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ワン・アイデア・ストーリーズ  作者: 八雲 辰毘古
半径5メートルの非日常
19/26

あるビジネスシーン

「うーん、この資料、もうちょっとどうにかならん?」

「どうにか、ですか」

「うん、具体的にはね……」


 そう言って主任は赤ペンで細かく語尾の「です・ます」調と「だ・である」調のずれにひとつひとつチェックを入れた。

 他にも箇条書きの規則の乱れ(例えば、列挙なのか順番なのか)、表の作り方や名詞の微妙なニュアンスの違い、業界用語やら何やらを指摘していく。


 ここまで丁寧な赤入れを見ると、むしろ惚れ惚れしてしまう。大学時代の教授だったら「不可」の二文字で片付けるところを、この主任は人が良いのか、これでもかというほど解説と手ほどきをしてくれる。

 もっとも、おかげで残業が捗ってしまうのは、個人的には嬉しくないのだが。


 しかし文句を言ってるわけにもいかない。むしろ怒鳴られないだけマシなのかもしれないのだから──


 コロナ禍でズタズタにされてしまったぼくらの就職活動は、靴底の代わりにありえないほどの精神をすり減らした。

 例年よりもたくさんのエントリーシートと、オンライン面接の予定を掛け持ちして、静かなところを探す。スーツを着たまま自宅でやることも少なくなかった。ご時世がご時世なので先輩たちのノウハウもまったく役に立たず、それどころか面接先のOB・OGとの交流さえも断られた。2020年、大学四年生を迎えたぼくたちは、大人さえもが戸惑うさなかを手に職得るために必死だった。


 せっかく得た内定も景気のせいで取り消され、就職しても研修も仕事もないまま放置されるようなかつての同級生の話を聞くたびに、こうしてちゃんとオフィスに出て働けることの重要さを思い知る。もちろんウイルスは怖かったけれども、在宅待機で遊び放題と言い切るほどぼくらは豪胆でも図々しくもなかった。ただ働くためにスーツを着たにもかかわらず、働く場所が与えられない恐怖にただ怯える。それはさながら出荷を止められひたすら鮮度を落とすしかない野菜のように。


 ぼくは長野県の農家の子供に生まれた。だから、大学に出てすぐに都内にひとり暮らしをしていた。感染拡大時には実家から心配を掛ける通話が絶えなかったが、無事就職しても帰省することは許されなかった。万が一無症状感染だったら持ち帰るわけにはいかなかった。それはぼくも承知していた。けれどもおかげで帰省できないまま、孤独に一年を耐えなければならなかった。

 就職できたと判明した時、スマホ越しだが万歳をもらった。沢山の故郷の言葉が懐かしくて嬉しかった。しかしそれもその時だけで、しばらくしたら本格的に働き出して、それどころじゃなくなっていた。


 まず、研修。ビジネスマナーとビジネスモデルの勉強。それから業務知識。工場見学。などなど。

 言い忘れていたけど、ぼくはある化学製品のメーカー付き営業になったのだ。だから毎日アポを取って、製販ルートを開拓して、プレゼン資料を作っている。研修が終わってからはオン・ジョブ・トレーニング(OJT)だとかで、ひたすら先輩に就き回って手伝いと挨拶回りでいっぱいいっぱいだった。


 SNSではOJTのことを「研修費用に時間も金もケチった企業の、上辺だけの言葉」と揶揄されがちだが、やってみると案外先輩が優しくて、言うほど気難しくはない。

 もちろんそれは先輩の人柄が良いだけの話で、他の同期から聞く限りだとピンからキリまでいるらしい。とはいえ、ぼくの先輩だって定時に帰らせてもらえないという点では決してホワイトとは言えない。現にこうして資料の訂正に張り付いているだけで、ホラ、時計が四時、五時……と短針を垂らしていくではないか。


「できたか?」と先輩。

「まだです。もうちょっと」

「なるはやで頼む。明日朝一なんだ」

「はい」


 ようやく直した時には、定時を三〇分過ぎていた。


「んー、いや、この文言砕けすぎてる。昨日見せた別のスライドあるだろ? あそこに同じ名前の項目あるからそこからコピペして」

「え、あ、はい」

「それと……そうだなあ。ここはとても良いよ。教えたことがよく生きてる。表の作り方もセンス磨かれてきたじゃんか。見やすい見やすい」

「ありがとうございます」


 と言っても、その表のデザインは先輩の過去資料からのコピペで編集したものだった。


「この調子ならひとりで客先出しても怖くないな!」

「そんな……」

「萎縮すんな。いままで頑張ってきたぶん成長したってことだよ」

「そうなんですね。がむしゃらにやってきたから実感なくて」

「いやいや。よくやってるよ。助かる」


 何か飲み物買うけどいるか? と訊かれたので甘えてお茶を頼んだ。お安い御用で、と優しく奢ってもらった。大したことではないのだが、かつて大学時代、こうして先輩に甘えて奢ってもらえるような人間でなかったぶんだけ驚きが大きい。


 大学の頃は、少なくともレポートひとつ出すのに三週間も頭を抱えていたような人間だった。たくさんの本を読み、たくさんのネット記事を読み、友達の知恵を借り、それでも「平凡」と罵られるようにかろうじての「可」判定であったぼくが、大学時代は決して誉められないコピーアンドペーストの応酬で社会の役に立っている。その上で社会に評価され、公共の場で伝わる言葉に置き換わっていく。これは果たしてぼくの成果なのだろうか。ちょっと違うだろう。ぼくは就職を決めた時点でぼくという個人ではなかった。会社の中の一人、という組織のパーツになったのだった。


 かつては会社の歯車になることは、組織に個人が食い潰される恐怖として考えられていた。いまでもそういうふうに考える人は少なくない。けれどもぼくのような──誰かと競って主張するほどの自己も個性もないような人間にとって、むしろ組織というのは居心地が良かった。自分を主張しなくていいし、過去の事例とフォーマットを借り放題だし、多少のアレンジを加えるだけでお役に立てる。もちろんこの土台・フォーマットを作った先達には感謝したいけど、その大部分は死んだか他社に行ってしまった。残されたぼくたちが、骨をしゃぶるように組織を作って群がっているというと聞こえが悪いだろうか。しかしおかげで、大学時代よりも生き生きとした社会人生活を送ることになっている。


 むしろ、大学の頃に個性の塊だった人たちの方が生きづらそうだった。というのも彼らは疑うことを覚え、フォーマットに乗らず、組織の言語の前に自分の言語を持っていたからで、そうなるとそのいちいちに翻訳の工程が指し挟まる。通訳が間に入るだけで会話がもどかしくなるのと同様で、個性の強い会社員がまだ組織に馴染まないうちは、このもどかしさがストレスになり、疎ましさにつながってしまう。その摩擦で疲れて引きこもった人もぼくは知っている。

 ぼくは、少なくとも言われた通りのことを、言われた通りにする才能があった。だから組織で生きることについては、とても生きやすかったと言っていい。最後の指摘修正が終わった時、ぼくは資料のタイトルを確認した。そこにぼくの名前はなかった。


 翌日、先輩が上司相手にプレゼンをする。そのスライドはぼくが手がけたものだったがアイデアのほとんどは先輩のものだった。先輩発のアイデアが、無数の検索エンジンと辞書で日本語に濾過されて抽出される。そしてそのエッセンスを図表の器に盛り付けて、出来上がったのがこの資料だった。そこには書き手の顔は見えない。

 第一最初にアイデアを出したという先輩だって、それをどこから出したのかを考えたらキリがない。世間のニュースかもしれないし、ビジネス系のインフルエンサーの発言からかもわからない。少なくとも、先輩の身体を通過した誰かの言葉であって、要するにこうして書いて読んでいるぼくら自身、自分以外の誰かの言葉でほとんどできあがっているんじゃないかということ。そのくせ、調べて考えて添削しているうちに、「これは俺のものだ!」と思い込むようになっていること。この辺、突き詰めるとほんとうにびっくりするほど愉快な話だと思う。


 つまり、ぼくたちは言葉を使っているようで、言葉にていよく使われていた。というわけである。

 ぼくは真面目な顔をしつつ、ぼんやりとそんなことを考える。珍しく小難しいことを考えてしまった。いけないいけない。


 ぼくはあらためてはつらつとしゃべる先輩の横顔を見た。ぼくもいつかあんな立派な大人になるのだろう。そう思うと、自分の未来に少しだけ展望が見えた気がした。

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