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ワン・アイデア・ストーリーズ  作者: 八雲 辰毘古
半径5メートルの非日常
17/26

怖いもの見たさ

 死ぬのが怖かった。

 けれども死ぬ夢ばかり見た。


 はじめはうっかり見たホラー映画だったと思う。暗闇を歩く人が突如として怪物に喰われてしまう映像が、夢の中にふっと出てきてぼくを怖がらせた。

 ちょうどぼくが小さい頃見ていた特撮ヒーロー物で、本格ホラー映画にも引けを取らない怖さの怪物が人を襲っていたから、その影響もあったかもしれない。とにかく残酷で、ショッキングで、そしてリアルな映像がぼくの周りには多かった。


 特に、人が怪物に変身する瞬間──CGとかを駆使して、本人の意志とは全く関係なく砂とか緑色の肌とかに変化していく様子とかが、怖くて怖くて仕方なかった。

 布団をかぶってもそんな妄想から逃れようもなく、夢に忍び込んでは寝苦しい夜を過ごしたものだった。


 さて、そんな妄想に取り憑かれた期間が長かったのか、ある時から真っ昼間に「もしこんな怖いことがあったらどうしよう」ということを空想する癖が付いてしまった。

 例えば、高い建物の上層階の窓から下を見下ろした時──このままもし窓が何かの拍子で割れて、そこから落ちたとしたら……


 きっと、自転車なんか比べ物にならないくらいの速さで風をうけて、硬いコンクリートに叩きつけられるんだろう。

 そしてそれは、ジャングルジムからパッと手を離して落っこちた時のうん十倍も痛いに違いない。考えたくもない。考えたくもないけど、もしもそんなことが起こってしまったら──という空想は、ほんの何気ない拍子に発生してしまうのだ。


 ほかにも、川沿いの橋の手すりに寄っかかって、もしこのまま前のめりになりすぎて、ポッケに入ったスマホが落ちたら……


 その時はがっかりするかもしれない。けど現代においてスマホに入った情報はあまりにも多すぎる。友達との連絡網、親とのつながり、インターネットにつないだままのサイトや動画のURL、思い出の写真、たぶんそのほとんどが消えてしまう。

 それは痛いとか辛いではないけれども、恐ろしいことではあった。ほんとに何気ないことでフワッと何もかもが消えたしまう──そんなことは、探そうと思えばどこにでも転がっている。


 それとこれの合わせ技で、なぜか橋の欄干に身を乗り出して、人がギリギリ立てそうな場所を綱渡りで歩くことを空想することもある。パルクールとかでよく見る、危険極まりない場所の数々──そこにもし自分がいたらと思うと、ぞくっとする。

 ぼくがその場にいたら、きっとどんなに警戒していても手汗で滑ってドカンだ。ゲームであれば「あー、やっちゃったー」で済む物が、現実ではそうもいかない。リアルのいのちはたったの一機しかない。どんな事故であってもそれを失くしてはならないのだ。


 そういうことを勝手に考えては、怖くなって足がすくむ。胸が締め付けられる。


 なんでそんなことを考えてしまうのか。実のところぼくはなんにもしてないし、何にもされちゃいない。ただ想像力が豊かで、自意識も過剰で、心と体がズレていて、ふわふわとありそうなことをあったかのように語ってしまう思考の持ち主だった。

 そういう人間にとって、自分ごとじゃないいろんなものが怖かったし、痛かった。


 かつてガンマンごっこで泣いたことがある。エアガンでも、輪ゴム弾でもない。ただ銃の形をしたブロックを向けられて、「バーン!」と声を掛けられただけなのである。しかしぼくはその時、ほんとに撃たれたと思ったし、死んだと思った。

 痛みはなかったが、なんでそんなことをされなきゃならないのか、ただ理不尽に泣いていたような気がする。


 小さい頃は、とにかくどうでもいいことで「死ね」というし、「死んだ」と言う。アリをいじめて楽しむこともあるし、鬼ごっこやテレビゲームで失敗するたびにあの世に行ってきたふうのことを口ずさむ。そうやって安売りするうちに、死ぬことなんて大したことじゃないよと言いたいのが子供時代というものだった。しかし、ぼくはそのひとつひとつに対して、そこまで言わなくてもいいのに、と心のどこかで思ってた。と、同時に、もっとそういう怖いのを見たい、と思ってた。たぶん、死ぬ死ぬ言ってる嘘が嫌だったんだと思う。ほんとに死ぬってことがどういうことかわかんないくせに、平気で言葉にしてしまう周りの人達の軽さについていけなかったんだと思う。


 初めて人の死を見たのは、曽祖母が亡くなった時だった。

 明治時代から生きていた人だった。その長い生涯の最後の方では健忘症に陥り、ぼくのことを憶えてもらえなかったけど、至っていつまでも元気な感じがしたものだった。しかしその顔が冷たく、苦しみもなく、静かに眠っているのを見て、ぼくはゾッと鳥肌が立つほどの完成度に驚いてしまった。みんながああだこうだというほどのこれっぽっちも辿り着けないような、どこでもない場所にするっと吸い込まれてしまいそうな──そんな向こう側の景色をちらっと見たような、不気味だけど神々しい感じがした。


 後になって文学者が死を美化してしまうのは、もしかするとこういうことがあったからかもわからない。少なくとも、ぼくが見たのは病気で亡くなった場合だった。

 つまり、生前は病気で苦しんでいた顔だったということだ。それが抜けた顔が死に顔だったというのは、平和で安らかな社会に生きたぼくたちの恩恵なのかもわからない。ただぼくはこの体験のせいで死ぬことに対する不気味な憧れというか、より一層親近感を持ってしまったのは確かだった。


 小学校高学年になって、いじめとか受験戦争が過激化すると、ニュースでも自殺の話がよく出た。ぼくはいじめられる側で、ニュースで誰かが死ぬ度に、次はぼくの番かもと思ったりしたものだった。

 別に誰かかが殺しに来るわけでもないのに、妙な話だった。しかしあの頃のぼくは間違いなくハッキリとそう思っていた。机に彫刻刀で「死ね」と彫り込まれたり、トイレの汚水を突然掛けられたり、机の山の中に放り込まれたり、掃除器具ロッカーに閉じ込められたりした時に、ああぼくはそろそろこの世からおさらばしないといけないんじゃないかと、思ったりしたのだった。


 けど、イザさあ死のうかと思った時、怖くなってしまった。

 どうやって死ぬかにもよるけれども、車に轢かれるのだって、屋上から飛び降りるのだって、どっちにしたって痛いのだ。たかがジャングルジムから落ちるのだって痛いのに、それがうん十倍になったら、果たして耐えられるのか。耐えられるんだったらそもそもそれは自殺とは言わないのだけど、ぼくはうんと考えてしまった。


 時代が時代だったので、睡眠薬による自殺は選択肢に入らなかった。ぼくは死ぬ可能性にばかり想像力が豊かだったくせに、本当に死ぬためにどうすればいいかということに対する想像力はまるでなかったのだ。

 だから、結局諦めた。できないと思い込むことで、それは単に「怖い」だけのもので済んだのだった。


 いじめは結局時間が経って解消した。いじめっ子はどうしようもなかったが、中学受験で進学すれば二度と会わなかった。だからぼくは結局、なんてことのない、暗い過去があるだけの、死なずに済んだひとりになれたというわけだった。

 唯一、行った先の学校で、自殺者が出た。飛び降りだったらしい。ぼくはその人になりきって落ちるシーンを想像し、ゾッとした。そしていよいよ、ほんとうにやらなくて良かったなんて、思ってしまったのだった。


 ぼくは自分が勇気のない人間でよかったと思う。というより、行動力のない人間というべきか。とにかく、想像だけで済めば良かったことなんて山ほどある。

 怖いというのはそのためのブレーキなんじゃないかというのが、ある意味ぼくの人生論でもあった。

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