね、あなたがどんなふうに自分のことをよく理解しているつもりでも、検査するとちゃんとダメなものはダメって出るんです」
「そうなんですか」
だから、どうしたっていうんだろう。それに救急車で運ばれた先でいきなり哲学的な問答になるなんて、思ってもみなかった。
「じゃあ、何がどうダメなんですか?」
「おお、あなたはすんなり受け容れられるんですか?」
「ええ、まあ。診断書にもそう書かれているわけですよね?」
「そうだねえ。でもそうなるとむしろ不思議なことになった。この病気は、自同律の不快──おっと失礼。噛み砕くと〝自分が自分自身である〟っていう思い込みが激しいと起こる症状なんですけど、あなたからはまるでそれが感じられない。なんでだろう?」
「なんでだろう、てあなたそれは無責任じゃありませんか?」
「医者がなんでも知らなきゃいけないって法律はありません。わからないものはわからない。そう言うほうが誠実だと思います」
話にならないな、と思った。患者は眉をしかめる。
「では、いまのわたしはいたって健康で、さっきの……ええと、ナントカっていう病気がぶり返す予兆はない。そうでしょ?」
「まあ、たしかにそうです」
「もう帰っていいですか? 仕事があるんで」
「いやいや、それはよろしくない。理由がはっきりしないということはまた起こるかもしれないということじゃありませんか。どうかおすわりになって、もう少しお話を聞かせてください」
しかし、座ってみてもヒアリングはなかった。医者による説明が続くばかりである。
「この〈突発性自我発生症候群〉ってのは、放っておくと怖いんです。別名を〝死に至る病〟って言いましてね。これに罹ったら最後、死ぬことだってあるんです。直接死を招くんじゃありませんよ……うつの原因になったり、心臓麻痺の理由を作ったり……とにかくまずいんですって。このまま何もわかりませんでしたーでおかえしするのは」
「はあ。しかし、かと言ってどうすれば何がわかるんですか?」
「その態度はよろしくない。さっきの続きなのですが、この病気の本質は、〝わたしはわたし自身のことがよくわかってる。だから誰にも口出しする権利はない〟って思い込むことなんです。これ自体、よくあることかもしれませんが、強くなりすぎるといけない。ちょうどメタボリック・シンドロームってありますでしょ。あれは即死するほどの病気じゃないにしても、万病のもとなんです。いわば心の太り過ぎというか、栄養過多みたいなもんです」
「心の……太り過ぎ?」
「ええ。別に食べることが悪いわけじゃないでしょう? しかし食べすぎると悪い病気を呼びやすいじゃないですか。食べなさすぎても同じですけど、まあ要するに自意識ってヤツが過剰なんです。昔はメンタルヘルスってことで精神科医の専門だったんですけど、フィジカルにも害が出るようになったから一般診療の枠でも受けいれられる症状になりました……」
こんな時代じゃ誰もが病人ですよ、と医者は自嘲的に微笑む。
それから、思い出したかのように質問を繰り出した。
「ああ、そうだ。最近人を見下したことは? 自分の仕事はちゃんとしてるのに、なんであいつはこんなこともできないんだろう……とか、そういうふうに他人を下げて自分を上げようとする心の動きなんてものはありましたか?」
「そんな、めっそうもない。わたしはそれなりの仕事を任されてはおりますが、毎日実力不足を感じてばかりで……」
「ふんふん。すみませんが、具体的な職業をおうかがいしても?」
患者はみずからの職業を公開した。
「すごいじゃないですか! これから大活躍のお仕事ですよ。自信を持ってくださいよ」
「いや、たまたまなっただけの仕事です。それほどでもありません」
「いやいや、続けていらっしゃるだけ素晴らしいです」
「いやいやいや」
「いやいやいやいや」
患者は次第に頭が痛くなってきた。動悸も激しくなっている。
医者はそのことにまだ気づいてない。まだ真相があるはずだと問診を繰り返す。
「しかし──いまのでなんとなくわかりました。そうか、あなたは自己肯定感が低い。そういう人って、周りが思っている自分自身を否定しがちです。でもね、それは〝みんなが良く思ってる自分は間違いだ〟っていう思い込みなんです。要するにあなたは褒められすぎて、それを嫌になっちゃった。謙遜しすぎということだ。なるほどなるほど」
患者の頭痛は酷くなった。心の奥も強い痛みで締め付けられている。どうしてだろう。こんなに丁寧に自分の苦しみを客観的に言語化したというのに、どうしてこんなに説明されることが嫌な気持ちになるんだろう?
患者は黙ったままうずくまるように前傾姿勢になった。そしてそれきりうんともすんとも返事をしない。
「おや、どうしたんですか?」
患者はそのまま血の気が引いた顔を上げて、ぐったりと倒れてしまった。医者はああっ! と声を上げて患者を抱き起こした。
「大変だ。すぐに手術室へ運ばせよう。こんな過剰な自意識はすぐに切除してやらねばならない!」
時はいつか、所はどこか──この世界では心は実体を持って物理的に手術が可能になっていたのである。